第21話 ただひとり

 背骨に沿って並んだ夥しい数のボタンを上から一つひとつ外していくと、輝くような白くて滑らかな背中が現れる。堪えきれずに思わず唇を落とす。


「きゃ!? もう、驚かさないで」


 アウゲがヴォルフを振り返って睨む。


「だって、仕方ないでしょ」


 ボタンを全て外し終えたヴォルフが、手をドレスの背中に滑りこませてくる。背中から肩を手のひらでなぞられてアウゲは背中をしならせる。


「あ、ん……もう、だから、普通にして」


「してますよ。だってこのドレス、ぴったりしすぎてこうしなきゃ脱げないでしょ」


 ヴォルフはアウゲの耳元で囁きながら、レースで仕立てられたぴったりとした袖を抜き、中指にかかったループを外す。露わになった肩にくちづけながら、もう片方の袖を抜いていく。


「なんていい匂いなんだ、姫さま……」


 ヴォルフはアウゲの首筋に顔をうずめる。


「ねえ姫さま、いいでしょ……?」


「さっき、お風呂に浸かりたいと言ったでしょう」


「ええ、聞きましたけど。でも」


 ヴォルフは音を立ててアウゲの頬に、首筋に、肩にくちづけながら駄々をこねる。アウゲは少し思案してから言う。


「……髪を洗いたいわ。手伝ってくれるかしら?」


 アウゲの言葉にヴォルフはぱあっと顔を輝かせる。


「もちろん!」


「きゃ!?」


 ヴォルフに勢いよく横抱きにされて、アウゲはまた短い悲鳴をあげる。

 ヴォルフはアウゲを抱いたまま階段を駆けおりて1階奥の浴室に入る。


「ああもう、これ、飾りいっぱいついてて面倒だな」


 手前の脱衣所でヴォルフは着ていた礼装を脱いでぞんざいに放り投げる。試練の時に着ていた騎士服は片袖を失ってしまったし、新しい魔王の誕生に魔界に散らばっている臣下たちが集まってくるからと着替えさせられていた。


「あっ、姫さま待って。待ってください」


「どうしたの?」


 太ももの中ほどまであるストッキングを脱ごうとしていたアウゲは不思議そうに顔を上げた。


「待って。おれが脱がせてあげたいから、ちょっと待って」


「自分でできるわよ」


「違うんですよ。そういうんじゃないんですよ。いずれにせよ、ちょっと待っててください」


 不服そうに唇を尖らせているアウゲを見ながらヴォルフは大急ぎで服を脱ぐ。それでも、アウゲは所在なげに左手で右手の肘を触りながら、ヴォルフが頼んだとおりに待っていた。


「じゃ、姫さま、そこに座って」


 ヴォルフが壁際に置かれた椅子を指す。アウゲは素直に従った。

 ヴォルフは床に片膝をついてもう片方の膝を立てると、それを台にしてアウゲの足を乗せる。ストッキングの縁に指をかけて、傷つけないようにそっと脱がせていく。アウゲは目を閉じて肩を数回上下させて息をついた。

 両方のストッキングを脱がせたヴォルフは身体を起こしてアウゲの胸に顔を埋める。


「姫さま会いたかった。早くこうしたかった。もう二度と姫さまに会えなかったらどうしようって、そればっかり考えてました。姫さまは? 不安じゃなかったですか?」


 アウゲの柔らかな胸に顔を寄せ、頬擦りしたり甘い肌をついばんだりしながらヴォルフが尋ねる。


「いいえ、あなたは必ず来ると私にはわかっていたわ。私が恐れていたとすれば、伴侶を奪われた魔王が力を失って命を落とすと聞いていたからよ」


 アウゲはヴォルフの柔らかな髪を撫でながら言う。


「でも、それは、あくまで噂だということがわかったの。冥府の宰相が、力を与える存在である伴侶を失えば力を失うことは確かだけれど、命を落とすというわけではないと教えてくれたわ。だから私は何も心配することはなかったの」


 ヴォルフはアウゲの胸から顔を上げ、首を伸ばしてアウゲの唇にくちづけた。


「なら、どうしてそんなに寂しそうなんですか?」


 核心を突かれてアウゲの顔から微笑みが消える。


「私は……」


 アウゲは指でヴォルフの髪を梳いた。ヴォルフはアウゲの言葉を辛抱強く待つ。


「ずっと、あなたの唯一の存在になれたらと願っていたの。そしてその願いは叶えられたと思ってきたけれど」


 アウゲは言葉を切った。その目には涙が溜まっている。アウゲが何を言おうとしているのかわかる気がしたヴォルフは、アウゲを抱き寄せてそれ以上言わなくていい、言うな、と言ってしまいそうになる衝動を堪えた。アウゲはそれは望まないだろう。自分の言葉で語ることを望んでいるはずだ。

 ヴォルフは代わりにアウゲの手を握った。


「伴侶が奪われると、現世では新たな伴侶が生まれるそうね。その伴侶を新たに娶る場合もあると」


 アウゲはヴォルフの手を握り返し、肩で大きく息をした。


「私にとってあなたはただひとりの最良の人。今の私があるのは全てあなたのおかげよ。あなたがいなければ生きている意味がないわ。でも……」


 涙が堰を切って、陶器のような滑らかな頬の上を滑り落ちた。


「あなたにとっては、どうなのかしら……。全ては、私の幸せな勘違いだったのでは……ないかと」


「アウゲ」


 ヴォルフはその名を呼んで、アウゲを抱き寄せた。


「たとえ理屈がどうだろうと、おれにとっては姫さまが全てです。姫さまを取り戻せなければ、おれは辺境から戻るつもりはなかった。あなたでなければ意味がないのは、おれも同じです」


「でも……、でも、私は、あなたに負けてほしくはなかった。自ら命を断つことは負けを認めることよ。私はあなたに、勝てなくても負けてほしくはなかった。絶対に。けれど……」


 アウゲは言葉を切ってヴォルフの目を見た。


「あなたが私ではない別の誰かを、私にしてくれたのと同じように愛しているところを想像すると、身体が、心が、引き裂かれるほどに辛かったの」


「姫さま……アウゲ」


 ヴォルフはアウゲの真っ直ぐな銀の髪を撫でた。


「愛してます、アウゲ。そんなこと考えなくていい、忘れてって言ったって簡単じゃないでしょう。だから、もう考えなくていいように、ずっとそばにいます。そしてあなただけを愛し続けます」


 アウゲはするりと椅子から降りるとヴォルフの胸に飛びこんだ。


「愛しているわ、ヴォルフ。いつだって私と一緒にいてくれたのはあなただった。そして私が願ったとおり、あなたは私をあの場所から救い出してくれたのよ」


「でも、ひとりにしてごめんなさい、姫さま。命が終わるその時まで一緒にいるって誓ったのに」


 ヴォルフはアウゲのほっそりした身体を抱きしめる。


「いいえ……いいえ」


 アウゲはヴォルフの腕の中で首を振った。


「あなたは来てくれた。それだけで私は十分よ」


 顔を上げたアウゲの目から、涙がもう一筋流れ落ちた。

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