第12話

 空っぽの右手でパソコンに触れる。消えない。今度はコーヒーカップに触れる。消えない。隣で資料を読み込むライの肘に触れる。やはり消えない。あからさまに心配の視線を注がれ、白状する。

「消えなくてよかった」

 逆に疑問を増やしてしまったらしい。ライは資料を傍に置いて俺の額に手を置いた。

「熱はなさそうですね」

「ハハハ。心配かけてごめん」

「やだなあ先輩、ここはごめんじゃないですよ」

「え?」

「サンキュー、です」

「サンキューな。相棒」

 やはり彼は気を緩ませる天才だと思う。そんなことを思っていたら、今度は真剣な眼差しが向けられる。

「冗談はさておき、今日はもう上がられてはどうですか。七時過ぎてますし」

「大丈夫だよ。滅入ってる訳じゃない」

「悩み抜いているようには見えますが」

 鋭いな、そう答えて、思考を整理する。


「俺が個人的に追ってる案件、覚えてる?」

「はい。黒蝶の件ですね」

「ああ。それで俺は恐らく、いや十中八九、彼女の獣能力の影響を受けている」

「先輩のその状況と、自分に触れたことは、何か関係していますか?」

「影響範囲の確認。今から少し付き合ってもらえるか?」

「はい」

 席を離れ、向かうは屋上。三日月の綺麗な夜だった。先日の事を思い出し、鉄柵付近へ。彼女が立っていたのは、この辺りだろう。

「ライはこの辺に何が見える?」

 俺は虚空を指したつもりだ。実際に何も見えていない。だが彼は違った。

「ベンチと、吸い殻入れがありますね」

「やっぱりな」

「どういうことですか?」

「俺には、吸い殻入れは見えない」

 ライは何も言わなかった。これ以上、踏み込んでよいか否か、迷っているのだろう。弁えのある、彼らしい判断だと思った。

「ライ。この先は俺の独り言だ。聞きたければ聞くといい」

 ベンチに座り、紫煙を燻らす。携帯用の灰皿を取り出す姿は、隣に座ったライには滑稽に見えるに違いない。


「彼女の名はフレイア。同級生。見た通り蝶の獣能力を有する。その一つが、素手で触れたものを不可視化する力。彼女だけが、見失う。まあ、どういう訳か、一切合切消し去るものと勘違いしていたけどな」

「なるほど。それにしても独特な能力ですね。初耳です」

「ああ。それが蝶の獣人に特有なのか、彼女のみに宿る力なのかは知らない。だが、確かにこの目で見た。ライはここに吸い殻入れがあると言ったな」

「はい、ここに」

 彼は実際に触れているらしかった。その付近に手を伸ばすと、見えない空気のヴェールにでも弾かれたように押し返された。実物には届いていなかったらしく、手を揺らしただけのように見えると、ライは言った。

「でも先輩は、彼女の遺伝子を組み込まれたり、輸血を受けるなど、所謂フェイカー化の手段は取っていませんよね?」

「そうだな」

「なら、どうやって影響を受けると言うんです? あ……まさか交配を」

「してねえよ。仮にそうだとしても影響ねえよ。それに、フレイアは弟の彼女だ。そんなことするくらいなら海に飛び込んで死ぬ」

「邪推したこと陳謝します」

「まったく」

 そして煙で肺を満たす。吐き出す時、思い出された不要の想いものせた。

「小さい頃、彼女の傷の手当てしたことがあって。鮮血に触れてしまったんだろう。何かの拍子に体内に入り、取り込まれ、影響が出ていると推測するのが妥当だ」

「なるほど。獣能力はその血に流れる防衛本能。触れたことにより、能動的な能力は発動しないまでも、防衛反応を発症しているというわけですね。どおりでいい香りがすると思いました」

「んん?」

「前に嗅覚の話をしましたよね。自分、人から匂いを感じることなど皆無だったんですけど、先輩は違いました。少なからず、先輩の中に獣人を感じていたのでしょう。ちなみに、当時、アナフィラキシーは無かったんですね?」

