space

@_fly_

第1話 咲野さん

 咲野さんは、いつでも明るくて優しい。やわらかい笑顔以外の顔を見たことがなかった。

 あの日までは。

 

 咲野さんは、高校生の娘さんと一緒に、よく、この紅茶店にやってくる。

 とても仲の良い母娘である。

 私の夫、紅茶案内人の店主にとって、お店を始める前から知り合いである咲野さんは、スコーンが売れ残ると連絡をして差し上げたり、何かと連絡しやすい気の置けない相手のようだ。娘さんが、このお店のスコーンが大好きで、嬉しそうに頬張る顔は、店主を幸せな気持ちにさせる。

 咲野さんは、うちの一人娘にも、会う度に優しく話しかけてくれるので、普段シャイで口数の少ない娘も、楽しそうに話している。

 彼女の話しかけ方は、子供に対しても、気遣いと優しさに満ちていて、子供が困るようなことは聞かないし言わない。当たり前のようだが、大人は、挨拶や親しみのつもりで、計らずも答え難い質問を子供に投げかけることが意外と多い。それをいつでも咄嗟に避けられるのは、どんな時もどんな相手でも、相手の立場に立てる人だからだと思う。

 咲野さんは、スラリと高い背を屈めて、子供と同じ目線で語りかける。大きな目を細めて微笑みながら、目を見て話をする。

 私は、人にあまりに目を見られると居心地が悪いこともあるものだが、彼女と話していて、そう感じたことは一度もない。

 

 咲野さんと出会ったのは、我が家族が、この辺りに引っ越してきてすぐのことだった。

 娘が小学校に上がり、PTAだとか、自治会だとかの集まりに参加しなければならなくなったのだが、我々夫婦は2人とも他所から移住してきたので、この地域の事情も分からず、小学校のこともわからないことだらけだった。

 他のお母さまたちも、自治会のおじさまたちも、基本的に親切だが、集まると自然と仲のいい人たちで話は盛り上がるし、例年通りの…といった暗黙の了解的なルールも多く、他所からの者は、どうしても疎外感を感じてしまう。悪意のない疎外感も、なんとも言えず居心地が悪い。そんな中、さりげなく、色々な説明をしてくれて、他愛も無い会話の時も、話の輪に引き入れてくれたのが咲野さんだった。そんな時も、強引さは全くない。彼女は、どのお母さま方とも仲がよく、かといって、仕切ったり、中心になって引っ張っていくわけではなく、中心となるお母さまが、意見を言うとそうだねと微笑んでいる。いつも中心にはいない人が意見を言っても、彼女は同じ微笑みで相槌をうつ。中心チームが何か決まらずに行き詰まったり困っていると、すかさず意見や考えを言って、滞りを解消する。気配りとバランス感覚が抜群の人という印象だった。

 

 最初は、この紅茶店にも、自治会のお母さま方と一緒にやってきていた。そんな彼女が、紅茶店に1人でやってくるようになって、明るくやわらかい笑顔の端に少し影が見えるようになった。

 みんなの中にいる彼女は、全方向笑顔だったが、やはり人間、常にそんなままでいられるわけはなく、1人になれば、仕事の愚痴や、家庭の愚痴もこぼしたくなる。ただ、そんな時でも、彼女は、穏やかな笑みは絶やさず、人を悪く言うような言葉は発しない。

 住宅街の片隅にある、この小さな紅茶店は、そんな小さなため息や、日々の小さな喜びや、誰かに言いたいつぶやきを、気兼ねなく出すことができる、そんな場所になっている。

 ある人が、「うちの娘がコンクールで金賞獲りました〜」と、お店のドアを開けて顔をのぞかせ、店主&たまたまお店にいたお客さんが、「お〜!おめでとー!」と拍手し、そのある人は、「ありがとー!嬉しい!紅茶また買いに来るからねー」とドアを閉めて帰っていく。そんなことも普通にある。

