先輩は私の眷属(かみさま)
「ごめん、霞。僕に、それを受ける資格は無いんだ」
霞の表情を見ていられない。その暗澹たる面持ちは、希望を目の前で奪われたことを如実に表していた。僕は、霞を絶望という名の海に突き落としたのだった。今すぐにでも訂正して、その顔を今日のような笑顔にして欲しい。でも、それは出来ないのだ。
僕には白芽がいる。白芽から吸血を受けた日、僕は彼女の言う
だから、僕は霞の申し出を断るしかない。その選択は間違っていないはずだ。白芽も、僕の行動を非難することなく、むしろ喜ぶだろう。僕は正しい返事をした。
同時に、これで良かったのかと思う。目の前の少女を傷つけて、その淡い思いを踏みにじって悲しませるような行為が本当に正しいのか。僕が踏み込んでおいて、必死の思いで打ち明けたその気持ちを、そんな軽々しく投げていいものなのか。一体、どうすればいいのか分からない。
きっと、僕は間違えた。どちらかを傷つけるような選択肢しか選べない現状を招いたのは、僕の責任だ。だから、僕はどちらかを切り捨てなくてはならない。必然的に、選ばれるのは霞だ。そこに至るのは当たり前の帰結のはずなのだ。なのに、この溜まっていく不快感は一体何なんだ?
「どうして……ですか?」
「僕には白芽がいる。彼女からの吸血を受けた僕は、白芽を裏切れない」
ここで霞の吸血を受ければ、白芽が怒り狂うのは目に見えている。そしてその怒りは、僕ではなく霞に向くだろう。白芽は絶対に、霞を許さない。最悪、刃傷沙汰どころか殺人にまで発展するやもしれない。
どちらにせよ、その結果は良いものでは無いはずだ。霞が死んだり、白芽が捕まったりする未来などあっていいはずがない。ならば、僕が今ここで断ることが一番の解決策だ。何としてでも、霞には僕を諦めてもらう。僕の気持ちより、ここは大局を見るべきだと必死に自分を納得させていく。
「本当にごめん、霞。僕っ!?」
霞に目を合わせようとすると、体が後ろに吹っ飛んだ。背中に強い衝撃が伝わると共に、喉元から違和感を感じる。息もしづらく、苦しい。それもそのはず、僕の首には霞の手が巻き付いていた。
「はぁっ……! はぁっ……! これでも、ですか! 先輩が私を受け入れてくれないなら、先輩を殺して奪います。先輩が白芽さんしか見ないなら、もう二度と白芽さんを見れないようにします。それで良いんですかっ!」
「がぁっ……ぐ……」
もう冷静な判断が、霞には出来ていない。馬乗りになって、僕の首を絞める霞はボロボロと泣いていた。そこにいつもの霞の姿は無く、ただ衝動のままに力を振るう別の何かが居た。
違う、そんな風になってほしかったんじゃない。僕は少しでも、自分を化物だと信じて疑わない霞が笑顔になってくれたらいいと思っていた。泣いて終わるような関係じゃなく、笑って終われるような関係にしたかった。だから、あの日保健室で霞を引き留めたのだ。なのに、その結果がこんな結末だなんて。
結局、僕の怠慢が招いた結果だ。僕の自己中心的な独善で、霞を救ったつもりになっていたのだ。責任も持てないくせに、彼女をここまで悪化させてしまった。
愚かで愚鈍な僕は、何も出来ない。背丈の小さな女の子一人の拘束すら、どうにも出来ない。目の前で泣く友達一人すら、助けることが出来ない。僕は、白芽のいじめに気付けなかったあの日から、何一つ成長していなかった。
僕が気付く頃にはもう手遅れで、不格好な応急処置で誤魔化すばかりだ。白芽が僕を通じていない人と関係を持とうとしなくなったのも、霞がこうなってしまったのも、僕が無力だからだ。何もできないくせに、それを無視することもしない。一番救えないのはそんな僕だったのかもしれないと、自虐的なことを考えた。
