二章 三宮春乃(4)


   ◇


 まるで指先が凍りついたみたいだった。

 図書室での勉強会を終えたあと、仁や峯子ちゃんと別れ、もうすっかり辺りは暗くなっている。校門前の路地に並ぶ街灯が遠い間隔でアスファルトを照らしつけ、向こうの方にある信号は、誰もいないのに、しきりに赤になったり、青になったりしている。とても静かで、なんだか不気味だ。

 もちろん、普段は恐怖など感じたりはしない。よく草太の部活が終わるまで待っていることがあるが、誰よりも熱心に自主練習をする彼を待っていれば、こんな時間になるのはよくあることなのだ。大体、人気はないと言っても校門の前であり、まだ校舎には先生たちだって残っている。怖がる必要なんて、ないはずなのだ。

 だが、今日ばかりは違った。

 ――これが……仁が言ってた、秘密のアプリってやつ、なのかな。

 胸の前で握りしめる携帯には、おどろおどろしいあの画面が映し出されていた。図書室で勉強会をしていたら、突然通知音が鳴り、いきなり出現した謎のアプリ。あの時はあまりにも不気味で、すぐに携帯の電源を落としたが、一人になるとやはり気になってしまう。これのせいで、私の指先は氷のように冷たくなり、恐怖や困惑で一杯だった。

 まず、秘密のアプリとはなんなのか。アプリの画面の下の方に、相変わらず表示されている『このアプリのことは、絶対に、秘密にしてください』という文章、秘密という言葉が引っかかるのだ。だからこそ、仁が口にしたアプリのことが頭をよぎるが、肝心のこの不気味なアプリをホーム画面に戻って確認してみても、名前も何もついておらず、空っぽな砂時計のアイコンがぽつんと存在しているだけなのである。

 そもそも、これ以上画面をいじってもいいものなのだろうか。ふと、そんな考えが湧いてきた。この不気味なアプリは、おかしなサイトを踏んだ時に送信されてくる架空請求みたいなもので、変に触ったりしない方がいいものなのかもしれない。

 そう思いながらも、アプリの画面左上に表示されている、『チュートリアル』と書かれている赤い本のアイコンから目が離せなくなる。その画面左上のアイコン以外には、下部の注釈文と、中央の大きな空の砂時計くらいしか見えるものはなく、そのどちらをタップしてみても何も反応しなかったため、余計に気になってしまうのである。

 ――チュートリアルって何? わけわかんないんだけど。

 理解できないために溢れるけんかんじみたものが、舌の根の方をじんわりと乾かした。そして迷いに迷い、ようやく、そのチュートリアルのアイコンをタップしようとした、その時だった。

「待たせたな、春乃」

「うわぁ!」

 校門の内側から歩いて来た草太に声をかけられ、反射的に叫んでしまった。そして咄嗟に携帯をポケットに入れつつ振り返り、愛しの彼の顔を見上げる。

「あ、ああ、草太、早かったね」

「そうか? いつもと変わらないと思うが」

 練習終わりのシャツ姿のまま、草太は太い首にかけたタオルで、ひたいのあせを拭った。相変わらず練習熱心な彼は、今日もたっぷりと励んできたのだろう。目前に夏のこうえん予選も控えているらしく、余計応援したくなる。うちの学校はそれほど強いわけではないみたいだが、それでも草太は二年生ながらにエースとして、いつも全力で野球に向き合っているのだ。

「今日もお疲れ様」

 そんな彼の支えになれればと、私はいつも、手製の差し入れを用意していた。鞄を開き、保冷バッグを取り出せば、中に詰めてあった容器を開く。中にははちみつに漬けてあったカットレモンが、きらきらと輝いていた。昼の間は家庭科の先生に頼み込み、冷蔵庫の片隅に入れてもらってあるため、この時間になってもちゃんと全て冷えている。

「今日はレモンか」

「夏ならこういうのも良いかなって思って」

 二人で並びながら帰り、草太が私の差し入れを食べてくれるところを見ていると、頰が緩むのを抑えきれない。一年前、彼や仁やすみれが助けてくれて、そして結衣が私の代わりに訴えてくれて、本当に救われた。なんだか、みんながいればすごく心が穏やかになって、それだけでうれしく感じるのである。

 みんなといつまでも一緒にいられたら、どれだけ幸せだろう。

「そういえば、さっき何か集中してたみたいだったな。何してたんだ?」

 輪切りにしたレモンをかじりながら、草太は思い出したように言った。私が声をかけられて、叫んでしまった時のことだろう。そう考えると、あの不気味なアプリのことがよみがえってきて、折角感じていた幸福感みたいなものが薄れていくのを感じる。

