第1話 人生最後のデートだと思っていたのに その9
「体調が悪いなら、俺に言ってくださいと、朝言ったじゃないですか。何故黙ってたんですか?」
私は、うまい言葉が見つからず、黙っているしかできなかった。
「俺は、医師です。でもエスパーじゃない。あなたに訴えてもらわないと、俺は診断することもできない」
そう訴えかけてくる氷室さんの熱い眼差しは、私の本音を引きずり出す。
「嘘です」
「え?」
「体調が悪いなんて、嘘です」
「何故、そんな嘘を?」
「私みたいな、おばさんで、デブで、おしゃれのセンスもなくて、氷室さんに気の利いたこと1つ言えない私なんかが、氷室さんとこんな場所にいるのが、なんだか申し訳なくて」
氷室さんは、黙って私の話を聞いていた。
「ごめんなさい。1人で、家に帰してください。これ以上情けない顔、見られたくないです。お願いします」
私が言葉を吐き切ると、氷室さんが私の頬に手を伸ばした。氷室さんの手に水らしきものがついたのを見て、私は自分が泣いているのだと気付いた。
「言いたいことは、それだけですか?」
「え?」
氷室さんはそう言うと、その場で手をあげた。するとタクシーが止まった。扉が開くと、私は氷室さんによって、中に押し込められて、その後に氷室さんも続いた。
「すみません、今から言う場所に向かってもらってもいいですか?」
氷室さんはスマホを取り出すと、川越から始まる住所を言った。
氷室さんが私を連れてきたのは、住宅街にある上品な料理屋さん。普通の一軒家かと思ったが、扉を開けると、まるで古き良き旅館に来たかのような雰囲気を醸し出している玄関があった。そこで、綺麗な着物を身につけた女将さんらしき女性が私たちを迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、氷室様」
案内されたのは、2人きりで料理を楽しむために作られた、ほんの少し狭い個室。一輪の生花が、テーブルの上を可愛く彩っている。
氷室さんと私は向かい合って座る。氷室さんが扉側で、私は奥側。私は逃げ道を塞がれている。
「飲み物どうします?」
「え?」
「食事はコースを頼みましたが、飲み物はここで頼むことになっているので」
「氷室さんは?」
「俺はもう決めました」
「そ、そうですか……」
氷室さんが渡してくれたメニューにラインナップされているお酒は、通常の居酒屋さんでは見られないものばかり。心惹かれるものの、氷室さんの前で酔い潰れるのだけは絶対嫌だ。
「烏龍茶を……」
「お酒は大丈夫ですか?」
「大丈夫です!ここから家まで遠いですし」
「……そう……ですか」
「はい…………」
会話が、続かない。
タクシーの中でも、氷室さんも私も何も話さなかった。今も、その空気感を引きずっている。どうしていいか、分からない。
せめて氷室さんから何か話してくれるのであれば、まだ返答するだけで済むのに、氷室さんはさっきからとても難しい顔をしている。
私は、氷室さんと目を合わせるのが怖いので、個室の中を観察してみることにした。一目見ただけでも、質が良いと分かる数々のインテリアが、この店の値段感を伝えてくる。
氷室さんは、いつの間にこんなお店を予約していたと言うのか。
この、ありきたりな話題であれば、会話できるのではないか。
「氷室さん、この店」
私が話しかけてみたと同時に、氷室さんが言葉を被せて来た。いつもよりずっと低い声で。
「どうして、俺に黙って1人で帰ろうとしたんですか?」
「どうしてって、言われましても……」
「特別な日にするって俺が言ったの、忘れてたんですか?」
「特別な日って、言われましても……」
私にとっては、氷室さんのような人とこうしているだけで、十分特別だ。
普段は表情がわかりづらく、顔だけでは感情を読み取りづらい氷室さん。だが今は、私に怒っていることがひしひしと伝わってくる。
どう返事すべきかと、私がためらっていると、飲み物のメニューを持っている私の手に、氷室さんの手が重なった。
「森山さん。俺から逃げようとしてませんか?」
図星だ。
「そんなこと、ないですよ」
私が咄嗟に誤魔化した。
「では何故、俺を置いて帰ろうとしたんです?」
「だからそれは体調が…」
「何度も言いますが、俺は医師です」
「それは、そうですけど」
こんな時、私どうすればいいのだろうか。氷室さんの、私を射るような目が、私を攻撃する。
「森山さん。俺を、見てください」
「すみません……今はちょっと」
「ちゃんと、話しましょう」
氷室さんが、手を伸ばして私の頬に触れる。ゆっくり、私の顔を正面に戻す。氷室さんの熱を帯びた目と、私の目が合う。逸らすことは、許されなかった。