「先輩、もう一度聞きます。私だけの
「ぁ……だ……めだ」
「っ! どうして! どうして私じゃ駄目なんですかっ!? 私に何か不満があるなら、言ってください! 先輩がいないと生きていたくないんです! 先輩だけに尽くします! だから……だからだからっ……私を選んでよ……!」
悲痛な叫びが、誰もいない公園に響く。本当に誰も居なくて良かった。こんな所見られたら、通報されてしまう。でも、代わりに誰も助けに来ない。割って入ってくれる人もいなければ、いさめる人もいない。今この場で僕が霞に力で抗うことは出来ない以上、完全な詰みだった。
少しづつ、意識が朦朧としてきた。ギリギリと絞める力が強くなってきて、目の前が霞んでくる。けれど、例えぼんやりしようとも霞の泣き顔だけは見えてしまう。それをしっかりと頭に刻み込みながら、僕は力を緩めた。白芽、本当にごめん。僕は、君の責任すら取ることが出来なかった。
抵抗しようにも、する力が無い。僕はゆっくりと意識を落として……
「ゴホッゴホッ……! かす……み?」
「なんで……本気で殺そうとしたのに、どうして抵抗しないんですかっ!」
「これは僕の……責任、だから……」
死を覚悟した瞬間に、霞の手が除けられた。息を吹き返したように、呼吸が段々と戻ってくる。戸惑う霞の質問に咄嗟に出たその言葉は嘘偽りない僕の本心だった。僕の人生は、今まで白芽を救った責任を取るためにあった。それは、白芽以外にも当てはまる。僕は、僕のせいで歪んでしまった人の責任を取りたかった。
僕に、霞を責める資格などない。僕が霞に関わったせいで、彼女は苦しい思いをしている。抱えなくていい不幸まで抱えようとしている。僕が出来ることは己の不甲斐なさと情けなさを胸に、ただ責任を取り続けるだけだ。全て、僕のせいなのだから。
「あははっ……殺される時すら、先輩は私のものになってくれないんですね。先輩の心は白芽さんのもので、私に目を向けさせることも出来ない」
「…………」
何か、声をかけたかった。でも、なんて声をかけたらいいのか分からない。僕が何を言っても、ひたすらに空虚で無責任な言葉にしかならないのだから。僕が何も言えないでいると、霞は近くに落ちていた自分のバッグを拾って、そこから何かを取り出した。
「先輩……大好きですよ」
「っ! 霞!!!」
「動かないでください」
取り出したるそれは、小振りなナイフだった。霞はそれをしっかりと握り、自らの首にあてがったのだ。反射的に止めようとすると、霞はその手を静止したまま僕に話始めた。
「動いたら、これで動脈を引き裂きます。流石の私も、無事じゃすまないでしょうね」
「な、何言って」
「先輩が自分を大切にしない人だってことは分かりました。その心が正攻法じゃ手に入らないことも。だから、選んでください。私か、白芽さんを」
「そんなの……決められるわけないだろ……!」
「でも、決めてもらいます。白芽さんを選ぶなら、私は死にます。これで死ななくても、次は確実に死にます」
霞の眼は先ほどのものとはまた違う、狂気を孕んだものになっていた。そこに一切の躊躇はなく、嘘やはったりなどではない覚悟のみが爛々と光っている。
「私を選ぶなら、今この場で血を飲ませてください。別に、白芽さんと縁を切ってほしいだとか、殺したいってことじゃありません。私のこと恨んでくれてもいいです。でも、あなたの血だけは下さい。それだけが、私の望みです」
「っ……なんで、そこまでして……!」
「先輩はっ……! どうしても欲しい、欲しくて欲しくてたまらない、私の
焦る僕を急かすように、その刃はどんどん彼女の首に埋まっていく。どうすればいい? どれが最善なんだ? 正解があるのなら、誰か教えて欲しい。僕は、どうしたら彼女を救える?