 紅茶案内人である夫は、涼しい眼差しのせいか、一見冷たさや近づき難い雰囲気を感じさせるが、ひとこと言葉を発すると、初対面でも壁が1ミリもない気さくさと親しみやすさを感じさせ、更に、私よりも女性的な繊細さや気配りを併せ持っている。そのためか、この紅茶店にくる、女性も男性も、初めての来店から、たくさん話をして帰られるお客様が多い。

 

 咲野さんは、それまでも、紅茶店では、たくさん話をして帰ることが多かった。それは、仕事の話や娘さん息子さんの話や、共通の友人の話などで、それも、よかったこと、よい人のことが多く、聞いているとこちらも優しい世界にいる気がしてくる。しかし、咲野さんの心の内のことや悩みなんかを話すことはなかった。あり得ないとは思いながら、あまりに良い事ばかりなので、この人の周りは優しさに溢れていて、この人の心の中も優しさだけで満ちているのではと思ったりもした。しかし、そんなわけはないのだ。

 咲野さんが、少しずつ心の内のことを話すようになって数回目の来店時、もはや笑顔はなく、とても疲れた表情で、紅茶を飲みにやってきた。

 普段は、お客さまが話し出すのを待って、相手の調子や様子を探ってから話しかける店主だが、さすがに、すぐに、どうしました?と声をかけた。

 「昨日、旦那に怒られちゃって」と、咲野さんは、なんとか笑顔を作って答えた。

 店主は、ただごとではない雰囲気を感じ取りながらも、気がつかないふりをして、ケンカですか?と軽いトーンで問いかけた。

 「ケンカっていうか…、わたしが一方的に怒られるんですけどね、いつも。」

 店主は、これは、少し込み入った話になりそうだと、カウンターの奥の方の席に案内し、気持ちの落ち着く、優しい香りの国産紅茶のブレンドティーを出した。ひとくち飲んで息をつくと、咲野さんは少しずつ話し始めた。

 昨日は、何時間も、ご主人から注意を受け続けたという。正座をさせられて。それが珍しいことではないようである。

 

 咲野さんのご主人は、自治会の集まりで何回か見かけたことがある。咲野さん家族も、ずっとこの地に住んでいるわけではなく移住組のようだ。自治会における男性はとくに、その地でずっと一緒に生まれ育った人達が多く、他所からの人は輪に入りづらい。我々家族より先に移り住んで10年以上が経っていたであろう、私が初めてお見かけした時でも、一目で咲野さんのご主人は、他の方々と色が違うのに気づいた。ご主人は、とても真面目そうで、集まった際の作業なども積極的にとり組んでいるように見えた。

 自治会では、年配の重鎮方のリズムで、ことが進んで行く。しかし、ご主人は、その流れには乗らず、淡々とことを進めたい気持ちが、側から見てもわかった。大きく意見するわけではないが、効率主義な自分の思う最善を、周りにもわかってもらいたい、そんな風に見えた。

 一方、咲野さんは、すっかりお母さま方に溶け込んでいる。男性と女性の違いもあるかもしれないが、それぞれの性格も少なからず影響していそうだ。

 輪に入らないのが悪だとは思わない。私も、どちらかというと、そういった集まりは苦手で、今でもそれほど密に付き合うことはない。ただ、輪に入り込まないなら、せめて邪魔はしたくないものだと、そこの流れにのるようにはしている。

 我が夫、紅茶店主は、そんな集まりでも、天性の人懐っこさと状況把握能力を発揮する。比較的入りやすいお母さま方の輪には難なく入り、すぐに男性であることが関係ないほど溶け込んでしまう。そしてときに若い男性であることを活かして、お母さま方の気分を盛り上げ、最早、輪の中心にいる。そうする一方、おじさま方や重鎮のリズムにも上手く乗り、適度に質問や話題を投げかけながら、おじさま方を気分良く語らせ、これまたすっかり輪に入っている。

