第14話 世界の母となるべき者

 次の扉を開けると、声がした。泣いているようなか細い高い声、その独特の昂り、弾み方。ヴォルフの胸の奥で何かがぐしゃりと潰れる音がした。何も考えられないまま、そっと扉の隙間から部屋に踏み入る。

 部屋には薄布が張り巡らされ、その奥には寝台があるようだった。白い薄布に2人の人物がシルエットになって浮かびあがっている。1人は仰臥し、もう1人がその上にまたがって背をしならせ、揺れている。


 ヴォルフは凍ったようにその場を動くことができなかった。ヴォルフしか聞くはずのないその声。優美な曲線を描くシルエット。そんな。そんなはずがない。これも虚構だ。わかっているのに。

 ヴォルフは震える指で重なった薄布のカーテンをかき分けた。


 アウゲはヴォルフが来たことにも気づかない様子で、目を閉じて顎をあげている。男は冥府の者だった。この至近距離にいてすら屈強な体つきをしているらしいということと、頭部が人間と違って長い口吻を持っている以外のことは何もわからない。


「遅かったな、魔界の嗣子よ」


 地鳴りのような低い声が言う。


「離れろ!!」


 ヴォルフは剣を抜く。これは偽物だとわかっていてすら耐え難い。

 しかしヴォルフの剣は枕を貫いただけだった。

 寝台の端に冥府の者が座っている。冥府の者は見せつけるように膝の上のアウゲの髪を指に絡めた。


「ここにたどり着くのに、時間がかかり過ぎたな。そなたの負けだ。認めろ」


「馬鹿なこと言うなよ。負けを認めたら負けるだろ。そんなの、姫さまに叱られるじゃないか。だいいちおれは負けてない。認めるも認めないもない」


「邪魔だ、どけ」


 冥府の者は膝の上のアウゲをぞんざいに押しやる。


「きゃ……!?」


 アウゲは冥府の者の膝から投げ落とされて床に倒れた。カッと頭に血がのぼる。


「お前、姫さまになんてことするんだ!!」


 ヴォルフが叫ぶ。その怒気は暴風となって部屋を吹き荒れる。虚構の部屋は、それがもともと紙に描かれた絵だったかのように、細切れになって吹き飛んだ。床に倒れ伏していたアウゲも、その絵の一部になって消える。ヴォルフはそれを見てほっと胸を撫で下ろした。やはりこれは冥府の者が作り出した虚構だった。


 景色が変わる。ヴォルフは再び離宮の前庭にいた。


「出てこいよ。今のはさすがにこたえた。嘘だってわかっててもね。あと、いくら偽物でも、姫さまを雑に扱うのは許さない」


 足元の地面にぽっかりと穴が開く。いや、それは穴ではなかった。地面から生えるように冥府の者が現れる。巨大なヒレ状の手、広い肩の上に乗った小さな頭部。


「そなたには人形を与えたであろう。同じ姿をした人形を。それで満足しているがいい」


「ははっ、笑わせるなよ」


 ヴォルフは手の中の剣をくるりと回した。


「いくら同じ姿をしてても、人形じゃ話にならない。姫さまでなけりゃ、なんの意味もない。おれのただひとりの人を奪おうなんて、図々しいにも程がある」


「あれは私のものだ。私がそう決めた」


 ドッと地面から間歇泉のように闇が噴き出す。ヴォルフは間一髪それを避ける。


「ほんと、図々しいな。勝手に決めるな。姫さまの気持ちはどうなるんだよ。ていうか、おれに万一のことがあっても、お前が姫さまをおれと同じくらい、いや、それ以上に大切にしてくれるならと思ってた。でも、あの感じじゃ期待はできないな。おれも決めたよ。姫さまは返してもらう。絶対に」


