第1話 人生最後のデートだと思っていたのに その3

『医師と出会う 婚活パーティー 14時半〜』

 エントランス前に置かれている立て看板には、確かにそう書かれている。

 まさか、と思った。すでに数人、エントランスに入っていく人とすれ違っていた。

 男性はかっちりとしたジャケット姿の人もいれば、ビーチで過ごすようなラフな服装の人もいた。一方女性は、美容院で整えてきたと明らかに分かるような髪型とメイク、そしてかつては読んでいた雑誌で見たことがある男性受けしやすいワンピース姿の人ばかり。かつて、忘れようと思っていたあの日の記憶が鮮やかに蘇ってくる。

 帰りたいという欲が、ふつふつと湧き上がる。佐野さんが、何故こんな場所に私を呼び出したのかの真意も、この時間までこない理由も、正確なことは分からない。

 体感気温は35度。すでに服はぐっしょりと濡れている。黒い服だったおかげで汗は目立っていない。しかし、エントランスがガラス窓になっており、自分の軽いメイクが、汗であっという間に取れているのが見えた。

 スマホを急いで確認しても、佐野さんからの連絡は一切入っていない。すでに時間は、14時15分。

 くらりと、目眩がした。暑さにやられたのだろう。すでに、熱中症対策で買っていたペットボトルの水は空になっていた。

 倒れる。地面にぶつかる。そう思った時だった。

 ふんわりと、爽やかなシトラスの香りがした。とんっと、背中が誰かにぶつかった。

 この時のパターンは分かる。ぶつかった人が、私の体重に耐えられず、一緒に地面に倒れて、平謝りしないといけないパターン。ヘタをすると骨折させるかもしれないから。

 ああ、どうしよう。そう思っても自分ではコントロールできないから。

 ところが、私の体はびくとも動かない。肩を掴まれ、支えられている。

「大丈夫ですか」

 たった一言で分かる。低く、セクシーな声。恐る恐る振り返る。

 空色のネクタイと、桜の花がちょこんとついたネクタイピン、清潔感漂う上品なスーツ、それに、スーツ越しに分かるたくましい胸板が目に入った。

 思わずどんな人なのかと、見上げてしまった。その人は、涼しげな目に長いまつげ、高い鼻に整った唇を持っていた。さあっと風が吹く度にたなびく、絹のような黒髪を持っていた。そして逆光でも分かる、髭の痕1つない綺麗な肌をしていた。

「も、申し訳ございませんでした!」

 私は急いで男性から離れた。

 私の汗でスーツを汚しているかもしれない。その場合、クリーニング代払わないといけない。5000円で足りるだろうか。

 財布を取り出そうと、私が自分のカバンを漁ろうとしたら、急に手首を掴まれた。

 「こっち入って、早く」

 男性は、私をエントランスに引き摺り込む。

 大理石の床に、私の部屋には入らなそうな観葉植物、明らかに外国製だと分かる、高級そうなインテリア、そして有人のフロントサービス……などなど、私が知っている世界とはまるで違う空間が、目の前に広がっていた。