 私には、夫の人付き合いの良さは、超人的にみえるのだが、当人は、それほど緻密に考えているわけでなく、自然に人と接しているだけのようである。

 そんな店主も、咲野さんのご主人とは、何か違う波長を感じたようで、接点がないまま、今は、咲野さんや娘さんとだけ交流している。


 それにしても、この時代、奥さんを正座させて叱るというのは、いったいどんな状況なのかと、思ってしまう。しかも、対外的にこんなに非の打ち所がない咲野さんが、なぜ、そんな状況に陥っているのか、しかも常態的にというのが、店主も私も不思議でならなかった。

 詳しく理由を聞いてみると、家の中が片付いていないとか、一度言ったことをやっていないとか、そういったことで、ご主人が気に入らないことがあると、ちょっとした注意が始まるらしい。そうしているうちに、ヒートアップして、あれもこれもとあげつらい、最終的には、咲野さんを人間的に否定するのだと、咲野さんは言う。手を挙げられたことはないが、終いには、咲野さんの両親のことまで蔑み、だからお前もダメなんだと罵られるのだという。暴力がないとはいえ、相手のご両親までもとは、少々度が過ぎている。


 店主は、トラブルについて話を聞く時、どんなことが本当の発端となっているのかは、片方からの話では全ては分からないと思って話を聞くことにしている。だが今回は、咲野さんのご主人の言動があまりにひどいと思ってしまう。長年、咲野さんの柔らかい人柄に触れてきているし、しかも、彼女はフルタイムで仕事をしているし、それに加えて娘さんやその下の息子さんのことでも、毎日忙しく動き回っているのは家族でない我々でも知っている。そんな人が、正座をして何時間も叱責される理由などあるのだろうか。

 咲野さんは銀行勤めで収入だって問題ないだろうし、無責任な他人としては、そんな夫とは別れてしまえばいいのにと思ってしまう。

 

 柔らかな国産紅茶のブレンドティーを飲みながら、溜めていたものを吐き出した咲野さんに、店主は、今度は特製ロイヤルミルクティを淹れながら、離婚とか、考えたことないんですか?と、ゆっくりとした優しい口調で語りかけた。

 言葉を選びつつも、思ったことは、なんでも言ってしまう店主は、考えすぎて気を遣って、思いを言葉にしないことが多い私よりも、なぜか、何倍も人と上手く付き合えている気がする。

 父母の不穏な様子やお母さんの辛い様子を見続け感じ続け育つのは、お子さんにもよくないのではないかと、店主は思ったのだろう。

 咲野さんも、何回か離婚を考えたことがあるようで、高校生になった娘んさんは、別れればいいのにと言っているという。ただ、下の息子さんは、小学生の時に、離婚は嫌だと言ったようだ。


 店主は、物心ついた時には父親がいなかったようなので、親の離婚は経験がないが、ひとり親の時間が長く、色々な理由でネグレクトに近い環境だったこともあり、辛い幼少期を過ごした。そのため、ひとり親家庭の人や夫婦が上手くいっていない人に出会うと、その家庭の子供のことを、とても気にかける。

 店主は、小学校高学年の時、母親が再婚したようだが、大人になって、育ての父やその両親である祖父母に関しては、感謝の言葉しか言わない。血の繋がらない自分を受け入れて育ててくれたことに感謝しかないと。店主のステップファミリーは、確かにいい人達だと思う。だが、何が普通もないのだが、いわゆる普通の家庭環境で育った私は、父や祖父母に少しの不満や苦言も出てこないことに、少しの歪さを感じてしまう。そんなことを思ってはいけないと無意識に感情を抑えてきたのだろうか。

 そんな複雑な生い立ちを持つ店主は、子供にとって、母が笑顔でいることや、日々の家の中の雰囲気が大切であると、より強く思うところがあるのかもしれない。店主は、自分の生い立ちを交えつつ、そんな思いを伝えた。

 色んな話を交わしながら、特性ロイヤルミルクティを飲み終わる頃、咲野さんはまた、いつもの笑顔になった。

 咲野さんの本当の気持ちは、わからないままだが、なんとなく話は収束に向かった。

 

