人でなしの彼を愛する、人外の私

 この何日かは記憶が曖昧でした。それほどまでに深い絶望に苛まれたのです。私にとって先輩とは生きる活力であり、それが唐突に消え去った時の虚無感は凄まじかったのですから。


 私も期待し続けたのです。一日だけ、三日だけ、この連休の間だけ。けれど、学校が始まっても先輩の姿はありませんでした。電話もメッセージも反応がない。まるで先輩が最初からいなかったかのように、私の幸福は終わりを告げたのです。


 毎日先輩のクラスに行って、川瀬さんに話を聞きます。それで、今日も来ていないと聞いて落胆するのです。どうやら、三年生の蓬莱先輩という人が、先輩を連れ去ったのではないかと言うのです。川瀬さんと東さんは先輩を探すため、毎日捜索をしているらしいのですが、結果は全くと言ってありません。


 学校側も、先輩を何故か出席停止としていて、居場所を知っていそうにもないのです。最終手段で家にも行きましたが、収穫はゼロでした。これ以上は警察に頼らざるを得ないのでは、というレベルまで二人は追い詰められていました。


 白芽さんは学校に来ていないそうです。先輩が消えて、一番ダメージがデカいのはあの子ですから。毎日引き籠って、先輩の匂いが微かに残った服で、その劣情を慰めているらしいです。お見舞いに行った際に見たその姿は、見るに堪えませんでした。


 何の面白みもない日々。ただ家と学校を往復するだけの毎日。私の心は次第にひび割れていきました。眠ると先輩が消えたり死ぬ夢ばかり見るので、眠りは浅くなり、食べ物の味が分からなくなりました。願うことはただ一つ、早く先輩に愛されたいと言うことだけです。


 ある日、普段ほとんど通知音がならないスマホが、誰かからの連絡を告げました。見ると、それは先輩からでした。その文面は日時と場所が記されているだけで、酷く無機質なもので、先輩らしくはありません。それでも、私は嬉しかったのです。求め続けていたものが、ようやく現れたのだから。


 しかし指定された場所である、とある山近くの寂れた駐車場に行くと、そこにいたのは先輩ではありませんでした。私の先輩を奪った憎き相手、蓬莱凛子だったのです。


 「お前……! 先輩をどこにやった!!!」


 「無事ではありますよ。もっとも、あなたの知っている励君じゃなくなっちゃったかもしれないですけどねぇ」


 ニヤニヤとこちらを嘲るように笑う蓬莱凛子。彼女が犯人に近しいことは聞いていました。先輩と同時期に居なくなり、ここ数日の欠席、先輩への接触など、ほぼ黒だったのです。そして、今を持ってこいつが先輩を連れ去った張本人であると確信できました。


 「先輩の居場所を教えろ。そうすれば命だけは助けてやる」


 「うふふ……大好きな先輩を取られて、もう余裕が無いのね。安心して、励君はあなたを見捨てたりはしないから」


 「黙れっ! 黙れ黙れ黙れ!!!」


 お前が先輩を語るな、先輩は私と白芽さんだけのものなんだ。お前のような異物が紛れ込んでいいはずがないんだ。死ね、死んでしまえ、その罪をお前の汚らしい魂で拭ってやる。だから、さっさと死んでくれ。


 気づいた時には、私は懐からナイフを取り出していました。小振りな、それでも刺さる所に刺さったら人を十分に殺せてしまう代物。それを両手で持って、私は蓬莱凛子に突撃しました。


 「あらあら……こんなおもちゃで、何をしようって言うの?」


 「くそっ……! なんでっ、届かないっ!」


 私のナイフは、無防備に体を晒す蓬莱凛子を確かに突き刺すはずでした。常人では対処不可能な速さと力で、彼女を殺すはずだったのです。ですが、ナイフは蓬莱凛子の指で挟まれてその動きを止めました。


 「ちょっと落ち着いて、ね」


 「ぐっ! 先輩を、返せぇ!」


 もう片方の腕が振るわれると、ナイフがカランカランと音を立てて、ひび割れたアスファルトを滑っていきました。殺しても、良いことなんて一つもない。だと言うのに、私の頭は目の前のこの女を殺すことだけに集中していました。私から先輩を奪った、この女狐を殺すことだけに。


 「はぁ……お話になりませんねぇ。しょうがないです。少し早いですが、後は励君にお任せすることにしましょう」


 「……え?」


 蓬莱凛子は、後ろで止めてあった車の窓を三回叩くと、そのドアを開きました。黒いブラインドで目隠しされたそこからは、先輩が出てきました。愛しの、先輩。私の、眷属かみさま


