人欲-15

 翌日、訪問もなければウェブミーティングもないのでパジャマのまま午前の業務を家でした。家に居ても気を散らしてくるひとがきょうは来ない。



 そのまま冷蔵庫に残っていたチョコレート菓子とヨーグルトを食べ、ろくな昼食を摂らなかった。



 昨日のエラーの謝罪文を仕上げ、本高の資料の見直しと、新しい企画の構想で1日が終わる。きょうは全然電話も鳴らないし、びっくりするほど忙しくない。17時にアイが家に入ってきた。



「ほのちゃん、きょうは家なんだ。お休みだった?」



 わたしの姿を見てそう思うのも無理はない。



「いや、これでも仕事してる」



「ほのちゃんはすごいなぁ」



 いつも通り食パンくらいの弾力の声。ただ、笑顔があんまり澄んでいない。


両手にエコバッグを持っていて、そのままキッチンに立った。



 その物音を背にわたしはメールを返す。


また総務の前沢から些細な書類不備の叱りのチャットが飛んできた。


お客さんから来た質問を開発メンバーにチャットを投げる。


背後から野菜をむしる音がする。


村田さんから企画の相談のチャット。


樫木からの嫌味のチャット。


背後から何かを炒める音。


カスタマーサポートからの対応レポートを読む。


サラダ油の匂い。


 しっかりと時計を見て、18時ちょうどに勤怠報告のチャットを入れ、パソコンをシャットダウンした。もう、きょうは文字を見ない。



 テレビの前のローテーブルにレタスチャーハンの乗った皿がふたつ並べられた。



「きのう」とアイが口にした。虚ろな目をしていた。彼女の瞳がこんなにも虚を表していたのは初めてだった。



「あ、いや、食べよ」



 両手を合わせ丁寧に「いただきます」というから真似をした。


そういえば、昼に食べたものに対してこんな敬意、払わなかったな。いままで全然そんな敬意払ってこなかった。



「食べながら話そ」



 なんの話をされるのか、だいたい予想ができる。アイに隠し事をしているのは嫌だったが、自分のこころの準備のためにもきのう行ってよかったのかもしれない。



「まず、食べるね」



 アイは食べ物に敬意を払ったものの、爆速で口に運ぶ。いただきますと言ったことにより粗雑に食べることを許されたかったのかもしれない。



 レタスチャーハンを4分の1ほど食べ終えた後「前に付き合ってたひとの借金を返すために風俗をやっていたと言ったでしょう」と言った。



「そのひとが、きのう昼に会いに来て、嫌だったな」



「いまの家の住所知ってるんだ?」



「うん。ずっと同じとこ住んでるから」


 引っ越せばいいのにと言おうとしてやめた。引っ越しは労力がかかる。


それに、安定職についていないから会社員のわたしよりも家探しに苦労するのかもしれない。



「何しにきたの? また借金?」



「うーうん」


 わたしも半分くらい食べたけど、美味しいとか不味いとかぜんぜんわからなかった。味付けの問題ではない。



「もう、借金とかしないから、ヨリを戻したいって」



 アイの目が潤んでいた。これが何を意味するのかさっぱりわからない。



「アイはどうしたいの?」



「絶ッ対嫌。わたしが何よりも嫌だったのが、罪悪感なくそんなことを言ってきたことで」



 アイはローテーブルに皿を置いた。



「わたしが、好きで風俗なんてやってたとでも思ってるのかなって」



 風俗なんて、だなんて言わないで欲しかったけれど、やっていた側からするとそういうことばが出てくるのも無理がないのかもしれない。


客は風俗嬢を選べるが、風俗嬢は客を選べない。


後々NGリストにぶち込むことができたとしても、1回目は選べない。あの日のわたしの言ったことも無神経に感じられただろうか。



 忘れようとか考えないようにしようとか言ったところで、忘れることも考えないようにすることもできない。だからこれも意味のないことだから言うのをやめた。



 しかし、自分のつくった借金を、自分の彼女に体を売らせて返させるなんてなかなかの外道だ。いや、そのひとも、体売ってたのかな。知らないけど。



 ほとんど進まなかったチャーハンの皿をローテーブルに一旦置いた。



「アイが素敵なひとだからヨリを戻したいと言いたくなる気持ちはわかるよ。でもわたしはアイの彼女としてもうそいつに近寄らせたくないな。ずっとウチに居ていいんだよ」



 これがわたしの精一杯だ。



 アイはわたしの肩に頭を置いた。



「ほのちゃんは、わたしのどこが好きなの?」



「え?」



「顔? 体? 中身なんて、わからないでしょう。わたし、全然自分の話、してないし」



