9限目 チャンスの時間

 千沙と(仮に)付きあってはじめての土曜日の朝、義人は玄関で靴を履いていた。


 この日は以前千沙と約束したとおり、彼女の家に行くことになっていた。




「よ~し~く~~~ん!」


 外出の準備をする義人の背中に彼の母親“京香”が飛びついてくる。


「おい、お袋! いい加減親離れしろ!」


「いやだもん! ずっと義くんと一緒にいるんだもん!」


「いい歳して『もん』とか使うんじゃねえよ!」


「歳なんて関係ないもん! お母さんだっていつまでも若くいたいんだもん!」


「朝からマジで勘弁だ……」


 この風景はこの家でほぼ毎日のように繰り広げられていた。




 義人の家族は、京香と義人、そして四つ年が離れた妹の美瑠との三人である。


 父親は義人が小学三年のころに亡くなり、それ以降は京香一人が働いて子供ふたりを育てていた。


 そのためか、京香は二人の子どもに異常なまでの愛情を抱いている。


 特に、雰囲気が父親に似ているという理由で義人には恋人といるような接し方をする。


 そんな母親に対し感謝の気持ちもある一方で鬱陶しくも思っていた。美瑠は京香とも顔を合わせようともしない。


 そんな二人に気付いているのかどうか分からないが、二人に対する態度をまったく変えようとしない。




「それじゃ俺今から外に出るから」


「え~家にいてくれないの? みーちゃんはお友達のところに行ったし、お母さん一人だけなんだよ?」


「無理言うな。俺だって友だちのとこに行くんだから」


 最近、京香の義人に対する執着は以前より一層強くなっている。


 それは義人が千沙の家に行き、帰りが遅くなった夜がきっかけであった。


 その日の夜に義人が家に帰ると、京香は彼にしがみ付き嗚咽しながら泣いていたほどだ。


「今日から学校休みの時は友だちの家で勉強することにしたから……」


「え!最近みーちゃんだけじゃなくて、義くんまであたしを捨てて行っちゃうの? そんなの悲しいよ~」


「捨てるって大げさな……」


「ん~。けど、義くんもみーちゃんも大人になってるということなんだね。そんな子どもたちを見送るのも親の務めなんだよね。寂しいけど仕方ないよね」


 涙をぬぐいながら自分に言い聞かせる京香に罪悪感が芽生える義人。


「……わかった。お母さん我慢する! けど、前みたいに夜遅くならないようにしてね。心配しちゃうから」


「わかったよ。気を付ける……」


 義人は京香に見送られながら家をあとにする。






 ---






 家から出て三〇分後、義人は千沙の家の前に着いた。


(この家に来るのも五日ぶりか。そういえば、あの日がすべての元凶なんだよな……)


 五日前の記憶を脳内に巡らせながらインターホンのボタンを押す。


(そういえば、遥香以外の女子の家のインターホン押すのってこれが初めてだな。なんだか緊張する)


 ピンポーン。


 スピーカーから「はーい」と女性の声が響く。


「お、俺、秋中義人と、い、言います!ち、ち、ち、千沙さんは、いら、いらっしゃいますで、しょうか!」


「あはは。何緊張しているんだよ。ちょっと待ってね」


「お、おう……」


 声の相手が千沙だと気づいて少し緊張がほぐれる。


 一分も経たないうちに家のドアが開く。


 家の中から白いシャツに青い短パンをはいた千沙が出てきた。


「待ってたよ。さあ入って」


「それじゃ失礼します……」


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今日も両親いないから」


「そうなのか?」


 義人は千沙に促されるままに家の中に入ろうとしたが、玄関前で立ち止まる。


「……あれ? ご両親がいないって、今日はお前ひとりなのか?」


「そうだね。ボクは一人っ子だし」


「高校生の男子と女子が二人きりってなんかやばくねえか?」


「何をいっているんだよ。この前は何の躊躇いもなく入ったじゃないか。それに毎日密室で二人きりになってるし」


「密室というな。変な感じになるだろ」


「今更だな。別にやらしいことするわけじゃないんだから」


(「くすぐりプレイ」って、やらしいことに入らないのかよ)