 「せ、先輩っ……!」


 「久しぶりだね、霞」


 隣に蓬莱凛子がいることを忘れて、私は先輩の胸に飛び込みました。あぁ、本物だ。この嗅ぐだけで安心する匂いも、私を包み込んでくれる優しさも、全て本物の先輩だ。背中に腕を回して、決して離れないようにします。もう二度と、先輩を離さないように。


 「先輩……先輩先輩先輩っ!!!」


 「ごめんね、長い間待たせちゃって」


 その言葉が、私の胸をじんわりとほぐしていきます。色を失った世界が、少しづつ色づいていきます。先輩が私の頭を撫でるほどに、甘い電気が全身を駆け巡るのです。愛が溢れて止まりません。


 「グスッ……せんぱぁい、寂しかったです。お願いですから、私のこと捨てないでぇ……」


 「大丈夫、霞を置いて行ったりはしないよ。僕は霞の眷属、だからね」


 言葉が溢れます。涙が止まりません。近くに先輩以外の人物がいても、私はそれを抑えられませんでした。だって、先輩無しでは生きられないのです。先輩がいない世界に意味は無いのです。先輩が愛してくれないと、私は死んでしまうのです。


 泣く私を、先輩は慰めてくれました。先輩に抱きしめられて、先輩に頭をよしよしされて、先輩に愛を囁かれました。数日摂取していなかった先輩成分は、私のキャパシティを越えてもなお、脳を刺激し続けます。


 頭が弾けて、砕けて、崩れて、ドロドロになります。思考が先輩で全て上書きされ、先輩以外が脳に信号を送らなくなります。全て溶けて、混ぜ合って、固まって、先輩漬けにされた私が出来上がりました。もう、先輩から離れることを許容できないこの体は、先輩を離すことはありません。


 「ふっー-ー……はぁー--……」


 「霞、聞いてほしいことがあるんだ」


 「ふぁい? なんですかぁ?」


 頭が茹って、まともな思考が出来ない中、先輩の甘い言葉が脳を刺激します。先輩の頼みならどんなことでも、たとえ死ねと言われても幸福です。それくらいまでに、私の脳は堕ちきっていました。しかし、最後の一線を越えることが無かったのです。だって、そのお願いは今までの先輩らしくなかったのですから。


 「……それ、本当に言っているんですか?」


 「うん。凛子のおかげで、僕はようやく気付けたんだ。皆が幸せになるためには、どうすればいいのかが」


 グズグズの頭で、ただ脳死することなくその意味を考えたのは、白芽さんの存在があったからです。私はどんな選択も、先輩に付き従う覚悟です。倫理的に良くない事でも、先輩が望むなら私はやって見せましょう。


 けれど白芽さんは、その選択を受け入れることが出来るのでしょうか? たった二週間ほどとはいえ、好きな人を共有したのです。私と似ていて、とても不器用で、偏った愛を持ったあの子。変わった関係ではありましたが、確かにそこには友情があったのです。


 「それで、白芽さんは救われるのですか? 何より、先輩は救われるのですか?」


 「……やっぱり、霞は気付いてたんだね」


 確信があった訳ではありません。もしかしたら、が少し予想外の内容だっただけです。先輩は私を疎ましく思っている訳でもなく、困っている訳でもなかったのでした。それはもっと単純で、分かりやすくて、悔しいけど私一人じゃどうにも出来ないことです。


 そしてそれは、一歩間違えれば皆が不幸になるかもしれない選択でもあります。白芽さんがそれを拒めば、先輩は永遠に幸せになれない。白芽さんもまた、先輩の気持ちを見ないふりし続けることになるのです。私は先輩がいなくなって終わり、最悪の終わり方なのです。


 「白芽を幸せにするのが、僕の責任なんだ。だから、必ず白芽を、皆を幸せにしてみせるよ」


 「そう、ですか……私と白芽さんだけじゃ、駄目なんですね」


 悔しいなぁ……これ以上ないくらい愛しているつもりなのに、先輩を満足させられていなかったのか。でも、肝心の先輩がそう思っているのだから、そうなのだろう。もっと先輩の愛に報いたいのに、私じゃ役不足なのか。本当に、悔しくてたまらない。


 先輩の眼を見ると、それが如実に分かってしまう。嫌でも分からせられる。私の愛だけじゃ、この人を幸せにすることが出来ない。そんな自分の非力さが悔しい。好きな男の子一人すら、満足に幸せに出来ない自分が情けない。それでも、私は私のすべきことを成すのです。


