パッヘルベルの恋

桑鶴七緒

パッヘルベルの恋

叶うはずのない恋だと分かっていても、あの人の事は好きにならずにはいられなかった。


所沢駅から西武新宿線に乗車し東村山駅から西武国分寺線に乗り換えをして、更に国分寺駅から中央線に乗り、吉祥寺駅で下車した。


徒歩で7分のところに生活雑貨のお店がある。そこが私の勤務地だ。


開店時間になり、客足はまばらだがそれなりに店内は人の出入りはしている。昼休憩になり休憩室で昼食を済ませて、売り場に戻った。


16時。カトラリーを担当する私の元にある客がやってきた。


私よりも10センチ背の高い恰幅の体つきをしていて、品格のある雰囲気を持ち合わせて、背中にはチェロのケースを背負っている。


国立くにたち音楽院で助教として教鞭を取っている30代の男性だ。この1年、常連として平日のこの時間に訪れる。


所帯持ちで高校生の娘さんがいるらしく、その子に弁当箱をプレゼントしたいと言ってきた。

種類があるので一緒に選んであげた。


「いつもありがとう」

「またお越しください」


彼は優しく微笑んで店を後にした。


18時。退勤時間になり、電車で所沢駅から徒歩10分のところにある自宅に着いた。


私の家は学生の頃から住んでいる防音式の作りの間取りになっている。そう、自分もあの人と同じ音楽院の出身でピアノを専攻していた。


しかし、在学中精神疾患になり3年生で中退したのであった。今は通院しながらも生活はしているが、ほとんど支障はなく普通に暮らしている。時々時間を見てはピアノを弾くこともある。


小さな夢がある。


もしできるのならあの常連客の彼とパッヘルベルのカノンを共演してみたいのだ。


よし、物は試しようだ。次回の来店時に話を持ちかけてみよう。


1週間後の16時。売り場で陳列をしていると、彼が訪れた。


「私も同じ音楽院でピアノを専攻していたんです。今も弾いているんです。ダメ元で聞くのですか、お時間があれば…今度私とセッション、してみませんか?」


彼は俯いて考えた。真顔だ。変な奴だと思われている。私は何をやっているのだろう。


「お名前は?」


「小関です。小関美花と言います」

「僕は郷中さとなかと言います。次の休みはいつですか?」

「3日後の金曜日です。」

「音楽院に来れる?」

「はい」

「名刺を渡しておく。当日よろしくお願いします。」

「こちらこそ。あの、何で許可してくれたんですか?」

「僕も時間がない。出来るだけ早いうちにやってみたいと思ったから。」

「ありがとうございます、よろしくお願いします。」


3日後、立川市の音楽院に到着した。

構内を歩いていく度に室内の匂いに懐かしさと鼓動が高鳴っていく。


待ち合わせ場所の合唱室に着きドアを開けた。ピアノの前にチェロを奏でる彼の姿が見えた。しばらく聴き入っていると、彼も私に気付き、早速セッションを行なった。


1曲終えると、私はあの曲をリクエストをした。


「パッヘルベルのカノン、チェロを主体でやってみませんか?」

「良いですよ」


息を吹き込みように私から旋律を奏で始めると、彼のチェロのメロディが優しく包んでいった。弓の僅かなかすれ具合が心地よい。


演奏が終わると彼は拍手をしてくれた。


「しばらくぶりにここに来てどう?」

「当時必死になって周りについていった事を思い出します。何か今の方が居心地が良い感じがしますね」

「僕も色んな生徒を見てきている。まぁ、色んな音色があって面白いかな」

「今日はどうして引き受けてくれたんですか?」

「実は来年の春から別の大学に移るんです。記念になれば良いなと思い、貴方の要望に応えました」

「どちらに?」

「群馬です」

「じゃああと数ヶ月しか都内にいないんですね」

「お店には立ち寄らせていただきます。だから、それまでの間は、いつものように客として迎えてくれたら嬉しいです」

「勿論です。是非来てください。もう一つ聞いていただきたい事があるんですが…」

「何?」


私はバッグから手作りのバナナのパウンドケーキを取り出した。


「郷中さん。この1年、来店していただいたお礼を兼ねて作ってきました。良かったらなんですが…受け取ってください」


彼は目を丸くして、目尻にしわを浮かべて微笑んでいた。


「ありがとう。いただきます。…これは、手紙かな?」

「はい。是非読んでください」

「次、会えそう?」

「お時間、大丈夫なんですか?」

「都合が合えば。そうだ。この際だから、何かのご縁という事で連絡先を交換しませんか?」

「私で良いんですか?」

「ええ。こちらこそ僕で良ければ?」

「今、スマホ出しますね」


お互いの連絡先を教えた後、音楽院を後にした。自宅に着いてソファの上に正座をして、スマートフォンを見た。


こんな奇跡ってあるんだとつい浮かれてしまった。渡した手紙には告白も兼ねて想いの丈を綴ってある。益々私は変人化している気もした。


余計な事は考えないようにしよう。

明日の勤務に備えて今日は早く寝よう。


2週間後、いつもの時間になっても、彼は姿を現さなかった。きっと忙しいから来れないのだろう。

17時。別の客の対応をし終えて、持ち場に戻ろうとした時に大きな足音で走ってくる人物が私の肩を鷲掴みした。振り返ると彼だった。


「良かった。間に合った」

「こんにちは。今日は遅かったですね」

「電車が遅延したんだ。あの、この間の返事なんですが…」


私は売り場の角の人気のない所に案内をして話を聞いた。


「少しの間だけど、友達になりましょう」

「良いんですか?」

「はい。僕で良ければ。」

「ありがとうございます。凄く、嬉しいです」


お互い笑顔になり、その日から少しの間、彼と友人として月に2回会うようになっていった。


月日は流れて、翌年の3月。

最後のセッションをしようと再び音楽院に向かった。3曲演奏をした後、一緒に音楽院を出て最寄りの駅のホームで電車を待っていた。


「郷中さん」

「何?」

「私、ずっと貴方が好きです。群馬に行った後も…この先も忘れないです。好きでい続けていいですか?」

「良いよ。僕も小関さんの人柄が好きです。話しやすい方で良かった。」

「握手、してください」


お互いに握手を交わすと、彼は私の肩を抱き寄せてきた。


「僕を好きになってくれてありがとう。忘れないよ」

「ありがとう、ございます」


電車が入ってきた。乗車して途中の駅で別れた。


国分寺駅のカフェに立ち寄り、店内で1人今までの事を思い返していた。ふと涙が溢れてきて、拭っても涙が止まらない。

人目を気にしながらハンカチで顔を押さえた。ゆっくり深呼吸をして、店を後にして家に帰って行った。


彼が来なくなった後も私は変わらず、また新たな客と笑顔で交わしながら、仕事に勤しんだ。


春風の温かな香りに包まれて、あのチェロが奏でるパッヘルベルのカノンが流れていった。


この恋は忘れる事なく色褪せずに私の記憶の中に残っていくだろう。

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パッヘルベルの恋 桑鶴七緒 @hyesu

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