「そんなところで君が突っ立っているところを近所の人に見られる方が問題だから。とにかく入ってくれ」


「それもそうだな」


 義人は十分に納得することができなかったが、仕方なく家に入ることにした。






 ---






 義人は二階にある千沙の部屋で待機をしていた。


 落ち着いた色の張り紙の部屋の中にはベッドと本棚とテーブル、クローゼットが淡々と置いてあり、余計な装飾がない。


 本棚には多種多様な本が並んでおり、一般的な女子の部屋とは少し異なっている。


「なんだか懐かしいな」


 はじめて千沙をくすぐったベッド。あの日の光景が脳内で再生される。


「思い出したくはない記憶だがな」


 義人は気を散らすために本棚に目線を向ける。


「確かあそこの上に箱に隠したカメラがあったんだよな。くそ~。あれさえなければ」


 “千沙と付き合う”という要求を飲まざるを得なくなった原因の映像はいまだに千沙の手元にある。


「あのカメラ、ここに置いてないか……ん? 前に来た時よりものが増えてないか?」


 整頓されている部屋の中で棚の上だけに大雑把にものが置いてある。


 そのひとつひとつ、義人が今までの人生で見たことのないようなものばかりであった。




「君は人の部屋のものを確認するのが趣味なのかな?」


 義人はその声で千沙が部屋に入ってきていたことに気付く。


「いや、これは……」


 千沙は台所から持ってきた麦茶をテーブルの上に置き、義人の向かいに座る。


「まったく。君はデリカシーというものに欠けているね。前にもいったけど、女の子の部屋には秘密がいっぱいあるんだからあんまりじろじろ見ないでくれ」


「すまん」


「まあ、本来ならそんな君は一生女の子と付き合えなかっただろうが、今はボクが君の彼女だ。存分に感謝してくれ」


「自意識過剰過ぎやしねえか?」


 胸を張る千沙に冷静に突っ込みを入れ、麦茶に口を付ける。


「早速始めるぞ」


 義人はカバンの中から勉強道具一式を取り出そうとする。


「ちょっと待った!」


 千沙は体を乗り出して止める。


「なんだよ。俺は今日勉強をしに来たんだ。止められる筋合いはないぞ」


「君、ボクとの契約を忘れてないだろうね」


「なにを今更……。“千沙が俺に勉強を教える”ってやつだろ? だからここに来たんだ」


「“君があたしを毎日くすぐってくれる代わりに”というところが抜けてる。忘れたの?」


「はあ、忘れるわけないだろ。学校で毎日やっていることだからな」


 義人の言葉を確認した千沙は身を引いて座り直す。


 そして、腕を横に広げると義人に上半身を見せるように胸を張る。


「それだったら、あたしをくすぐってくれ」


「そう来ると思ったよ……」


「もしかして、今日はくすぐらなくてもいいかもしれないとでも期待していた? でもそうはいかないよ。契約をした以上は権利を十分に行使する。当たり前だろ?」


「ちっ! このままごまかせると思っていたのに……」


「それじゃ、いつものようにまずはくすぐりから始めよう!」


 千沙は立ち上がり、見ていた部屋着を脱ぐ。


「な、何やっているんだ!」


「見ての通り服を脱いでいるんだよ? ここ最近はずっと服の上からだったから味気なかったんだよね~」


「だからって脱ぐのはどうかと……」


「ここはボクの部屋だし、どんな格好をしたっていいだろ?」


「男の前で下着姿っていうのが問題だろうが! お前は俺を何だと思っているんだよ!」


「何を怒っているのか理解できないな。前にもボクの下着姿見ただろ? だったら、二回も三回も変わらないよ」


「お前の羞恥の境界が分からねぇ……」


「それだけ自分の欲望に忠実ってことさ。それでさ、君に見てほしいものがあるんだよ」


 そういうと、千沙は義人の後ろにあるベッドに向かって体を伸ばす。自然と彼女の上半身が義人の顔の横に来る。