 男性は、真っ白な皮張りの、お高そうなソファに私を座らせ、自分も私の真横に座ってきた。それから私の額に、自分の手のひらを当ててきた。

 その人と私との距離は、あまりに近い。自分の汗の臭いを気にすればするほど、私の体からは余計に汗が吹き出してくる。

 早く離れて欲しい、という私の願いも届かず、男性の手は、そのまま私の顔の上を滑らせ、私の首にたどり着いた。

「ひゃっ!!」

 私はつい、男性の胸を突き飛ばしそうになった。

「動かないでください」

 男性が真剣な表情で、私の首元を見ている。

 こんなに、男性に至近距離で見られることなんかなかった私は、こういう時どうすれば良いのかと混乱した。

 数秒経ち、男性の手が私から離れると同時に、500mlのスポーツドリンクを私は渡された。

「体少し冷やした後、それ全部飲むように」

「あの……?」

「熱中症です。まずこれで首元を先に冷やしてから、全部飲んでください」

「あ、あの……」

「しばらくここでゆっくりしてください。体調良くなってからご帰宅ください。いいですね」

 男性は、私に質問をする隙を与えることなく言い切ると、ぱっと立ち上がり、そのままエレベーターホールの方に消えてしまった。

 私は呆然と見送るしかできなかった。クリーニング代を支払うどころか、逆に飲み物を貰ってしまった。

 中に入ったと言う事は、ここの住人である可能性もある。せめて名前さえ聞いていれば、フロントの人に預けることが出来たかもしれないのに、と後悔した。

「森山さん!何してるの!」

 そんな私の思考を、バッサリと断ち切る声がした。嫌な予感がして振り返る。明らかに気合入っているのがバレバレな、婚活向けファッションに身を包んだ佐野さんが、仁王立ちをして私を睨みつけていた。


「佐野さんって言うんですね、お綺麗ですねぇ……」

「ふふふ、ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ。ねえ、森山さん」

「……はい……」

 現在私は、男性2人と佐野さんに囲まれている。正確に言えば、佐野さんを囲っている男性2名と佐野さんの傍に立たされている。

 佐野さんが私を連れてきたのは、やはり婚活パーティーだった。

「あなたも参加者なんですか?」

「ラッキー」

 などと、佐野さんには男性が話しかけ、私を居ないもののように扱っていくのに、心がようやく慣れ始めた頃だった。

「きゃあああああ!」

 急に部屋中の女性が色めきたった。

 何事だろう?

「来たわね……」

 佐野さんも、今までつまらなそうにしていたのに、一気にハンターの目に早変わり。

「あの、佐野さん……どういうことですか?」

「ああ、森山さん。お願いがあるのよ」

「……はい……」

 佐野さんが指差した方向に渋々目線を向けて、私は驚いた。

 清潔感漂う、上品なスーツと空色のネクタイがとてもよく似合う人。明るい蛍光灯の中でより際立つ、涼しげな目元に整った顔立ちの人。エントランスでぶつかり、名前を聞けば良かったと後悔をしたあの人が、丁度会場に入ってきたところだった。

 この婚活は、医師との出会いがコンセプトだと、立て看板には書いてあった。つまり、あの人も医師なのだろう。考えてみたら、テキパキと私の様子を見て、的確な指示を出してくれたので、辻褄はとても合う。となると、あの時私を助けてくれたのは、親切というよりは仕事だから……と考えるのも、辻褄が合う。私は、ほんの少しだけがっかりした。

 佐野さんは、先ほどまで自分に声をかけていた男性のことなど気にも留めない様子で、上機嫌で話し始めた。

「あの人が、私の運命の旦那様よ」

「え?お知り合いですか?」

「森山さんは、体と同じで本当に鈍いのね」

「はぁ……そうですか……」

「あの人と、今日恋人になって、婚約者になってみせる……!」

「はあ……」

 その人の名前は氷室樹。ちょっとした界隈では有名なお医者さんとのこと。最近テレビにもゲスト出演することが多いらしい。佐野さんが言うには、氷室さんのような男性はS級レベルというランクがつけられるらしく、婚活の場に出てくることは滅多にないらしい。

 どうしても氷室さんにお近づきになりたかった佐野さんは、懇意にしているイベント会社に、ちょっとした色目を使って、このパーティーを企画してもらったとのこと。

「そんなこと私に話してもいいんですか?」

「森山さんだからいいんじゃない。絶対に、あの人の好みじゃなさそうだし、私の味方になってくれるし」

「はあ……そうですか……」

 つまり、私は氷室さんと佐野さんの運命の出会いを演出するために用意された、佐野さんにとって都合の良い駒、ということ、らしい。

周囲を観察してみると、確かに皆、綺麗に着飾っている。笑顔も、例え作り笑いだとしても、可愛い。肌も整っている。何より繊細な服がとても似合う、細さを持っている。そんな人達の中に紛れ込んだ私は、異質な存在だなと思った。