「ああ」

「そうですか。馴染みが良かったんですね。加えて幼い頃の出来事なら、共存して長い。それは影響というより、先輩の一部と化しているのでは」

 何も答えられなかった。否定も肯定もできず、どう受け止めていいか分からなかった。

「まあそれはともかく。先輩、今のところ彼女に犯罪性は見えませんね」

「そこだな。彼女、夢を叶えることを許してって、言ったんだ」

「はい。覚えています」

「彼女の夢は、俺が思い出せる彼女の夢は、彼女が人でも、獣人でも、一緒にいて欲しい」

「どういう、ことでしょう?」

「彼女は自分の獣能力を無効化したがっていた。人化を望んでいた。しかしそれは未だ叶っていない。むしろ獣能力の不安定化に陥っている」

「不安定化? 彼女はハーフ、ということですか?」

「ああ。そこに起因するかは不明だが、自らの手で、駒を進めているように思う」

「まさか、捜査一課の件……」

「そのまさかを考えている。空中移動して逃走幇助したり、施し先を選定するなど、加担していないとも言い切れない。頻発していた黒い影の目撃情報、およびCメソッドの研究開発に関係の深い施設へ分配が多いところを見ると、一点に帰結する」

 ライの横顔に浮かぶ、疑問の数々。どれから消化していくべきか、整理しているようだった。

「お言葉ですが、偶然の可能性はありませんか? Cメソッドの確立を待ち望む人々は一定数いると聞きます。それに、実際に対面した時、過度に追い詰められている様子は見受けられませんでした。法を犯すようには到底思えません」

「そうだな」


 ふっと吐いた煙が、虚空に溶けた。


 俺は、彼女が人でも獣人でもハーフでも、何でも構わないんだ。

 彼女が、ただ_____


「こんな時間までお仕事お疲れ様」


 振り向かずとも、誰だかわかる。すかさず警戒の姿勢を取るライ。腰元の警棒に伸びるその手を制し、俺の背後に立たせておいた。

「よく居場所ここがわかったな。監視でもしてるのか?」

「まさか。偶然通りかかっただけ」

「こんな時間に何の用だ」

「答えを聞かせて」


 俺は、君が人でも獣人でもハーフでも何でも構わないんだ。

 君がただ……


「夢を叶える許可が欲しいんだったな。好きにしろよ」

「突き放すのね」

「どう受け取ってもらっても構わない。俺はただ、君が人でも獣人でも構わない。そう思うだけだ」

「私のことはどうでもいいってことかしら」

「そうは言ってないだろう」

「どうかしら」

 言い終えぬうちに、翅をひと撫で。見つめているのは翅か、その指先か。視線は緩やかに三日月へと移った。

「カイト。気づいているのでしょう。あなたの中の、私に」

「…………」

「見えるものと、見えないもの。今はあなたが選んでる。でもこれからは、そうと言えない未来が来る」

「……何を、言っている……?」

「タクトから聞いたのでしょう。私の能力が不安定になっているって。もう麻痺の鱗粉は上手く出せない。逆に、消す能力は、力を増してる。能力矯正のこのグローブ越しでも、消せる時があるの」

「何だって……」

「だから、いち早く止める必要があるの。だけどもし私の中の蝶が消えても、あなたの中には残ってしまう。そしてそれは、Cメソッドでは消せない。ねえ、カイト」

 そこで震え出すスマホ。着信画面には弟の名。そうと知ってか知らずか、飛び立つ準備を始める君。

「また明日ね」

 悲しげに微笑み、ふわり、暗闇の中に消えていった。慌てて受電すると、タクトは用件を捲し立てる。

「フレイアを見たら掴まえておいてお願い!」

「どうした?」

「いいから!」

「わかったよ、わかったから。なあ、どうした? 何かあったのか?」

 深呼吸の音がした。

「治療薬が無いんだ」

「ごめん、詳しく」

「前に、彼女の医者の付き添いをしたって言ったでしょう。Cメソッドの、新薬の治験の話もしたよね」

「ああ」

「彼女は、この治験に参加しているんだ。勘違いしないでよ、俺が懇意で勝手しているわけじゃない。彼女が望んで志願したんだ、審査も通ってる」

「なるほど」

「今日も診察に来たらしい。俺は仕事で立ち会えなかったけど、担当者に聞いたら前回の精密検査の結果を伝える日だったって」

 かろうじて息を整える様子が伝わってくる。この先を促してよいか躊躇われた。弟の声は、涙を堪えるのに必死だった。

「彼女には、これ以上投薬できないと、そう伝えたんだって……」

「つまり、人には、成れないんだな」

「それだけじゃない。副作用も出始めてる。獣能力の精度コントロールを担う器官が不活化し始めてるんだ。最近の不調はこのせいだった。俺が紹介なんかしなければよかったのに」