「いや、まあ……ちょっとね」

 言いにくく思い、あいまいに返すと、草太は眉を寄せた。

「なんだよ、俺に言えないことなのか?」

 草太の口調が少し強くて、私は思わず首を横に振った。

「ち、違うよ。その、草太に言えないってことじゃなくて、誰に対しても言い難い、みたいなさ」

 草太は、皆の前だと穏やかで頼もしく見えるが、二人きりだと、こうして少し怖くなる。でも、それはやっぱり私が悪いからだ。私が何かと落ち着きがなく、感情的で、子供っぽくて、抜けてるところが多かったりするのが悪いのだ。だって草太は、本当は優しい人なのだから。

 草太はそれから黙り込み、ずんずんと歩いて行ってしまった。その妙な沈黙がひしひしと肌にのしかかるみたいに重い。昔、まだ両親が離婚する前、パパが家で怒鳴った後の、私もママも簡単にはしゃべれなかった時の空気に似ている。

 思い出すと耐えられなくなって、私は咄嗟に口を開いた。

「あ、あのさ、草太は秘密のアプリって知ってる?」

 彼は目を細くして立ち止まった。

「……ああ、あの過去が変えられるって、噂のやつか?」

 じろりと私を見下ろすような細い目が、なんだか怖くて、私は思わず息をんでしまった。それでも会話をしなければと、なんとか続けた。

「へ、へえ、そんな噂なんだ」

「知らなかったのか?」

 草太の言葉に頷いて返すと、彼はため息を吐き、続けた。

「それで、秘密のアプリがどうしたんだ?」

 尋ねられた時、丁度頭の中に、あの不気味なアプリの下部に表示されていた、『このアプリのことは、絶対に、秘密にしてください』という文言がフラッシュバックする。

 けれども、しょせんは噂話である。それよりも、やっぱり草太の方が大事だ。

「あ、あはは、今日さ、実はそれっぽいアプリがいきなり携帯にインストールされて、さっきもそれ見てただけなの。でもほら、私この噂よく知らなかったし、なんか怖いから、言い難くてさ」

 努めて明るく、私の特技である笑顔を浮かべて言った。これで少しでも空気がなごめば良いのだが。

 しかし、私のもくとは裏腹に、草太の表情が険しくなった。一重の目からはすうっと光が薄れていって、逞しく頑強な巨体が、まるで彫像にでもなったように固まった。

 それがなんだか、彼から情緒というか、人間的な優しさや温かさが消えたみたいに見えて、反射的に身が竦んだ。

「そ……草太?」

 呼びかけると、少し遅れて、彼はぬるりとこちらに視線を合わせた。

「見せてくれないか、それ」

「え?」

「だから、そのアプリを見せてくれないか?」

 明らかにいつもと様子が変わってしまった彼を、震えながら見上げた。

「ど、どうしたの、草太。なんか、ちょっと変だよ」

 思わず、スカートのポケットに入れた携帯を護る様に手を添えた。なんだか、草太の言うとおりにしてはいけない気がしたのだ。

 でも、彼はそんな私の肩に手を置いて、言った。

「いいから、見せてくれよ。俺その噂気になってたんだ」

 そうして私の肩を摑む大きな手に、がしりと強く力をめると、彼はもう一度言った。

「早く、見せろよ」

 その声があまりにも無機質で、恐ろしくて、私は思わず携帯を取り出すと、彼に差し出してしまった。

 すると草太はひったくるように私の携帯を取り上げ、怪物にられたように、じっとりと画面をぎょうした。

 もう指先だけではなく、体のしんまで凍り付いているみたいだった。恐怖と困惑のあまり、辺りを見回すが、やっぱり遅い時間のため、人はいない。ただ厚い夜の暗闇だけが、壁みたいにして私たちを閉じ込めている。逃げ場なんてない気がした。

「ねえ草太、どうしちゃったの? やっぱり、ちょっと変だって。怖いよ」

 草太は私にとって、頼もしくて、助けてくれた恩人で、深く愛し合っている、大切なパートナーだ。彼のことは心の底から信頼しているし、彼が努力をするならば、私もできる限り応援したくなる。

 つまり彼を怖いと思うのは勘違いだ。不気味なアプリのせいで神経質になり過ぎているだけだろう。きっとそうだ。

 息を吞み、乾いた唇をめ、小さな期待を胸に抱いて、再び顔を上げる。

 その時見えた彼の顔が、あまりにも信じられないもので、啞然としてしまう。

「なんで……」

 そして彼は、携帯の画面から私へと、ゆっくりと、その目を滑らせた。

「なんで、わらってるの?」

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真っ白い殺人鬼 三輪・キャナウェイ/IIV編集部 @IIV_twofive

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