 氷室さんは、あっという間にそういう女性陣に囲まれた。の様子を佐野さんが、じーっと戦略を作る時のような、射抜く目で見つめている。

 あんな人なら、すぐに素敵な彼女ができるんだろうな。もしこれがゲームだったならば、佐野さんのような女性とのカップリングは避けてあげたかったところだが、私にもこれから先の人生を安泰に暮らす権利はある。

 ふと、先ほどの出来事を思い出す。今考えてみたら、少女漫画の出会いのシーンみたいだった。それを体験しただけでも、私の人生は、悔いなしだろう。

 そうだ。最後にお金渡さないといけない。スーツのクリーニング代を。

 私は1つ目のミッションとして言い渡された1分PRタイムの時間で、佐野さんを氷室さんにどうアピールすればいいのかと、どうクリーニング代と飲み物代を渡すかを、必死に考えながら、苦痛な待ち時間をやり過ごした。

 正直言えば。出来ることならこれだけは避けたかった。

 どうして、自分を出すことが苦手な人間にとって苦痛でしかないコーナーを、婚活ではやろうとするのか。自分の婚活の時も、まさにここでリタイアした。

 だが、そんなことを考えても仕方がない。

 私は、恐る恐る指定された席に着く。席は、まるで山手線の線路のように、円形に配置されていた。トラウマの形だった。

 女性は内側、男性外側に座るようになっており、女性は固定席。男性は合図が来たら時計回りに移動する、という仕組みになっている。

 そして私の真横には、佐野さん。移動できたとしても、できなかったとしても、真横の人間は変えられない。私は1度だけ、諦めのため息をついてから、指定された席に、ハンカチを敷いてから腰掛けた。

そうして始まった1分PR。予想以上に気持ちは楽だった。

「ねえ、君さ、あの美人の知り合い?」

「佐野さんっていうんだっけ?あの人とお近づきになりたいんだけど……」

「佐野さんの好みのタイプ、出来る限り情報が欲しいな」

 例外なく全員が、私のことではなく、佐野さんのことを聞いてくる。聞かれたことだけに答えることで、この苦痛の時間を乗り越えることができるなら、むしろ好都合だと思った。佐野さんからのミッションは、氷室さんに佐野さんをPRする。ただ、それだけ。

「佐野さんは、うちの会社でも美人って評判ですよ」

「佐野さんに憧れるクライアント先も多くて」

 このように、佐野さんの良いところを上手に説明する練習を、佐野さん目当ての男性達への雑談の中でさせてもらい、本番に備えた。

 それから、いよいよ。佐野さんがお目当てにしている氷室さんが、私の前にやってきた。

 氷室さんは優雅な仕草で隣の椅子から立ち上がり、私の前に座る。ただそれだけなのに、美しいという単語が似合うなんて羨ましいと、思ってしまった。

「実は……」

 第一声を私が出そうとした時だった。

 突然、氷室さんが両手で、私の顔を挟んできたのだ。頬が潰れるほど。

 突然の出来事に、私はパニックになっていた。

 どんどん、氷室さんの顔は近づいてくる。

 私は息を止めて目を瞑り、氷室さんが離れるのを待った。

 けれど氷室さんは、私の頬に触れた手を、そのまま私の下瞼の下にもっていき、ぺろり、と捲った。

 私の顔は、どんどん熱くなっていく。それに引き換え、氷室さんは冷静沈着だった。ちなみに真横からは、佐野さんの視線が痛いほど突き刺さる。

 く、苦しい!早く離れて!もう、限界だ!

 私はくらり、と後ろに倒れそうになり、ぷはっと息を天に吐いた。

 床にぶつかると、痛みを覚悟した。しかし、そうはならなかった。今回も。

「失礼」 

 氷室さんは、私の腰を支えていた。倒れないように。そのまま、私の手をすっと取ったかと思うと、自分も立ち上がり、私も立ち上がらせた。

「氷室さん、どうしましたか?」

 イベントスタッフの女性の一人が、慌てた様子で近づいてきた。周囲の女性達のざわつく声が聞こえる。佐野さんは……確認するのも怖い。

「催しの最中で申し訳ないが、急患なので、失礼する」

 そう言うと、氷室さんはあっという間に会場を後にした。私を軽やかに連れて。

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