遠華鏡

りーちこ

序章 春の心はのどけからまし

1話 幼き頃の初恋


 かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 

 

 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面──だあれ?

 


    *****

 

 カタン、と時折背中に響く細かい振動を感じながら車に揺られ往来を進む。古い街並みが佇む京都とは違い、東京は随分と西洋化が広まっているらしい。故郷の見慣れた雰囲気とはまるで違う。


 ああ、まったくの別世界に来てしまったのだなと赤いレンガ造りの建物を幾つも横目で見送りながら蒼司は緊張した面持ちを浮かべた。

 

 幼い頃に数回訪れただけの東京は、春らしい陽気に満ちて心なしか道ゆく人の洋装姿で余計に華やいで見える。

 

 自分もその内この街に溶け込めるのだろうか。


 期待と不安が入り混じる中、頭に思い浮かぶのはもう何年も前にたった一度だけ出逢った少女の面影だ。

 

 十歳の頃、蒼司は祖父に連れられ初めて東京へと足を運んだ。一度は都会に行ってみたいという少年の憧れを孫可愛さに叶えてやりたいと思ったらしい祖父が、友人の誕生日祝いに出席するのを良い機会にと蒼司を共に連れて行ってくれた。


 最初こそ列車に揺られ長旅に喜んだものの、大人の集まりに連れられた子どもなど手持ち無沙汰ですぐに退屈になるに決まっている。案の定、まだ幼い蒼司は談笑する祖父の目を掻い潜り主宰である華廣家の広々とした庭園の散策に出かけた。


 旧家らしく手入れの行き届いた庭はあちこちに季節の花を咲かせている。ちょうど桜が満開の見頃を迎え、飛石の上にその花びらを落としていた。

 

点々と一定の距離で敷き詰められた飛石を見ると思わず片足を上げバランスを取りながら石から石へと飛び移りたい気分に駆られる。普段ならお行儀よくなさいと小言を口にする母もここにはいない。少しだけなら良いだろう。幼い少年の心にはそんな無邪気な気持ちが湧き上がり、蒼司は一人遊びを始める。


 その最中、ふいに足元にころころと丸い鞠が転がり込んできた。誰かが近くで遊んでいたのだろうか。祝いの席で自分以外の子どもは見かけなかったが、低い垣根の向こうにはこの屋敷の縁側が見える。いつの間にか居住区の奥の方へと来てしまっていたらしい。


 足元に転がる白地に艶やかな赤い花が刺繍された手鞠を手に取り、ふと見上げた先で蒼司は彼女を初めて見た。


 長い黒髪が風にそよぎ、幼い少女が蒼司の手にした鞠を見つけて嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる。


「見つけてくれて、ありがとう」


 蒼司より幾分か背丈は高いがまだ幼さの残るあどけない声と共に、少女はにこりと笑う。暖かな春の陽だまりのような、そんな柔らかな笑顔を浮かべた彼女に蒼司は一瞬息をするのも忘れてその顔をじっと見つめた。


 なんて綺麗な子だろう。


 白い肌に艶のある長い黒髪を後ろで半結びし、淡い薄紅の着物を纏う少女はさながら桜の精だと言われてもこの時の蒼司は疑いもしなかった。それ程までに少女の優しげな雰囲気に魅せられていた。


 手にした鞠を差し出すこともできず、ただその場で佇んだままの蒼司を彼女は不思議そうに見つめながらも、再度お礼を言って蒼司の手から鞠を受け取る。ハレの日に相応しい長い着物の袖を翻してはこちらに背を向け駆けて行った。


 たった、それだけのこと。

 それだけのことだと分かっているはずなのに、確かに蒼司は心を奪われたのだ。


 思い出は美化される──何度もそう思い直してはみるものの、紛れもなくあれが自分にとっての初恋だったと今でもそう信じている。

 


 そんな彼女との関係が変わったのは、つい先月のこと。

 祖父同士が仲の良い旧友であり、遠方でありながらも昔から親交の続いた両家の間で蒼司と彼女──華廣日菜子との婚約が正式に決まったらしい。そこからはとんとん拍子に話が進み日菜子が女学校を卒業するのを機に、蒼司は婿入り前の婚約者として華廣家に居候することが決まった。通っていた京都の学校から東京の学校へと転校の手続きを済ませ、こうしてたった一人で上京してきたという訳だ。


 幼少期にほんの一度顔を合わせただけの彼女との縁談が持ち上がるなど蒼司は夢にも思わなかったが、あの初恋の思い出は今もこの胸にほんのりと熱を灯す。


 彼女はいったいどんな女性になっているのだろうか。自分より二つ年上の彼女は、蒼司との婚約をどう思っているのだろう。


 淡い想いと見知らぬ不安にそわそわと落ち着かない心地で蒼司はきゅっと掌を握り込んだ。

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