ジャズと雨音

スズシロ

第1話

 雨が降っていた。窓に滴る水滴を眺めながらただ待っている。ジャズのかかる喫茶店で一人、私の他に客はいない。読みかけの本を机に伏せたままただひたすら待ち続ける。

 カランカランとベルの鳴る音がして扉が開く。傘を畳む音がして、コツコツと言う足音がこちらへ近づいてくる。


「お待たせー。ごめんね、待った?」


 コートに着いた水滴を払いながら先輩は全然申し訳ないと思ってい無さそうな顔で言う。


「もう1時間も待っていたんですけど」

「ははは、ごめんね。彼のご飯作ってたら遅くなっちゃって」


 珈琲一つ、と店員に注文をして先輩は向かいの席に腰を下ろす。


「にしても、凄い雨だね」


 滲んでぼやける窓ガラスを見ながら先輩は言った。


「朝まではあんなにいい天気だったのに」

「天気予報はあてになりませんね」


 沈黙が流れる。店員が皿を拭く音、カチャと擦れる皿の音。店内にはジャズと雨音だけが響いている。


「今日は報告があってさ」

「報告?」

「実は、彼と結婚することにしたんだ」


 彼、とは先輩が今同棲している男性の事である。合コンで知り合って気がついたら家に居着いていたらしい。とにかくだらしなくて「私が居ないとダメなの」と先輩は良く愚痴をこぼしていた。


「そうですか」

「うん。あの人、私が居ないとダメだから。プロポーズも私から」


 先輩の手には小さな石がついた指輪がきらりと光っている。


「結婚式は来年なんだけど、雪ちゃん友人代表のスピーチしてくれない?」

「私が?」

「うん」


 先輩は私の目をじっと見つめて「お願い」と呟く。そうだ。この人は昔からこういう人だった。


「仕方ないですね」

「ふふ、ありがとう!結婚式にはよっちゃん達も呼ぶの。会場はね……」


 どうせ断られないだろうと思っていたんだろう。先輩は楽しそうに結婚式の話を続ける。着たいドレスの話、会場選びで迷っている話、余興は誰に頼みたいだとか、会社に報告した時の話―――


「なんか懐かしいね」

「え?」


 急に話を振られて聞き返す。


「すみません、何の話でしたっけ」

「聞いてなかったの?雪ちゃんと江ノ島に行った時の話だよ。なんかデートみたいで楽しかったなぁ」


 学生の頃、先輩の「海が見たい」という我儘を叶えるために二人で江ノ島に行ったことがあった。季節外れの海岸線は人もまばらで、冷たい海風に吹き付けられながら「寒い寒い」と体を寄せ合って海を眺めたのだ。

 先輩は彼氏と別れたばかりで、海を見ながらずっと愚痴を言っていた。私はただ黙って横でそれを聞きながら、冷たくなった先輩の手をさすった。思い出が詰まっていて辛いと言うので長くてしなやかな指から二人のイニシャルが刻まれた銀色の指輪を抜き取って海に投げ入れた。


「あー、もう。私には雪ちゃんしかいないよー」


 そう言って目を真っ赤に腫らして笑う先輩を


「そうですね」


 と言って抱きしめていたら何か変わっただろうか。あの時の先輩は酷く脆くて壊れてしまいそうで、私はただ苦笑いを浮かべながら肩を寄せ合うしかなかった。


「あの時は雪ちゃんが居てくれて良かった。嫌な気持ちがすっきりしたもん。合コン行こう!って気持ちが切り替わったのは江ノ島に行ったからかも。あのエピソード、スピーチに入れて欲しいな」


 先輩は薬指に光る指輪を撫でながら私を見つめる。ずるい目だ。


「……分かりました」

「やった!」


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。しまっておきたい。私と先輩の二人だけの思い出。


「――じゃあ、お願いね」


 ひとしきり思い出話を話し続けた先輩は、「彼が寂しがるから」と言って足早に帰って行った。私を1時間待たせて、話すだけ話して。


 家に帰って大学時代に使っていたレポート用紙を引っ張り出し、先輩との思い出を書き連ねていく。先輩と出会った時の事。サークルの合宿で酔った先輩を介抱した時の事。水族館に行きたいという先輩に付き合って隣町の水族館へ行った時の事。彼氏にあげたいと言うので一緒にセーターを編む練習をした時の事。学食で一緒にご飯を食べたり、大学の帰りに一緒に飲みに行った事。猫を拾った先輩と一緒に里親探しをした時の事。卒業式の日に先輩と二人で写真を撮った事、江ノ島に行った時の事――

 忘れられない思い出も、何気ない思い出も、酔っ払いの客と「彼」の前に引きずり出されて消耗品のように消費されるのだと思うと耐え難く、それでも先輩の頼みだと思うと断り切れなかった。

 

 書いたレポート用紙を台所に持って行って燃やした。あの時江ノ島で先輩を抱きしめたら、何か変わっていただろうか。


「雪ちゃん、好きだよ」


 たまに悪戯に耳元でそう囁く先輩の顔が頭に浮かぶ。先輩はそういう人なのだ。

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