婚約破棄から始まる転生悪役令嬢の宗教改革

睡沢夏生

1346年 はじまり

第0話 出荷

「オレリア様、お気を確かに」


 侍女が必死になって背中を擦ったり、扇で仰いだりしてくれるのはありがたいが、オレリアとしては甲板に出て新鮮な空気を吸いたかった。


「うぇ……ぎぼぢわるい」


 人生で初めての船酔いだ。

 食事を控えたのがかえって良くなかったのだろうか、ひどい吐き気で気品も何もあったものではない。

 つい先ほど、船長に「外の空気が吸いたい、甲板に出たい」と伝えた時は「貴女様のような高貴なお方にお寛ぎいただける状態ではない」と丁重に断られた。

 今のオレリアを見ても彼は同じことを言えるだろうか。


「アンナ……お水と、できれば清潔な布も」

「はい、直ちに!」


 侍女が船室を飛び出していったのを見送って、大きく息を吐く。

 息苦しさは船酔いだけが理由ではない。ただの少女オレリア・アルノワとしてではなく、ガロア王国の王女としての丁重な扱いがオレリアの呼吸を詰まらせる。


「やっぱ、慣れないな……うぇ」


 こみ上げたものを木桶に吐き出す。鏡はないが、あればきっとひどい顔が映るだろう。父親譲りの鈍い鋼色の髪も今日ばかりは力強さが見られない。

 とても嫁入りの道中とは思えない有様だ。

 この船が海峡を渡り終えれば、オレリアは西方の島国であるレフコス王国の第一王子との婚約を公表することになっている。

 よくある政略結婚だ。

 辺境の小さなレフコス王国は大国のガロア王国から人質を預かり、代わりにガロア王家の血を引く世継ぎの誕生を受け容れる。他にも様々な政治上の都合が不幸にも積み重なり、噛み合って、7歳の王女が婚約のため異国にお引越しという異常事態につながった。

 オレリアに拒否権はなかった。

 年齢がまだ7歳であることはなんの言い訳にもならないし、実家の蔵書を読み終えていないなどと我が儘を言える立場ではない。


「うっぷ……まあ、拒む気もないけれども」


 むしろ、実家には感謝している。

 オレリアは転生者だ。生憎と記憶は断片的にしか残っていないが、現代日本で生まれ育った成人男性だったことは覚えている。

 その分、オレリアとして産声を上げたあとの混乱はすさまじかった。真っ先に自分の正気を疑った。肉体が赤子になって出産される夢なんてものを見るようになったらいよいよ限界だ。

 もう7年間この世界で過ごしているが、オレリアはまだ自分の正気を信じきれていない。当然だ、誰が正気を保証してくれる? もし誰かが保証してくれたとして、その誰かは正気なのか?

 どれだけ疑わしかろうと、今感じている吐き気とめまいは本物だった。


「戻りました!」

「ありがとうございます、アンナ」

「姫様が初めての船旅だってことを失念していましたよ……さ、口を開けてください。少しぬるいですが、ご容赦を」


 侍女があれこれ世話を焼いてくれるような身分に生まれたおかげで、船酔い程度で苦しんでいられる。船旅の途中でも真水で口をゆすげるし、清潔な布で口を拭える。

 なんの因果か、第二の人生を得たわけだ。それをあっさり失うような生まれでなかったことには心から感謝している。

 だから、オレリアは自分が政略結婚の駒として送り込まれても構わないし、それくらいの恩返しはしてもいい。

 それはそれとして船酔いは辛い。こういうときばかりは前世との間にある生活水準の大きな隔たりがもどかしかった。


「経口補水液の塩分濃度って何パーセントでしたかね……」

「何かご所望ですか?」

「いえ、大丈夫です。……船酔いって奇跡でどうにかなりませんか?」

「聖職者が同乗していれば、なんとかなったかもしれませんね」

「そうでしたね、私としたことがとんだうっかりを……うぇっぷ」


 レフコス王国。

 顔も知らない婚約者がいるその国へ、オレリアは一刻も早くたどり着きたかった。

 これ以上船酔いがひどくならないうちに。

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