 相談や悩みを聞いていると、自分の考えと違うとき、どんなことがあったのか、なぜその人がそう思うのか知りたくなってしまう時がある。それは、その人のためでなく、自分の疑問の解決や知りたい欲望のためである場合もある。

 店主は、相手が言いたいところまでで止まったら、その先は追求しないし、無理に言わせることはない。そして、相手に、言いあぐねた気まずさも感じさせない。

 これ以上言いたくないのを察すると、自然に少しずつ話題を変えていく。


 咲野さんはいつもの笑顔で、カウンター越しに、ティーカップを返しつつ、言った。

 「聞いてもらって、少しスッキリしました。ここにいると、別世界な感じで、時間の流れもいつもと違う気がして、体が軽くなるんですよね。」

 扉の外には、また現実があるのだけど、この紅茶店が、そんな時間を過ごせる場所になっているのは嬉しいし、そんな時間が誰にでも必要だと、店主は思っている。

 店主は、翳りのない笑顔で、ありがとうございます、と扉を出る咲野さんを見送った。

 

 その後も、咲野さんは、娘さんと一緒に紅茶店にやってきた。娘さんの前でも、ご主人の話をするようになり、娘さんも、父親が嫌いだと言って、2人で愚痴を言うようになった。娘さんからすると、自分も小言を言われるのは嫌だし、お母さんが怒られているのは可哀想になるという。

 店主は、ふと、そこまでになっていて、収入的にも問題ないし、咲野さんの両親も近くに住んでいるようだし、それでも離婚をしないのはなぜなのだろうと思った。


 紅茶店の扉に続くアプローチは、イギリスの田舎のコッツウォルズを思わせるように、柔らかな色の草花が茂り、優しくお客さまを迎えている。店主は植物が大好きなので、手間をかけて草花の手入れをしている。日々あったことを思い巡らせながら、閉店後に手入れをするのが日課となっている。

 そうしていると、お散歩や帰宅などで通りすがる人たちが、こんにちは、と声をかけてくれる。そして、この辺りの子供たちは、きちんと挨拶をしてくれる子が多い。中学生の男の子でも、目が合えば、大きな声で、こんにちは!と言い、ぺこりと会釈をしてくれる子が多いことに、移住してきたばかりの頃は驚いた。


 ある日の夕暮れ時、店主が草木の手入れをしていてふと顔を上げた時、中学生の男の子が通りかかり目があった。こんにちは!と大きな声でしっかりと挨拶してくれた子は、咲野さんの息子さんだった。

 店主が、あ、という顔をすると、息子さんは「いつもスコーンありがとうございます」と頭を下げた。なんて素直なしっかりした子なんだろうと感心しながら、部活帰り?と少し立ち話をし、自然に紅茶店の前のベンチへと促した。

 やはりお父さんのことが気になるところだが、店主は、すぐにはその話はしなかった。咲野さんの息子さんは、きっと、母や姉が紅茶店で悩みを話していることを知っているのだろう。会話に少しの間があった時に、意を決したように、自分の足先の少し先を見つめながら、話し始めた。

 「あのぉ、お父さんの話、聞きましたか?」

 店主は、ああ少しね、と忘れていたかのように、彼が話すことが必然にならないよう、でも、話したかったら話せるように、穏やかなトーンで答えた。そして、あ、ちょっと待っててと、お店に入り、アーモンドとミルクの香りがする紅茶を淹れて、彼の元にもどった。この辺りは、春でも夕方は少し寒いくらいなので、暖かい紅茶を蓋つきのペーパーカップに入れて渡した。

 彼は、紅茶をひと口飲むと、紅茶では珍しいアーモンドの香りへの驚きと香りがマッチした紅茶の美味しさとで、目をまんまるに見開き、店主の顔を見た。店主は、よかった、と微笑んで、彼の隣に座った。甘く香ばしい香りの紅茶をひと口飲んで息を付くと、彼はポツリポツリと話し始めた。

