10限目 油断大敵

 二年に昇級してから二回目の日曜日の朝、秋中義人は自分の部屋の勉強机に向かっていた。


 この机は中学生になったときに母親の京香に購入してもらって以来、高さを調整しながらずっと使い続けている。


 教室や図書室も集中することもできるが、ここに勝る場所はない。


 義人の部屋には他の男子高校生のそれと異なり、誘惑するような漫画やゲームは一切ない。


 もう勉強と睡眠をするための空間といってもいいだろう。


「ああ~。やっぱここが一番落ち着くわ~。もうあいつの家に行かなくてもいいからな」




 義人のいう“あいつ”というのは、同級生の島原千沙のことである。


 始業式から二日後の昼、義人は階段から落ちる千沙を助けた。


 それを機に彼女に目をつけられた義人は半ば強引に彼女の恋人にさせられた。


 それ以降、勉強を教わる代わりに彼女をくすぐる毎日を過ごすことになった。


 しかし、その状況は突如一変した。


 昨日千沙の家に行ったときに脅し材料だった動画を削除することができた。


 これで千沙との奇妙な関係は終わった。他人をくすぐるという無駄な時間を過ごさなくても済むということだ。


 おかげで、現在一人で有意義な時間を過ごすことができている。


「まあ、あいつにはもっと教えてもらいたかったが、こればかりは仕方ねえな。さて、勉強勉強と」




 義人は問題集の次のページに手をかけた瞬間だった。


 机の角に置いてあった彼のスマホが鳴り出した。


「ん? 誰だ……って、え?」


 スマホの画面に表示された名前を見て、義人は踊いてしまった。


 そこには“皆川遥香”と表示されていた。


 彼女は小学生からの幼馴染で今まで同じ学校だった。


 そのせいか、数少ない彼の理解者であり、なにかと勘違いされやすい彼と他の生徒との橋渡しのような役割を果たしてくれている。


 高校に入ってからはクラスが違うせいで話す機会が少なくなり、電話をすることもなかった。


 しかし、今その遥香から約十か月ぶりの電話がかかってきたのだ。


「し、仕方ねぇな。出てやるか」


 義人はシャーペンを机に置いてスマホを手にする。


 そして、小刻みに震える指先で画面上の応答ボタンをタップして、右耳にあてる。


「もしもし。遥香か? こんな朝早くから何の用だ?」


「……」


「?」


 返答がない。


「おーい。遥香? 聞こえてるか?」


「…………」


 やはり返事がない。


(おかしいな。ここ、こんなに電波悪かったか? それか間違えてかけてしまったとか?)


「返事しろ」


「……ふふふ」


「?」


 かすかだが、電話の向こうから女子の笑い声が聞こえる。


 どうやらしっかりとつながってはいるらしい。


「俺も暇じゃないんだ。いたずらなら切るぞ」


「君ね、せっかく電話をかけてきてくれた女の子に対して、そんな言い方はないんじゃないかな?」


「お、おまえは!」


 ようやく応答した女子の声。


 しかし、それは予想していたものとは違った。


 ここ最近毎日のように聞き続けた、人をいじるような声と口調。


 間違えようがない。それは島原千沙の声だった。


「やあ義人君。昨日ぶりだね」


「なんでお前が遥香のスマホから電話してんだよ!」


「だって君の電話番号を知らないんだもん。仕方ないから皆川さんにスマホを借りたという訳さ。そのためにわざわざ学校に来たんだから。本当苦労したよ」


「それだったら番号だけ聞いて自分のスマホでかけりゃいいじゃねえか!」


「それじゃ面白くないじゃん。君が驚く反応が聞きたかったんだよ。そしたら思った通りの反応で……ぷははは!」


「お前朝からテンション高いな……。で、俺に何の用事だ?」


「決まってるだろ。呼び出しさ。どうして約束した時間になってもうちに来ないの?」


「どうしてって、もうあの動画がないんだ。あの契約はもう破棄だろ」


「あのね、契約というものは双方の合意がなければ解消されないものなんだ。そして、ボクは契約解除に同意していない。つまり、あの契約は解消されていないという訳だよ。わかる?」


「くっ。それはそうだが……」


「わかったら、今すぐうちに来なさい!」


「……断る」


「ほ~う。そんなことを言うんだ。そっちがその気ならこちらにも考えがある」


「考え?」


「君さ、大事なことを忘れてない? この電話、誰のスマホからしてるのか」


「そりゃ遥香のスマホだろ?」


「そうさ。ということは、この場にボクだけなのかな?」


「……まさか!」


「ちょっと代わるね」


 電話の向こうからゴソゴソと物音が聞こえる。


「もしもし? 義人、聞こえる?」


「遥香! お前そこにいるのか?」


「当たり前でしょ? あたしのスマホなんだから。というか、さっきの話、何?“契約”とか“動画”とか聞こえたけど」


「いや、何でもない! すまないが、千沙に代わってくれるか?」


「え? うん、わかった……千沙、義人が代わってってさ」


 再び電話の向こうでゴソゴソと音が聞こえる。


 そして、数分経ったところで千沙の声が聞こえた。


「もしもし? どうしたの? そんなにボクの声が聞きたくなった?」


「てめぇ、俺を脅すために遥香のスマホを借りやがったな!」


「落ち着いて。皆川さんにも聞こえちゃうよ」


「くっ……」


「あはは。安心して。今は皆川さんから離れてる。だから、より込み入った話をしようよ」


「な、なんの話だ……」


「もちろん、ボクたちの契約のことさ。もし君が一方的に契約破棄をするというのであれば、違約金ならぬ違約罰を受けてもらう」


「違約罰? 何をする気だ」


「皆川さんにボクたちの関係をばらす」


「やっぱりか……。だが、お前が言っても遥香は信じるか? どうせ冗談か何かだと思って聞き流されるのがオチだ」


「信じるさ。だって証拠映像があるからね」


「は? 証拠映像って、あれは昨日俺が削除したんだ。残ってるはずがないだろ。出まかせを言うな」


「これを聞いてもそんなことを言えるかな?」


「?」


 電話の向こうでかすかに何かが聞こえる。


「なんだこの音は。どっかで聞いたことがあるような……」


 義人はスピーカーに切り替えて、耳を澄ます。


『ぎゃはははははははははは! いいよ、義人君! もっと、もっと激しくだ! あはははははははは!』


『ここでいいのか?』


『いやはははははは、そ、そうだよ! やっぱ君は最高だ! ははははははははは!』


「お前これ……あの時の奴じゃねえか!」


 それは義人が千沙をくすぐったときの音声だった。


 二人の声がばっちりと聞こえているのだ。電話越しでもよくわかる。


「何でそんなもんがあるんだ!」


「大事な動画は複数の保存先にバックアップをする。それは常識だろ?」


「もっとしっかりと調べておけばよかった……」


「さあ、どうする? 今なら約束を反故にしたことを水に流してあげようじゃないか」


 どうするべきか。それは考えるまでもない。


「……今すぐ行くよ」


「よし。やはり君は理解が早いね。いまから帰ると十時ぐらいになると思うから、それぐらいに着くようにしてね」


「わかった」


「じゃあ楽しみにしてるよ~」


 電話が切れる。


 それと同時に、全身に疲れがドッとのし掛かる。こんな電話は初めてだ。




「あ~かったるいな~。だが、行かないとえらいことになるしな~。覚悟決めていくか」


 義人は服に着替えた後、カバンに筆記用具と参考書・問題集を詰めて家を出た。

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