 「これだけは、約束してください。どんなことがあろうと、白芽ちゃんだけは幸せにしてください。もし、先輩が幸せになれなくても、です」


 「霞は、友達思いの良い子だね。白芽にこんないい友達が出来て、僕は嬉しいよ」


 「えへへ……なでなで嬉しいです」


 これは本心です。私は、先輩が眷属かみさまになってくれたという事実だけで、自分を騙せると思います。自らの欲求に蓋をして、形も声も無い想像の先輩を信仰して、そこまでして何とか生きていけると思うのです。ですが、白芽さんは違います。彼女は、本物の先輩が傍に居ないと生きていけない。


 蓬莱凛子は知りませんが、白芽ちゃんだけは見捨てないであげてください。私の、大切な友人なんです。彼女がこのまま衰弱していくのを、見ていられないのです。


 先輩も相当に酷いことを私に要求しているのですから、お相子でしょう。そのくらいの覚悟で、先輩は白芽さんに対峙しないといけません。あの子は今、先輩を独占することだけしか見えていないでしょうから。


 「じゃあ、約束だ。僕は白芽を幸せにするし、もちろん霞も幸せにするよ。だから、こんな僕で良ければ一緒に、共に歩いてくれかな?」


 「はい、喜んでお受けします」


 先輩は掌を刃物で切り裂くと、私に差し出しました。その手を取って、その滴る血を舐めていきます。もう一度味わいたくて仕方が無かった、この味。先輩は最高のご馳走です。心を潤して、死んでいた味覚をも呼び起して、私を満たしていきます。


 この血のためなら、どんなことだってしてしまう。これを知ってしまった日から、物事の価値基準が例外なく一段階下がってしまうのです。依存性の高い、私たちだけに効く特攻薬。先輩で体が満ちていきます。


 願わくば、白芽さんにもこの幸福が訪れますように。そして、先輩もこれと同等の幸せで溺れてくれますように。先輩が幸せなら、私も幸せになるのですから。


 私は隅から隅まで先輩の手を舐めて、綺麗にしていきました。出血は止まりましたが、後で私の血も飲んでもらいましょう。別に、先輩に私の血を飲んでもらうことに快感を覚えている訳ではありません。これは立派な医療行為なのです。


 日も暮れて、夜が近づいてきました。今日は月が良く見えます。私たちの運命を決める夜が、これから始まるのでした。


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 「私の前でイチャイチャと……ぶち殺すよ?」


 「私の先輩を独占して罰が当たったんですよ。もう先輩を独占なんてさせてあげませんからねー」


 場所を変えて移動している最中、私は隣に座る忌々しい吸血鬼を睨みつける。嫉妬でどうにかなってしまいそうだ。思っていたより、私は愛が重いらしい。だが、それも致し方ない。私にとっては初めての好きな人なのだから。


 その眼を見つめると、ゾクゾクする。その体に触れると、心がざわついて食べたくなる。その声を聞くと、耳元に残る彼の悲鳴が残響して興奮するのだ。彼を愛するにはこれくらいの気概が必要なのだ。決して、私が変態な訳では無い。


 しかし……橘霞は私とはまた違った偏愛を持っている。それは本来人に向けるようなものでは無い。もっと概念的なものや、宗教的な偶像に捧げるものに近いものだ。単純な崇拝ではない、彼のためなら命すら厭わないと言う振り切った愛。


 狂信者と言って相違ないだろう。彼に狂い、彼を慕い、彼に尽くす彼女はイカレている。私も人のことは言えないが、大概こいつもぶっ飛んでいる。


 「はぁ……励君は本当に女たらしですねぇ。私も人のこと言えませんが、彼の何処に惹かれたんですか?」


 「先輩が先輩だからです。それ以外に、理由なんて要りますか?」


 何てことないように、さも当たり前のようにそう言ってのける橘霞は、確かに狂気の人だった。それと共に、常人ならば耐えきれないその重みをもってしても、彼を満たすことは出来ないのかと戦慄する。そしてそれ以上にもっともっと、好きになってしまうのだ。


 それはそれとして、確かに橘霞の意見は的を得ていた。彼が遠山励であるのだから、愛す。それ以上の理由は他にない気がした。彼の内面が私を魅了するのではなく、彼が彼だから私を惑わせる。運命のなのだ。きっと、順番が違っても私たちは彼に狂わされる。


 「そうね……確かに、その通りです」


 彼に狂わされた者同士、どこか気が合うような気がした。私がそんなことを考えるなんて、らしくない。それとも、彼女もまた吸血鬼だからだろうか。同じ人を愛する、同じ種族だからこそそんな気持ちを起こすのかもしれない。


 夜がまた深くなってきた。先ほどまで見えていた月はすっかり雲に隠れて、その姿を認識することは出来ない。


 彼はもう行ってしまった。最後に彼女を説得、いやこちら側に引きずり込むために。もうすぐ、雨が降りそうだ。きっと、それは二人の全てを洗い流してくれるだろう。

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