「諦めの悪い……」


 冥府の王は苛立った様子で地面に手を突き刺す。それは地面の下を通ってヴォルフの目の前に現れた。巨大な鋭い爪を剣で受ける。


「あれはそなたには過ぎた存在だ。あれは、世界の母となるべきものだ」


「姫さまを物みたいに言うな」


 力を込めて冥府の王の巨大な手を押し返す。


「吹き飛べ!!」


 力を込めて叫ぶ。冥府の王はほかの冥府の者のように消滅することはなかったが、弾き飛ばされて離宮の外壁に激突する。




 突然部屋が大きく揺れてテーブルの上のカップが倒れ、さらに落下して砕け散る。


「何が起こっているの?」


 思わずテーブルにしがみついて、アウゲは宰相を見た。


「魔界の嗣子がそこまで来ています。どうやら我が君と戦闘になっているようです」


「ヴォルフが!?」


 アウゲは顔を輝かせて窓辺に駆け寄る。しかし窓の外は、それまでと同じ雪に閉ざされた風景が広がるばかりだ。動くものはない。


「もう。何も見えないわ。ここはどうなっているの?」


 アウゲは宰相に文句を言う。


「どう……まあ、ここは冥界の入り口ですので……」


 アウゲは窓を開け放つ。途端に、熱風が吹きこんでアウゲの髪をなぶった。宰相が慌てて窓を閉める。


「危険なことはおやめください」


「なんなの、本当にもう」


 先程、宰相が窓を開けた時は外は火の海ではなかったのに。


「どうして私が窓を開けると外が火の海になってしまうの?」


 アウゲは再び陰鬱な雪景色に戻ってしまった窓の外をしばらく見ていたが、何かを思いついてぽんと手を打った。


「あ、わかったわ。あれはまやかしの火なのね。一か八か、飛び降りてみればいいんだわ」


 再び窓に手をかける。宰相は必死になってそれを押しとどめた。


「おやめください、アウゲ殿下。博打がお好きなのはわかりました。わかりましたからやめてください」


「それならあなたが窓を開けてみてちょうだい」


 アウゲは気の毒な宰相に言い放つ。その時、二度目の揺れが2人を襲った。


「ねえ、本当に、外では何が起こっているの? 知りたいの。何も知らずにただ待っているのは嫌なの。彼が何とどう戦っているのか、私も知りたいの。一緒に戦いたいのよ」


 アウゲは膝をついて、宰相の手を取る。


「お願い。あなたにはそれができるのでしょう?」


「できるかできないかという点で言えば、できます。しかしながら、私は代々の冥王にお仕えしてきた、冥府の宰相なのです。主君の意向に逆らうことはできぬ旨、どうかご理解ください」


 宰相は絵に描いたような目を悲しげに伏せる。アウゲは力なく宰相の子どものように小さな手を離した。


「そう……。そうよね。あなたが親切にしてくれるから、忘れていたわ」


 アウゲは気落ちした様子で椅子に掛けた。


「申し訳ありません、殿下……」


 宰相は所在なげに身体の前で手を組む。


「いいえ、謝る必要はないわ。あなたにはあなたの役目があるでしょう。私に私の役目があるように。私の方こそ、それを忘れていたの」


 アウゲは背筋を伸ばしてまっすぐ前を見たまま言う。


「……」


 部屋を気まずい沈黙が支配し、三度目の揺れが窓をガタガタと鳴らしたが、アウゲは全く表情を変えなかった。


(ただ待つことが私に課せられた役割というわけなのね……)


 どうすることもできずただその時を待つほかない。負けるまいと思いながらも、その虚無感はアウゲを苛む。自分に、他の魔族の戦士のような力があったなら。こんな虚構の部屋など吹き飛ばして、彼の元へ駆けていくだけの力があったなら。

 彼を助けたいと、力になりたいといつも思っているのに、結局は何もせずただ座って待っているしかないのか。涙の気配がして、しかし泣くまいとアウゲは唇を引き結ぶ。


「アウゲ殿下、殿下はゲームがお好きでしたね」


 見かねた宰相が唐突に言う。


「ええ。それが何か?」


「ただ待つというのは辛いものです。いかがですか、わたくしとゲームをしながら待つというのは? ただ、わたくしはゲームの類が壊滅的に下手なので、その点はお許し願いたいのですが……」


 正直なところそんな気分ではなかったが、この、親切で気苦労の多い宰相が気を遣って言ってくれていることを思うと、無碍にもできなかった。


「いいわ。どんなゲームがあるの?」


「どのようなものでも」


 宰相はアウゲの雰囲気が和らいだことにほっとして答えた。

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