第13話 伴侶

 「……」


 ヴォルフはアウゲを抱きしめた姿勢のまま、閉じていた目を薄く開いた。


「怖かったですか?」


 ヴォルフの腕の中のアウゲは、しゃくり上げながら何度も頷く。


「ええ、とても。もう、あなたに会えないんじゃないかと思って……」


「……そうですか」


 ヴォルフはアウゲの首筋から顔を上げると、身体を離してアウゲの目をじっと見つめた。


「動くな」


 ヴォルフが低く言うと、アウゲはびくりと身体をこわばらせた。その顔は驚愕の表情のまま固まっており、大きく見開かれた目がヴォルフを見ている。

 ヴォルフはそっとため息をついた。


「姿を現せ」


 アウゲの顔に細かなひびが入る。陶器の人形が割れる時のようだ。ぽろぽろと漆喰が剥がれるようにアウゲのカムフラージュが剥げて、その下から真っ黒な冥府の者が姿を現す。しかしヴォルフは、そのカムフラージュが全て剥がれ落ちるのを待つ。正体がわかっても、やはり、アウゲの姿をした者に手をかけるなどできなかった。

 反対に、アウゲの姿でなければ、もうヴォルフに躊躇う理由はない。

 剣を抜きざまに冥府の者の胴を真っ二つにする。冥府の者はそのままどろりと溶けて消えていった。


「はあ、あっぶね。騙されるところだった……。一瞬、姫さまがついに素直になったのかと思って喜んじゃったよ」


 ヴォルフは剣を鞘に戻す。


「……よく研究してるな。銘柄は合ってた。だけど姫さまの匂いじゃない。あと、『怖かったですか?』っていう質問に対する正しい答えは、『いいえ、平気よ』だ」


 ヴォルフは冥府の者の消えた跡に向けて言う。


(そして何より、姫さまはおれの「暗示」は効かないんだよ。おれに「動くな」って言われたら「なぜ?」って言っちゃうんだよなぁ、姫さまは。動くなって言ってんのに)


 ひとり笑って、ヴォルフはその部屋を後にした。

 自分の好きな香りを纏っていてほしくて贈った香水が、こんなところでこんな風に自分を助けることになるとは思わなかった。そしてその僅かな違和感に気づいたことは、ヴォルフの折れかけていた心を励ました。

 たとえ100万の偽物がいたとしても、その中の本物のアウゲに辿り着くことができる、とヴォルフは思った。


***


「なんともおいたわしいことで」


 宰相が気遣わしげに言う。


「我が君も酷いことをなさる」


「憐れみは無用よ。これは私が選んだことなの」


 アウゲは背筋を伸ばして、テーブルの上のカップを見つめている。


「……ひとつ、きいてもいいかしら」


 視線はそのままに、宰相に話しかける。


「何なりと」


「冥府の王に伴侶を奪われた魔王は、どうなるの?」


「……それを知って、どうなさるのです」


 宰相はひとつだけの目でアウゲを見あげる。


「別に。ただ興味があるだけよ」


 アウゲは宰相の方へ顔を巡らせた。


「伴侶を奪われた魔王は力を失って命を落とすと聞いたから、それは本当なのかと思って」


「……聞いても、良いことなどひとつもありませんよ。それでも聞きたいのですか?」


「ええ」


 アウゲは即答する。

 宰相はひと息置いてから答えた。


「力を失うというところは本当です。魔力を与えてくれる存在を失うわけですから。しかし命までは失いません。ただ……、伴侶を失った悲しみに、自ら命を絶ってしまった魔王がいたことは事実です」


