蔓を解く

伊月 杏

蔓を解く

……結局、僕らは幸福の鐘をきくことはないまま、誓いの言葉を交わさないまま、純白を身につけることもないまま、契りを千切ることになった。


愛はサインひとつで捨てられる。その程度のものだ。血の繋がりや貴賎など関係ない。必要がなければ捨て、必要があれば拾う。人間、抱えられるものなどそう多くはない。人間は取捨選択して生きている。これも、ひとつの取捨選択でしかない。


せいぜい「捨てた」か「捨てられたか」の認識の違いだけが、尊厳であり、傲慢であり、プライドと呼べる程度の価値を産む。


ここまで確かに幸せだった。どんな苦難が立ちはだかろうとも、君と一緒ならば何処までも行けると思っていた。


実際はそう甘くはなく、日々のなかで小さく積もっていく不満と、やるせなさと、傷つけられていく尊厳と、いつしか歪んだ愛情が、大きな炎となって燃え盛り、僕らの絆を焼き切った。


銀に嵌った宝石は欠け落ちてどこへ行ったやらわからない。既に此処には炎すらたたず、煙はすべて風に流され、かつて、僕らを繋いでいたはずの静かな灰燼だけがそこにあった。


君には、僕が地獄のうろの淵にたっているように見えるのだろう。すべてから逃げ、いまやその身すら投じんとするように見えるのだろう。その足元に咲き乱れる花畑が、君にとっては、さぞかし極楽なのだろうね。


だから君は、僕に対して愚かだと叫ぶのだ。こんなに美しい花畑から逃れてどこにいくのか、安寧の地がここにあるのになぜ放棄するのか、その程度のものだったのか、と僕の決断がいかに愚かなことかと糾弾して言い聞かせようとしている。


君が育てた花弁には微量の毒があることを、君は未だに知らないままでいるようだ。おそらくきっと知ることもない。僕にとってそこは天界の花園ではなく、いわば呪縛の毒池だった。厳密にいえば、僕にとってその花が毒に変わってしまっただけで、君にとっては今も変わらず美しい花なのだ。


愛はいつでも僅かの悪意を孕む。毒にもなり薬にもなる。君の罪は、毒を知らなかったことでも、花を育てたことでもない。僕らが違う生き物だということを認識できなかったことだ。そして僕の罪は、適応せんと努力しつづけてしまったことだった。


もっと早くに僕が諦めていればよかったのだ。無駄に長引かせ苦しませてしまって、すまなかった。


それでも、僕にとってこの花園は学びの楽園でもあった。多くのことを学び、諦め、感情を得た。そして自由の大切さを知った。僕らの間にあった契りと数年間のことを、僕は決して無駄だとは思わない。できれば君にとっても、無益でなかったと信じたい。


僕を搦めとっていた花の蔓は、とても頑丈で強かで狡猾だった。かつて見兼ねた友人が助けてくれようとしたときは、僕は立ち上がるための力が奮えなかった。まだ希望を持っていたかったのだ。この毒が再び薬に変わることを。僕が君の愛に適応できることを。だからどれだけ周りが力強く辛抱強く諭してくれても、蔓は緩むことがなかった。


ところで、僕は勉強がひどく好きだった。恐らくは、それが僕をじわじわと変えてくれた。この変化にはきっとこれまで支えてくれた君の努力が、何枚かは噛んでいる。感謝してもしきれない。さようならの言い方を、僕は身につけることができたのだから。


それらを理解したとき、蔓は内側からするりと解けた。生き物のようにしつこく畝り、僕を縛っていたはずのものは、もう動かず、僕を追うこともない。結局のところ、僕を助けたのは、僕自身だった。


僕はよく夢をみた。悪逆非道を尽くす悪者をときに力で、ときに言論で、思いっきりねじ伏せて、物語に平穏をもたらす。なぜだかすべてが終わったあとに、君がふらりと出てくるという構成の夢だ。このはなしをすると君はいつも不満そうに膨れ、俺がヒーローでありたいと言うのだ。深層心理では俺を必要としていないのではないかと眉を顰めることもあった。そんなことはない、と笑ってみせたことは何度も、何度もあった。


いまならわかる。僕は明晰夢をみるのも予知夢をみるのも得意だから。あの夢は、君を排除していたわけではなかった。ヒーローは、紛れもなく僕だけだということを、ずっとずっと指し示していただけなのだ。君はひとつだけ的を得たことをいっていた。そうだ、僕は深層心理において、僕を救うのが僕自身でしかないことをしっかりと理解していたのだ。ヒーローになりたかったのは君で、僕は君にヒーローになってほしかったわけではないのだ。


自力で抜け出た花園を数歩離れたところで友が待っていた。これまでずっと遠くから見守ってくれていた友だ。友の手は、いつもどおり、冷えきっていて暖かい。灯火のように、僕のなかに残る憔悴を解しながら、そこに在ってくれる。


僕はもはやひとりではない。胸には僕を守る僕がいる。隣には大切な友がいる。眼前には途方もない世界が広がっている。君が暗がりと呼んだのは、未知と試練と自由の塊だ。そこには一つ柱の安らぎはなかったとしても、あの花の毒に蝕まれることは、きっとない。


だから、僕は、もう往くよ。


かつて愛を誓った伴侶よ、自由と友を選んだ僕をお好きに恨みなさい。彼奴は家族を捨てたのだと好きなだけ罵りなさい。いくらでも僕に罪を着せていいから、どうかこれからは、愛と保護とをかけちがえぬように、間違えぬように、生きていって欲しい。


育ってしまった狡猾な蔓に絡め取られているのは、君も一緒なのだから。君が求めていたのは「俺を求めてくれる人」であり「俺の助けを必要としている人」だ。いいかい、君は救世主じゃなくても大切な人なのだ。


誰も助けなくていいのだ。ヒーローは使い終わったらそこまでだ。君は僕のヒーローになろうとしすぎたね。だから僕が力をつけた途端に君は存在価値が足元から揺らいでいくような感覚に囚われてしまったのだ。それは途方もない自我の揺らぎだったろう。辛かったろう。君は本来、力を持たぬひとなのだ。


君が救世主としての命の価値から、どうにか解放されること。毒の花園から抜け出せること。そして、誰にも依存することのない新たな希望をこの世界のどこかでみつけられることを。



遥か彼方より

永久とこしえに祈る。

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