「お父さんは、いつもは優しいし楽しいんです。でも、怒るスイッチが入ると、違う人みたいになって。叩かれたり、そういうのはないんです、全然。でも、言葉がキツくなって、それが長く続く感じで。」

 彼の中に、苦悩が見えた。お父さんのことは好きだけど、今の家族の中の状態は良くないと思っていて、お父さんにも問題があると思っているのだと思う。もちろん、お母さんやお姉さんのことも好きで、ただ、どうしたらいいのかはわからず、苦しんでいると、店主は感じた。

 咲野さんとのことで、ご主人の言動が、あまりにひどく謎な部分が多かったので、近くで見ている彼に、根掘り葉掘り聞きたくなるところだが、店主は、やはり、自分の欲求ではなく、彼が話したいことだけを、聞こうとした。

 彼の話が一息つくと、店主は、君はどうしたい?と優しく問いかけた。

 「前に、お母さんが、離婚とか言ったことがあったけど、その時は、とりあえずそれは嫌だった。なんでかはよくわかんないけど」

 そう言って、少しだけ冷めてきた紅茶を、ゴクリと、多めにひと口飲んだ。そして、真っ直ぐな眼差しを暮れていく空に向けながら続けた。

 「今は、、、、よくわかんない。」

 その言葉の空白の中に、彼のたくさんの思いが詰まっていた。少し前より、家族それぞれの気持ちを深く感じ取れるようになって、どうすることが一番いいのか、自分の気持ちとしてもどうしたいのか、わからなくなっているのだろうと店主は感じた。

 やはり10代の成長は目まぐるしくて、小学生高学年から中学生になる数年の心の成長は、四季の移り変わりよりも速い気がする。

 やはり、周りから見ているより、簡単じゃないな、家族って。と、家族という感覚が、人より足りていないと自認している店主は、改めて思うのだった。

 

 店主は、よくわからないと言ったまま言葉の出ない彼に、そうか、と背中をポンポンと軽く叩き、いつでも店に来てよ、暇な店だから話し相手になって、と微笑んだ。

 特段、話したいことが無くても、また来て欲しいと伝えたかった。きっと中学生の彼が、今話せるのは、これが全てだろうと店主は思った。ただ、一人で苦悩して欲しくなかった。彼が、この紅茶店に話しに来たのは、お父さんの味方がいなくなる話の伝わり方が嫌だったのではないかと思った。それがわかっただけで、よかったと店主は思った。


 その後も、咲野さんは、紅茶店にやってきた。時には、ゆっくり紅茶を飲みに、忙しい時は紅茶とスコーンを買って帰った。相変わらず、いつも笑顔だ。

 店主は、ティーカップを洗いながら、咲野さんの家庭の中は大丈夫なのかなと、思いつつ、彼女が、何気ない会話の中で話していたことを思い出していた。

 

 ある時には、友人もいない初めての土地に越してきて暮らすのは大変だったと店主が話していた時、咲野さんのご主人も、この辺りに縁はなく、ある時突然、咲野さんの実家の近くに越してきたのだと言っていた。越した理由を聞くと、元々、一家でご主人の地元でご主人の両親と同居していたのだが、ご主人が自分の両親と反りが合わず、度々揉めており、遂には、絶縁するかたちで生家を出て、咲野さんの地元に越してきたらしい。

 それを思い出して、なるほどと妙に納得しつつ、咲野さんは、戻る場所のないご主人を追い出すのを可哀想に思い、離婚には躊躇しているのかもしれないと思った。咲野さんの気遣いや優しさをあの笑顔で周りに配り続けている姿を見ていると、自分がどんなに辛くて嫌な思いをしても、ご主人を思いやってしまうのではと、勝手に想像してしまっていた。

 

 またある時、知り合いの人が家を建てるという話をしていた時、咲野さんは言った。

「新しい家、いいですよねー。うちも古い家だから旦那が建て替えようかって言うんだけど、ちょっとはぐらかして阻止してるんですよねー。」

 どういうことか尋ねてみると、今住んでいる家は、元々咲野さんのご両親の家で、土地も家も名義は、お父さんになっているようだ。建て直すとなるとご主人の名義にしたり、色々面倒だからとのこと。

