愛の色を教えて

惟風

愛の色を教えて

 仕事場が村から離れた町の方にあるため、少し多めに働くだけで帰宅が遅くなる。夜闇の中を歩くのには慣れていた。

 畑の間を抜けて続く細道は、月明かりと手に持った提灯ぐらいしか明かりがないが、今夜はいやに晴れ渡っていて見通しが良い。

 村の外れにひっそりと建つ我が家に近づくにつれて、粗末な家から漏れる明かりがぼうと視線の先に浮かび上がる。

 フウと白い息を吐いた。薄く積もった雪を踏みしめる足は、長丁場の歩みにもうへとへとだ。

 毎日の早起きにも貧相な身体に不似合いな肉体労働にも順応したけれど、寒さにだけはいつまで経っても慣れない。

 兄はまだ起きているだろうか。

 寝ていれば良い。いっそそのまま、目覚めなければ。

 身体の芯まで侵食する冷気は思考まで凍えさせ、頭の中はどんよりとしている。


 五つ離れた兄は、どうしようもない色狂いの人間だ。

 周囲が止めるのも聞かず、女と見ればたぶらかす。時には組み伏せる。恋人や旦那がいようがおかまいなしに、コレと思った者の身体を貫くことにとことん執着した。

 村の中では少しばかり見目の良い方ではあったが、そんな素行では家族の私達も含めて鼻つまみになった。それでも村長むらおさの親類であることで何とかお目溢しをされていたのが、ある時、その村長の奥方に手を出しとうとう刃傷沙汰になった。

 命だけはどうかと両親が地面に額を擦りつけ、家財道具の全てを差し出して縁を切ることで何とか見逃してもらった。

 右足の腱を切られた兄と共に、村から一番離れた掘っ立て小屋に押し込められてかれこれ八年になる。

 追い立てられてほどなくして、放蕩ほうとうの限りを尽くす息子に生命力を吸い取られるように、両親は相次いで死んだ。

 二人きりの兄弟、ただ血が繋がっているというだけで自分は、兄に人生を奪われ続けることになった。

 うまく歩くことのできなくなった兄に猫なで声で名を呼ばれると、どうしても見捨てることができなかった。

 元より働く意欲も能力もない兄を家に置いて、毎日逃げるように遠くに働きに出るようになった。



 玄関の扉を開けようとした時、ふと違和感を覚えた。

 何かがおかしい。

 おかしさの正体は何だと首を傾げる。

 扉や壁を眺めてみても何も変わりはなく、自分の呼吸や身動みじろぎするたびに擦れる衣服の音がやけに耳について、不安を余計に掻き立てた。

 そこで、はたと思い至る。

 静か過ぎる。自分の生きている音がわかるほどに。

 いつもなら、兄が立てる何かしらの音が微かに聞こえるのに。

 性懲りもなく女を引きずり込んでいる時など、耳を塞ぎたくなる嬌声が響いてくることもあるくらいだ。

 ざっと、家の周りを確かめる。

 獣や人の足跡はなく、無垢な雪があるのみだ。

 窓に近づき、そっと中を覗き込んだ。


 黒く、細長い者が部屋の中に佇んでいた。

 髪も手足も着物も、何もかも黒い。長い。

 軽く俯く横顔は髪に隠されよく見えなかった。

 視線を追うと、大小様々な塊が床のそこらじゅうに落ちていることに気づく。

 見極めるには灯りが足りない。燃料費をけちるものだからこういう時に困るのだ、と心の中でため息をつく。

 男なのか女なのかわからないその者は、私の視線に気付いたように顔を上げた。

 目が合った。赤い瞳をしていた。

 それだけで、人間ではないと本能的に理解した。

 あの兄は、人間の女では飽き足らず、とうとう魔物まで引き入れたらしい。

 真っ黒に思えた顔や首筋はよく見ると所々が白く、その部分だけ淡い室内の光に照らされて輝くようだった。

 こちらが瞬きを数度している間に、音もなく近づいてきて滑らかな動作で窓を開けた。

 ひゅ、と息を呑む。提灯を取り落とす。

 動けなかった。動く気もなかった。

 どうせ逃げられはしまい。

 黒い手袋をしているように見えた形の良い指。手袋ではない。

 よく見ると黒くもない。全て、赤い。

 顔も、手も、着物も。

 開け放たれた窓からひどい臭気が漂ってきて、えずきそうだ。

 ああ、兄は血と肉と糞便でできていたのだな、と頭を過ぎった。

 赤黒い顔が窓越しに私を覗き込み、表情を動かす。

 恐らく笑っている。


「貴方の」


 薄い唇から出る声は高くも低くもなく、女だと断定したことを少し不安に思った。


「愛の色を教えて?」


 大声とは違う、通りの良い音が言葉を頭に刻みつけてくる。

 それは赤い瞳を細めて、私の返答を待つように口を閉じた。


「あ、い……?」


 口に出してみると、これ以上無いほど場に不似合いな単語だ。思ったより滑らかに発声できた自分に驚く。

 血に塗れたは軽く頷いて、私の次の言葉を促す。長い髪が揺れる。ぬらぬらした塊が毛先に絡まっている。


「知らないんだ」


 赤い瞳を見つめ返して、迷いなく続けた。

 異形が、微かに眉根を寄せる。機嫌を損ねてしまったかもしれない。

 でも、本当に知らないのだ。

 手に入れたことがないものの色を、どうして答えられるだろう。存在すらも疑わしいのに。


「すまない」


 本心から出た言葉だった。

 期待に応えられず、申し訳ない。

 異形は首を振った。悲しそうにも見えた。


 そして瞬きをしている間に、は掻き消えた。


 後には、大量の肉片と血で汚れきった我が家が残された。

 痛いほどの凍えを感じているのに、生理的な嫌悪感が勝って中々家に入ることができなかった。


「ただいま」


 意を決して足を踏み入れ、虚空に向かって無意識に声をかける。

 お帰りの言葉は当たり前に返ってこない。

 そもそも兄が生きていた時でさえ、返事はなかった。

 与えることも、返してくれることも無かった。何事においても。


 ……いや、だが。

 ふと、思い当たった。


「色、か」


 乾きかけた血痕は、ベタベタとして足裏に貼り付いた。

 椅子に腰掛ける。ひどい臭いに慣れつつある自分に笑いがこみ上げてくる。

 次にあの異形に行き合ったら、質問の答えを教えてやらねばならない。


 愛の色。


「青……いや、時間によっては黒になるか」


 異形と再会したら、その時の色を答えれば良いだろう。



 そら



 兄が唯一、自分にくれた名前ものだ。




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