 千沙の白く透明な肌と、そこからわずかに漂うソープの香りに女子耐性の弱い義人はたまらず目を背ける。


「あ、あった!」


 ベッドの上から何かをとった千沙はベッドから体を離す。




 目を背けていた義人が目線を戻すと彼女の手にはスマホが握られていた。


 姿勢を直すと、千沙はスマホの画面を人差し指で操作する。


「さあ、これを見てくれ」


 その画面を義人に見せる。


「おい……何だよ?」


 義人は絶句した。


 なぜなら、スマホの画面に流れていたのは彼が見たことのないものであったからだ。


 詳しくいえば、一人の女性がベッドの上で両手両足をX字に拘束され、もう一人の女性にくすぐられている動画であった。


「何ってくすぐり動画だよ。その他の何に見えるのさ」


「それはわかる。俺が言っているのは何でそれを俺に見せるんだということだ」


「ボクね、こういう動画を毎日見てるんだけど、ずっとこんなシチュエーションに憧れていたんだ~」


 義人は、ぼんやりした表情で話す千沙を引くように見つめていた。


「お前、そんなこと言ってて恥ずかしくないのか?」


「そんなの恥ずかしいに決ま……って、それはどうでもいいの! ボクが言いたいのは今日は君にこれをしてほしいということなの!」


「ふざけるな! この動画をよく見てみろ。結構激しいじゃねえか! こんなの……できねぇよ」


 動画では女性の際どいところまで激しくくすぐられていた。


 まだ女性同士なら許されるだろうが、男である義人がこれを再現したら取り返しのつかない問題になるのは間違いない。


「君ねぇ、ボクがいいって言っているんだよ? 合意の上なら問題ないじゃないか」


 動揺する義人に対し、千沙は平然と答える。


「どんどんお前のことが分からなくなっていくよ」


「ちゃんと拘束道具は準備してあるから」


 そういって千沙は近くのタンスの中から鎖の付いた赤い革製の拘束道具を取り出した。


「そんなもんどこで手に入れたんだよ。まさか!」


「ネットに決まってるだろ。君が思っているようないやらしいお店に行って買ったんじゃないから安心して。第一、そんなところ女子高生が一人で入れるわけないじゃないか。本当に君はいやらしい思考を持ってるなぁ。いや、今頃の男の子としては健全なのか?」


「そんなもんを売っているサイトを使っているやつに言われたくねぇよ!」


 そんな義人の言葉を無視して千沙はベルトを義人の前に差し出す。


「これを買うのに勇気もお金も要ったんだよ。ここで使わなかったら無駄骨だ。さあ、早くこれでボクを拘束して!」


 千沙の気迫に負けて、義人はとりあえず拘束道具を受け取る。


「マジでやるのか?」


「当たり前だ。もしやってくれなかったら今日の勉強会はなし。そして、前の動画を速攻でネットに流す」


「くっ! わかったよ! やりゃいいんだろ!」


「やったー!」




 両手を上げて喜ぶ千沙。そんな彼女を見つめる義人。


「で、これはどう使うんだ?」


「使い方を知らないのかい?」


「知ってるわけないだろ。俺はSM風俗店の店員じゃねぇんだよ」


「ちょっと待って」


 千沙はタンスの中から一枚の紙を取り出す。それを広げると、文章と絵が紙面いっぱいに記されていた。拘束具の取扱説明書らしい。


「なんとなくわかったよ。準備するから君も手伝って」


 義人は千沙に指示されるままベッドの下に拘束道具の鎖を通す。




「うん。こんな感じかな?それじゃボクがベッドの上に仰向けで寝るから手足を拘束して」


 千沙は自分の言ったとおり、ベッドの上で大の字に倒れる。義人はそんな彼女の手首足首を拘束していく。


 義人は目の前の光景に違和感をもった。


 普通の人間であれば、拘束されれば多少なりとも恐怖や不安があるものだが、目の前の同級生は頭を左右に振りながら鼻歌を歌っている。


(こいつ、なんでこんなにリラックスしているんだ。もし俺以外の男だったら完全に襲われているぞ。実際、俺もギリギリ耐えているんだけど)