「落ち着け」

「カイトどうしよう」

「落ち着け。いいかタクト。お前は何も悪くない。嘆くより、今から出来ることを考えるんだ」

 電話口で、深く、深呼吸する音が響いた。

「フレイアに会ったら、何もしないように伝えて」

ここで会話を止めることもできたけれど、その先を聞く、義務があると思った。

「彼女は、何をしようとしているんだ」

「……治療薬の、過剰摂取。廃棄されたはずの彼女の分が、見当たらなくて。ただでさえ内部器官をやられてるんだ。これが何を意味するか、兄貴ならわかるよね」

「わかった。必ず止める」

「頼んだよ、カイト」

 そして電話が切れた。


「先輩。一言よろしいですか?」

「ああ、すまない。置き去りにしたことは謝るよ」

「そこではありません。それに、獣能力の精度を上げてお二人の会話は聞いてましたので、置き去りにはなっていません」

「すごいな、そんなことも出来るのか……っじゃねえわ。聞いてたのかよ」

「捜査協力と言ってください。それと、先の一言の件ですが、やはり法を犯す方のようには見えません。嘘を付く仕草も確認できませんでした。それに一課の件には進展があり、有袋類や頬袋を持つ獣人とワシの獣人の関与が特定されています。彼女は白です。ですが念のためお伝えすると、彼女の行き先を突き止めました。弟さんに連絡されますか?」

「ちょっと待って情報が多すぎる」

「ではベンチで落ち着きながらお聞きください」

「悪いな。遠慮なく」

 二人してベンチに腰掛けたところで再開するライの推理。

「自分は、彼女が去る間際に聴力を上げていました。逃走経路を追うためです。そしてその先に」

「五街第三高校か?」

「気づいていたんですか?」

「いや。ようやく思い出しただけだ」


_____この先で私が何になっても、自分で決めたなら満足するって、言ったわよね。

 この獣能力のこと、今まで黙っていたのは、これが欠点だと思っていたからなの。大事なものを消してしまうから。

 でも今は違う。これのおかげでみんなに会えた。そう思えるようになった。

 できることなら人に成って、ありのままの手でみんなに触れたい。失う恐怖から自由になりたい。でもそれが出来ないからと言って、不満足にはならない。みんなへの感謝が、消えることなんてないの。

 だからね。みんなが幸せなら、私も幸せ。だから、みんなが夢を叶えて幸せになること、それが私の夢。人になっても、獣人のままでも、ずっと一緒にいてね。そうやって、私の夢を叶えてね。きっとよ。_____


「これが夢の全貌だ」


 だから、夢の始まりの場所で、夢を叶える許可を乞うのだろう。叶えたいのは人化じゃない。皆が幸せであることの意志確認。特に、失う世界を知る俺の、覚悟を問うために。

 そんなことしなくたって、答えは分かりきっているだろう________

 俺は、君が人でも獣人でもハーフでも何でも構わないんだ。君がただ、皆と幸せに笑っていてくれたなら。


 その皆の中に、俺が居なくてもいい。

 それが君の幸せなら。


「先輩……自分……」

 その瞳は潤いに満ちていた。

「ああ。ライは優しいからな。わかってくれてありがとう。充分だ」

「待ってください。勘違いしないでくださいよ。先輩を一人で行かせるほど、自分が能天気だと思いますか?」

「能天気とは思わないが、そこまでしてくれなくていい。個人的な案件だし」

 いよいよライの目尻を伝う大粒の涙。

「すぐそうやって全部一人で抱え込もうとするの、先輩の悪い癖ですよね。いいですか、明日朝イチで迎えにあがりますからね」

「落ち着くんだライ。俺は」

「あがるったらあがりますからね!」

「……ッハハハハ」

「なんで笑うんですか?! 自分はこの上なく真剣なんですけど!」

「ああ。充分すぎるくらい伝わってるよ。ありがとな」

「……先輩……!」


 死ぬつもりはねえよ。死ぬ気で向き合うだけだ。

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