 確かにわたしはアイからほぼ何の情報も貰っていないに等しい。



「なんでわたしのこと好きだなんて言ったの」



 アイがそれに対し敏感に感じているとはよもや思わなかった。



「運命なんてことば、イタすぎるかな。でも、アイを見たときにほかのひとと違うって思った。


わたし、好きなタイプってなかったし。でも、アイを見たときに絶対に付き合いたいって思った」



 アイは鼻から長い息を吐いた。お気に召さなかったのかもしれない。



「ごめん、なんか、ちゃんとしてなくて」



「うーうん。嬉しいよ」



 わたしが理想、アイの権化と思ったアイもひとりの女性として、ちゃんと形がある。


アイの“ほんとう”が積み重っていくことにうっすらと背汗をかく。



 アイは、いままで何人のひととしたんだろう。いままで何人の恋人が居て、誰とどんなところに行ってどんな夜を過ごしたんだろう。


わたしがレズビアン風俗でお金を遣ったり、一晩中仕事に追われたりしていたとき、アイは誰と何をしていたのだろう。



 なんでわたしはよく知りもしないこのひとと一緒に居るんだろう。



「アイは、なんでわたしに付き合おうかって言ってくれたの?」



 それを知ったら死んでしまう気がした。だから触れないようにしていた。


この箱はパンドラの箱ではないし、すべての災難が出た後に希望が残らないとわかっていたから。



「わたしが出会ったひとのなかでいちばん、ほのちゃんに欲がなかったから」



 わたしの想像の空間に存在しなかった答えで、驚いてしまった。



「わたしなんて欲だらけだよ。むしろ、欲でできているような人間」



 アイは真顔のままわたしを見つめたい。顔全体が深い夜のようだった。



「それは、あなたが人間を知らないだけ」



 柔らかいひとだと思っていたアイが急に聡明、それどころか全知全能の神のように思えた。



「人間ってもっと、汚いよ」



 遠回しに欲がないわたしのことを綺麗だなんて言わないで欲しい。


わたしは欲に満ちている。欲張りだ。いつも飢えているわたしを否定されてしまったら、わたしはほんとうに何もない気がした。



「みんな誰かに肯定されたいのだし、認められたいんだよ。


みんな自分の話ばかりするし、体だって1回したらもっともっとって激しいことや良いサービスを求められる。でも、ほのちゃんは違ったから」



「いや、アイが欲しかった。アイに触れてたかった。アイを独り占めしたいと思ってたよ」



 アイは小さく「でも」とこぼした。



「別にそれ、わたしじゃなくてよかったよね。わたしである理由が、ないんだから」



「理由はないけど、アイがいい。アイがいいって思ったっていうのは理由にならないかな」



 アイは一体何を言って欲しいのだろう。だんだんとこういうものはすごくめんどうくさいと思い始めてきた。


この感情に触れたとき、これってわたしが避けてきたものだと気づいた。



 わたしはずっと「いい自分」を演じることで、誰にも真意を見せず、深い関係を作ってこなかった。だから、「うわべの友人」はたくさんいるけれど、真実を話せるひとはひとりも居ない。



「わたしのこと好きならもう少しさ、わたしのこと知ろうとしてよ」



 アイはそう言って立ち上がった。



「わたしのこと、全然訊こうとしないんだもん」



 アイを想うとき、いつもアイの過去にいたわたしのような誰かの存在を嗅ぎとってしまう。



 ごめん、とことばの唇の形は思いつくが声にはならなかった。



「何も知らないで好きで居ようなんて、結局わたしっていう容れ物が気に入っただけでしょう」



 よくわからないが、怒って帰ってしまった。ほんとうによくわからない。


ここでいつも言われる「女って」ということばを思い出す。こういう面倒くささに「男」も「女」もない気がする。



 まったく腹落ちしない。とりあえず、皿をシンクに持っていった。ビニール袋に残飯を入れ、皿に水を浸した。



 確かに理想のアイで居てほしくて真実を知りたくなかった。


全部を知っても好きで居る自信があんまりなかった。例の元彼女は、アイのことどこまで知っていたんだろう。



 もうきょうは文字を見ないと決めたのにパソコンをひらいてチャットを眺めた。


わたしの名前にメンションがついているメッセージがないか探した。なかった。


忙しくないことに喜んでいたくせに、少しだけ誰かに必要とされたいと思った。

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