 それを聞いた時は、手続きや税金とか色々面倒なんだろうなと思っていた。


 そして、ある時、子供の学費とか、老後の資金とか、今って不安ですよねといった会話のとき、咲野さんがこぼした言葉を思い出した。

 「あぁ、下の子が大学卒業したら、自分から出て行ってくれないかなぁ、あの人。」

 ご主人と2人になった老後を想像して、単に嫌だなという言葉が出たのか思っていた。


 ひとつひとつ別々に聞くと、それほどの強い意味も感じなかった言葉が、全部が繋がると、少し別の形に見えた。

 もしかして、咲野さんは、冷静に、計画的に、そして、揉める労力すら使わずに、淡々とご主人がいなくなる方法を考えているのではないか。自分の地元に帰ってきたのも、家の名義にご主人が入ることを阻止したのも、事を荒立てることなく、願う形に辿り着くため。だから、あんなに辛い日々も耐えながら、穏やかな笑顔でいられるのか?お子さんたちが巣立った後に…。

 そんなことを思った時、脳裏に浮かんだ咲野さんの笑顔が、少し目の奥に冷たさを秘めた隙のない笑顔に見えてしまった。

 

 店主とベンチで語った息子さんは、あれから、何度か紅茶店にやってきて、部活の話や、自分の将来やりたいことの話や、友達とのちょっと馬鹿馬鹿しい話を、楽しげに時に真剣に話してくれる。忙しくあまり顔を出さないときも、通学でたまに通ったときは、相変わらず気持ちよく挨拶をしてくれる。

 

 咲野さんは、変わらず穏やかな笑顔で、紅茶店のドアを開けてやってくる。時には、受験で忙しくなり顔を出す回数が減った娘さんと一緒に来て、ご主人の愚痴を、少し冗談めかして言ったりする。そして、ひとりで来る時は、やはり柔らかく穏やかな笑顔で世間話をして帰るのがほとんどだった。時々、疲れた表情の時も、店主が分かってくれている安心感からか、多くは語らず、美味しい紅茶の香りと味に癒されて、元気になって帰っていく。娘さんは、大学進学後は他県へ出て一人暮らしをする予定らしい。

 色んな想像をしたが、実際の咲野さんの笑顔を見ると、感じの良さは以前と全く変わりがない。そして、その後、少し時が経っても離婚するような気配も噂も全くなかった。家族という形を保ちながら、お子さんたちもそれぞれしっかりと育っている。

 そして、咲野さんの本当の気持ちは、彼女にしかわからない。

 家族って難しい。

 家族というのは、それぞれが、それなりに元気に自分の毎日を送れていれば、少しの問題があってもとりあえずはそれでよい場合もあるのかもしれないと、店主は、庭の草花の手入れをしながら思った。

 

 ニュースにもドラマにもならない、そんな心の内の事件が、この紅茶店にはよく持ち込まれる。

 店主は、それに振り回されることなく、この場所で、お客様がやってくるのを待ち、来た際は温かく迎えて穏やかに見送る。

 

 ある午後、店主が、庭の道具を片付けて、アプローチの石畳を掃除していると、背後から視線を感じた。振り返ると、店の横の道に、若い女の子がお店のほうを覗くように立っていた。かと思うと、ダッシュで店から離れて行った。

 な、なんだ?なんだ?

 店主は、彼女が走り去ったほうを、道まで出てのぞいたが、住宅街の角をすぐに曲がって姿が見えなくなった。

 その後ろ姿は、走るのには向かない膝丈のスカートとそれほど高くないヒールのパンプスで、より不可解さを感じさせる。そして少し高めの靴音が住宅街に響き、それもすぐに消えていった。

 なんだったんだ?と店主は思った。

 

 また、微かな心の事件のにおいがする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

space @_fly_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