第2話:影の中の悪夢


 薄暗く凍てつくような廊下は、教室以上に不気味で重たい空気が流れていた。何というか、空気に密度があるような、水中にいる時のような、体に纏わりつき動きにくい。しかも、気のせいかもしれないが、あらゆる影や暗闇から視線を感じる。

 そんな空気など関係ないように、後ろを歩くイエシキと服部の会話が聞こえてくる。

「なんでお前、付いてくるんだよ」

「いや~、いやはやだよ、いやはや。僕もここを出たんだがね」

「さっさと出てけばいいだろ」

「共通言語が必要なんだよ。互いを認識し合う共通言語がね」

 全く会話が噛み合っていない。

 様子を見れば、イエシキは服部を見ることなく、壊れたラジオを取り出し、それに向けて話しているようだ。人の目が見れないタイプの人間らしい。

「共通言語ってなんだよ。お前は言語じゃなくて、会話が共通じゃねぇだろ」

 江刈内は呆れながら振り返り、イエシキに向かって口を開いた。

 自分でも驚いたが、あまり面識のない人間に向けてはトゲのある言い方だった。

 しかし、それにはニンマリと笑みが返ってくる。

「酷いな。江刈内君。僕はショックでショックで泣いてしまいそうだよ」

 絶対にウソだ。

「考えてみてくれ、バベルがいい例だよ。神々の怒りを買った人間は共通言語を失い、意思の疎通ができず争いが生まれた」

 勝手にベラベラと話し続ける。

「そして、その混乱を突かれたジャスティスリーグは壊滅状態に陥り、結果として、現況を作ったバットマンが脱退した……あれはビックリしたよね。僕的にはバットマンの考え方には一理あると思うけどね」

 急に話の内容が変わった気がする。おそらくは途中からアメコミの内容だ。

 あまりの話題の飛び方に思わず、ツッコミを入れようと口を開きかけたが、その前に服部が江刈内に話しかけた。

「なぁ、江刈内。こいつはほっといて、さっさと帰ろうぜ。気味悪いしよ」

 この『気味悪い』が学校に対してなのか、イエシキに対してなのかは分からない。

「あぁ、そうだな」と言いかけた時、廊下のスピーカーから再び、教室で聞こえてきた異音が響く。腹の底から恐怖が湧き上がるような不快音だ。

「なんだよ。この音は」

 江刈内はスピーカーを見てから視線を廊下に戻すと、一角の明かりが消えている。


 暗い。


 やけに暗い。


 墨でも流したような暗闇だ。

 その真っ黒な空間から目が離せない。何かがいるような気配があった。そこに潜む者と目が合っている。心臓が太鼓を打ち鳴らすように高鳴り、震えている。生理的に受け付けない嫌悪感に吐き気が込み上げてきた。

 思わず膝から力が抜けそうになるのを、支えたのはイエシキの腕だった。

「大丈夫かい? 江刈内君。あまり直視しないほうがいいよ。ニーチェも言っているだろ。『深淵を覗き込めば、相手もこちらを覗いている』とね」

「またよく分からない話か?」

 先ほどの気分の悪さが嘘のように引いていた。

 イエシキは掴んだ腕を離しながら、ズイッと顔を近づける。

「そう。『奴ら』の話さ」

 イエシキもしつこい。相当、その話が好きなのだろう。

 よくもまあ、いろんな人に邪険にされながらも飽きずに話そうとするものだ。

 気を紛らわすためにも、少し話題に乗る。

「その『奴ら』はどう対処すればいいんだ?」

「対処?」

 イエシキは大きな目を輝かせ、さらに顔を近づけながら話す。どうでもいいが、かなり顔が近い。吐息すらも感じられそうなほどに。

「君は分かっていないね。人間が『奴ら』の前でできることは、地を這い、首を垂れ、地面を舐めながら、虫けらのように息を殺して、過ぎ去るのを待つのみ」

「なんだ、その救いのない話は」

「しかし、これがあれば大丈夫さ」

 そう言って、壊れたラジオを掲げて見せる。

「そのラジオが、なに?」

「ふっふっふ。これはただの壊れたラジオではない」

「『壊れたラジオ』って、自分で認めちゃってるけどな」

「この『サイコラディア』があれば、君は飲み込まれることはないだろう」

「サイコ、え、何て?」

 強引に手渡されるラジオは、どう見てもタダの古いラジオだ。

「そうそう。昨日の飲み会は良い会だったよね」

「は? 何の話だ……」

 イエシキは何を言い始めたのか。昨日とは、何のことだろう。いや、たぶん誰かと間違えている。

「大勢で集まるのは苦手なのだが、たまにはいいものだ。先輩方もいい感じでウザかった」

 「イ」とも「ヒ」とも取れない発音の、独特の笑い方をするイエシキだが、江刈内には何のことを言っているのかやはり分からない。

「マジで、なんのこと?」

 やはりイエシキはおかしな奴だ。

「江刈内。あんまり、そいつと話さない方がいいぞ」

 困惑する江刈内を心配するように、服部が小声で訴えかけてくる。

 確かに、これ以上話していたら、自分の頭までおかしくなる気がしてくる。

「そうだな」と視線を服部に向け、すぐにイエシキへ戻した時だった。

 頭から冷や水をかけられたように、体が硬直した。 


 イエシキのすぐ隣に真っ黒な影が立っていた。


 顔も姿かたちもハッキリしないが、それが人であると分かる。先ほど暗闇の中で江刈内を覗いていた『何か』だろうか。


 こんなことが、あり得ていいのか?


「イエシキ……おまえ」

 現実とは思えない光景に、全身の毛が逆立ち、血が逆流したのかと思うほど血の気が引いていく。何とか喉から絞り出た声は震えている。

「そのサイコラディアは、君に貸してあげるよ」

 イエシキは隣の影に全く気付いていなかった。

 彼女が凹凸のほぼない胸を逸らして言うのと、影が彼女を飲み込むのは同時だった。目の前が一瞬、真っ黒に染まり、そのまま地面に溶け込んで消えてしまう。

 気付いた時には、影もイエシキもいない。あるのは廊下だけ。

 現実では考えられない光景に、膝が笑っている。

 何が起きたんだろう? この学校では何が起きているんだろう……


 呼吸が浅く、目が回りそうだ。

 廊下には、最初から影もイエシキも存在しなかったように静まり返った景色が広がるのみ。

 しかし、そんなはずはないのだ。

 確かにイエシキは存在していた。

 なぜなら、江刈内の手の中に、壊れたラジオ(サイコラディア)があるのだから。

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