「……」


 アウゲはごく薄い水色の目で宰相を見た。その瞳孔が大きく開いていて、動揺しているのがわかる。

 宰相は窓を開けた。窓の外は先程アウゲが見た燃えさかる炎ではなく、灰色の空に灰色の地面が広がる、陰鬱な辺境の景色だった。

 アウゲは立ち上がって窓辺に歩み寄る。

 周りには巨大な建造物がいくつもあるが、近すぎてその全貌はわからない。


「これは?」


「『魔王の墓』です。悲しみのあまり命を絶ってしまった者たちの姿ですよ。彼らは今も伴侶の姿を求めて、魔界の辺境にこうして佇んでいるのです」


「……悲しいわね」


 陰鬱な景色、無機質な建造物。アウゲは硬い声で言う。


「けれど、命を絶たなかった者もいるのよね? 彼らは、どうなったの?」


 宰相は躊躇ったが、求められたとおりに事実を述べる。


「……魔王の伴侶が失われると、現世では新たな伴侶が生まれます。その者を迎えるようです」


「そう」


 アウゲは窓の外を見たまま言う。宰相はその横顔を見あげた。


「それなら、心配ないわね」


 その声は普段と何ら変わるところはなかったが、涙がひと筋頬を滑り落ちた。


「ですから申しあげましたでしょう、良いことなどひとつもないと。……大丈夫ですか?」


「平気よ」


 アウゲは指先で涙を拭った。


 彼にとって唯一無二の存在になることを夢見ていた。そしてその夢は叶えられたと思っていた。けれどもそれは、幸せな勘違いだったのかもしれない。彼の隣に立つのは、自分でなくとも良かったのかもしれない。自身を他の誰かと入れ替えても、同じ物語が成立したのかもしれない。あまりに悲しい想像だった。宰相の言うとおり、知っても良いことなどひとつもなかった。だが、知らないよりは余程いい。

 しかし、仮にアウゲが冥府の王に奪われたとして、それを嘆き悲しんでヴォルフに命を絶ってほしいのかと言われれば、答えは完全に否だった。自ら命を絶つことは、負けを認めることだ。アウゲはヴォルフに負けてほしくはなかった。かといって、彼がアウゲではない他の誰かを愛することを受け入れられるかと言えば、それも困難だった。

 それらは同時に成立する、全く別の事柄だった。


「伴侶は、どうして魔王の伴侶から冥府の王の伴侶になるの?」


 アウゲは赤くなった目で宰相を見た。


「……魔界の王が冥王との戦いに破れるか、あるいは、伴侶自身が自らの意思で冥王を選ぶか。いずれかです。現世から来た伴侶の意思には、冥王も魔界の王も逆らうことはできません。それほど強い力を持つ者なのです、伴侶とは」


「ということは、ヴォルフを倒さない限り、冥府の王は私の意に反して私を伴侶とすることはできないのね?」


「おっしゃるとおりです」


 それを聞いてアウゲは頷いた。

 ヴォルフがいなければ何の意味もない。彼が負ければ、その時、アウゲの命も終わったも同然だ。その後のことなど、どうとでもなればいい。

 もっとも、彼がここに辿り着かないはずがない。アウゲには確信がある。


「ですので、あのようなことを我が君に言う必要はなかったのです。勝負は取り下げるとおっしゃっては」


「いいえ、その必要はないわ」アウゲはきっぱりと言った。その目に最早涙の気配はなかった。「彼は必ず来るもの。勝つとわかっている勝負から下りる理由がないわ」


「またそういう……」


 宰相は呆れかえったが、アウゲは全く気にしていない。


(……そうだわ。王配殿下は、試練の時、あったかもしれない幸せな過去を見ていたとおっしゃっていた。もし、その中に……例えば、かつての想い人がいたら? そして陛下がその場に辿り着くのが、もう少し遅かったら? 王配殿下は、冥府の王が化けたかつての想い人を「選ばされた」かもしれないということ……。それはほとんど詐欺のようなものだし仕組まれたことではあるけれど、伴侶が自分の意思で「選んだ」ことには違いないわ。そうやって、冥府の王は、魔王の伴侶を奪っていたのだわ)


 思考に耽っているアウゲに不安になったのか、宰相が声をかける。


「あのう……本当に大丈夫ですか?」


 アウゲは思考を中断されてはっとした顔をしたが、そこに不機嫌さのようなものは見当たらなかった。


「平気よ。どうして?」


「あなた様は今や魔族なのです」


「ええそうね。でも、なぜ今それを言うの?」


「あなた様自身がそう強く望めば、あなた様は命を失います。何人かの伴侶はそうして求婚の場から去りました。魔族は、飢えや病や怪我など、現世のヒトと同じ原理で死ぬわけではありません。しかしながら逆に、自らの意思だけでその命を絶つこともできるのです。魔族とはそういう存在なのです。ですから、あまりそのことを強く願いすぎてはいけません」


 宰相のひとつしかない目には、焦りの表情があった。蜥蜴型魔族のメーアメーアよりも奇妙な姿をしているのに、その表情はよほどくみ取りやすかった。なぜかはわからない。


「みくびらないでもらいたいわ」アウゲはわざと顎を上げて高慢に微笑む。「どうして私が、自ら死ななければならないの? 私が、自ら負ける道を選ぶと思って?」


 見据えられて宰相は焦る。


「いえいえ、そうは思っておりません。そのような弱気であれば、突然ここに連れてこられた時点で正気を失っているでしょう。しかしあまりに深く物思いに沈んでおいででしたので、多少心配に」


「その心配は余計よ。それにこの勝負は必ず私の勝ちなの。負けた時にどうするかということなんて、考える必要もないことよ」


「……左様でございますか」


 取り越し苦労の多い冥府の宰相はそれ以上何も言わなかった。

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