「森山さん。俺……」
「待ってください」
私は、それを聞いてはいけない気がして、耳を塞ごうとした。
その時、私にとってはありがたい侵入者が訪れた。
「失礼します!お料理お持ちいたしました!」
女将さんの明るい声が、部屋中に漂った重苦しい空気を一気に吹き飛ばしてくれた。
「あら?どうかなさいました?」
「いえ、大丈夫です。準備をお願いします」
さすがは氷室さん。表情を変えないまま。素直に羨ましい。
私は女将さんが料理の準備をしている間、俯いていた。
それからは、料理が次から次へと運ばれてくるので、会話どころではなかった。
明らかに美味しいはず分かっている料理を味わう余裕など私にはなく、作業のように無言で料理を口に運んだ。
しばらく続いた沈黙が破られたのは、デザートタイムに入ってから。
女将さんが和菓子と食後のコーヒーを置いてから「もう料理は来ませんので、ごゆっくり」と言い残して去って行ったのが、トリガーだった。
「ここ、氷室さんが予約したんですか?」
「はい」
「いつの間にそんなことを……」
「川越に行く日程が決まってすぐです。ここ、隠れた名店だと聞いていたので、森山さんと一緒に来ようと思いまして」
「おいくらですか?私、ちゃんと払いますから」
「ダメです」
「どうして!」
「こういう特別な日は、男に花を持たせてくれませんか?」
「だから氷室さん、その特別な日って何ですか?」
私が訴えかけるように聞くと、氷室さんはまた、私の両手を彼の両手で包んだ。少し冷たかった。
「森山さんは、男性とお付き合いされたことはないんですよね?」
それは、喫茶店で何気なく話した内容。そんなことを氷室さんは覚えていたのか。
「……だから、何だって言うんですか?」
氷室さんのような人に言われると、イヤミのようにしか聞こえない。ついキツい口調になってしまった。
「だから」
「っ……!?」
突然、氷室さんが、私の手に口付けしてきた。私の脳のキャパが崩壊しそうになった。
「ちゃんと、したかったんです」
氷室さんは、そのまま私の手を力強く握りしめた。私は、氷室さんからこの先出てくるかもしれない言葉を想像しては消し、また想像しては消しを繰り返したが。
まさか、私なんかに、氷室さんがそんなこと言うはずない。
これまでメッセージのやりとりの最中でも、喫茶店で話をしていても、わずかに考えた可能性をこれまでの経験に基づいて潰してきた。
私なんかが、選ばれるはずはない、と。それなのに。
「森山さん。俺は、あなたのことを、守りたいと思っています。俺の恋人になってください」
「どうして……私なんか……」
私は警戒していた。何故なら、私は嫌というほど経験しているから。受け入れられたと思った矢先に、バッサリ切り落とされる痛みを。
過去の私が訴える。やめろ。ここで引き返せ。いつか、後悔するぞ、と。
「お願いです。答えを、聞かせてくれませんか?」
何故、おとぎ話の王子様のような人が、舞台のセリフのような告白を、私なんかにしてくれるのだろう?これは、夢?それとも、罠?
幸せすぎる申し出だ。これを受ければ、身分不相応と、神様が罰を与えるのではないか。
「氷室さん私なんかで、良いんですか?」
受け入れるなと、理性が叫ぶ。受け入れたいと、本能が叫ぶ。
「私はデブで、ブサイクで、おしゃれじゃなくて、女としてダメダメで」
氷室さんは、頷きもせず、ただじっと私の話に耳を傾けている。
「だから私は1人で老後を過ごしたいって決めていたんです」
話せば話すほど、涙が溢れる。
「俺は、森山さんが良いんだ。側に居させて欲しい」
氷室さんは、私の目元を拭いながらそう言ってくれた。
こんなに力強く、自分を求めてくれる人がいる。
この想いに、一体誰が抗えるのだろう。
私は、完敗した。
「ありがとう……ございます……」
私は、それを言うだけで精一杯だった。
「キスをしても、いいですか?」
氷室さんの問いかけに、私は、小さく頷いた。
氷室さんが私の真横に座り直す。それから、氷室さんは、そっと触れるだけのキスをしてくれた。
1度は離れた。でも、すぐまた唇を重ねて来た。
今度は私の体を引き寄せ、抱きしめながら。
呼吸を止めるかのような、唇を押し付ける強いキスだった。私は、氷室さんの背中に恐る恐る手を回し、受け止めるので精一杯だった。
ファーストキスはレモンの味だと何かの本で読んだ気がしたが、私のファーストキスの味は、コーヒーと、ほんのり甘い和菓子の味だった。
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