「さあ、早くしてよ! 早くしないと、君の勉強時間が減っちゃうよ」


「……なあ。今思ったんだけど、俺がそれを外さなければ、お前は何もできないんだよな」


「ん? そうだけど? 抵抗できないようにするために拘束するんじゃないか」


「それじゃこのまま勉強始めても邪魔できないってことだよな?」


「……」


「なんなら、お前を放置して家に帰ってもいいってことだよな?」


「……」


 千沙が沈黙する。


 ここに来て自分が現状不利な状況にいることを理解した。


「じょ、冗談きっついな~。そんなひどいこと、優しい君ができるわけないじゃないか~。あはは……あれ?」


 義人は千沙に背を向けて、勉強道具をカバンの中にしまう。


「冗談だよね? ボクを放置して帰らないよね?」


「俺は人の家より自分の家で勉強した方が集中できるから」


「待って! これじゃトイレに行くこともできないよ!」


 慌てる千沙は手足につけられた拘束道具を引っ張り、外そうとする。


 しかし、開封したての新品を一般女子の力で外すことはほぼ不可能だ。


「自業自得だ。そのまま拘束プレイを楽しんでいてくれ」


「わ、わかった! 今日はくすぐらなくてもいいよ! 今日一日勉強に付き合うから!」


「……動画」


「え?」


「この前お前が盗撮したあの動画はどこだ?」


「え~っと、どこだったかな~? 忘れちゃったな~?」


 千沙のシラを切る態度を見た義人はカバンを肩にかけて部屋のドアに向かう。


「思い出した! スマホの中! ボクのスマホの中にデータを保存してあるんだった!」


「これだな。借りるぞ」


 義人は机の上に置いてある千沙のスマホを手に取り、その中に保存されていた動画のデータを見つけ出して削除した。


 今までに受けた屈辱の報復に、アルバム内のくすぐり関係の写真・動画もすべて消そうとしたが、さすがにかわいそうだと思いやめた。


 なす術もなく脅し材料である動画を失った千沙は瞳を潤ませていた。


「う~。もう十分だろ~?」


「お前、本当に反省しているのか?」


「反省してます~。許してください~」


「仕方ないな。もうこれに懲りて悪さをするなよ」


「うん!」


(まるで昔話でいたずらして捕まった動物を罠から外してやるときみたいなやりとりだな)


 そんなことを思いながら、千沙の手首足首の拘束道具を外していく。


 自由になった千沙は自由であることを実感するように手足をじたばたさせる。


「あ~、やっぱり自由っていいな~。拘束されるのはもうこりごりだよ~」


「さっきの約束忘れてないだろうな」


「ああ、もちろんだよ! 今日はしっかり君の勉強に付き合うから!」


「頼むぞ。っとその前に何か着てくれ。その恰好じゃ集中できん」


「え~? 逆にこっちの方が勉強はかどるのじゃないのかな~?」


 二の腕で胸を挟み、義人を誘惑する。


「お前は本当に変わらないな……。馬鹿言わないでさっさと服を着ろ!」


「は~い」


 千沙はつまらなさそうに脱ぎ捨てていた部屋着を手に取り、それを着ていく。


(ま、これで俺を脅す材料は消えたということだ。これから安心して平穏な学生生活に戻れる)


 不安を解消することができた義人は、一日中千沙の部屋で勉強に取り組むのであった。


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