その瞬間、僕の頭に蓬莱先輩の言葉が蘇った。彼女は言ってくれた、どんな選択をしようとも間違いじゃないと、それを決めるのは僕自身であると。だったら、僕がここですべきことは何だろうか?
考える時間は殆どない。既に、ナイフは霞の首を傷つけ、鮮血を滴らせている。僕はそれを見て、確かに自分の意思で走り出した。結局、僕は間違え続けているのだろう。きっと、これからも間違え続ける。
正解を選ぼうとするほど、間違えじゃない方を選ぼうとするほど、僕は選択を誤る。肝心なのは、間違えを恐れることでも、それを回避することでもない。自分が正解だと思うものを、自分の意思で選び取ることだ。
霞のナイフを持つ手を取り、それを取り上げる。この選択が間違えでも、それでいい。僕は今回こそ、自分のしたことの責任を取って見せる。
「せん……ぱい。来て、くれたんですね……」
「霞、よく聞いて。僕は白芽が大切だ」
「ぁ……はい……分かって、ます。それでも良いんです。私を、少しでも見てくれるなら」
「違う、そう言うことじゃない。僕は白芽と同じくらい、霞も大切なんだ。そこに優劣はつけられない」
僕は最低のクズだ。白芽と霞を天秤にかけた時、その重さは同等のものだったのだから。独りよがりの考えを振りかざし、それによって生まれた問題を解決するでも放棄するでもなく、ただ背負い込む。その行動は、間違っているのだろう。
それでも、僕は決めた。明らかな間違えだろうと、他の誰が何と言おうと、僕は二人を捨てない。どちらも責任を取る。白芽と霞が幸せになれるまで、僕は責任を取り続ける。これが僕の答えだ。
「だから……これは霞に脅されたからするんじゃない。僕の意思で決めたことだ」
「せんぱっ!」
霞から取り上げたナイフで、僕は自分の手のひらを切り裂いた。アドレナリンが出ているのか、不思議と痛みは無い。ただ、じんわりと熱いものが流れ出ている。僕は血にまみれた手を、霞に差し出してこう言った。
「眷属、要りますか?」
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先輩の心は白芽さんのもの。私がどうあがこうと、それを手にすることは出来ない。だから、少しでも先輩に私を見て欲しかった。ありのままの私を。ただの後輩ではなく、あなたのことが好きな一人の吸血鬼として、先輩に覚えていて欲しかった。
こんなことがしたかった訳じゃないです。先輩を困らせたくなんて無かったのです。でも、その気持ちはとっくに吐き出してしまいました。飲み込むことなんて、既に出来ません。
先輩の記憶に残るのなら、この命は惜しくありません。この2,3年間は私の人生の中で一番輝いていました。先輩という存在のおかげで、私はとても楽しかったです。その結果がこれなら、私は満足なのです。
それにもかかわらず、先輩は来てくれました。あんな脅しで、私の願いを聞く理由なんて無いのに、来てくれました。先輩に嫌われてもその血が飲めるなら、私を憎悪しようと嫌悪しようと構わない。それも、私を強く思うことだから。
けれど、返ってきた先輩の言葉は、私を憎むものでも恨むものでもなく、ただひたすら優しいものでした。私が欲しい血を先輩自ら差し出して、私の
「先輩……どうして、そんなこと……」
「霞だって、同じじゃないか。目的のためなら手段を選ばない、間違っていても自分の信じたことをする。どうしようもないほど、身勝手で自分本位な考え方だ。僕たちは、似た者同士だね」
「っぁ……せん、ぱい……」
あぁ、もうおかしくなってしまいます。この人の愛で、ドロドロに溶けていきそうです。私はずっと、一人だと思っていたのに傍に居てくれた。私の愛は理解されないと思っていたのに、肯定してくれた。私の、
「ふっー……ぁあ……んむ」
差し出された手をそっと受け取って、先輩の血を啜ります。あの日以来の、先輩の血。今回は盗んだものでは無く、私のために先輩が流してくれた愛の結晶。それはどんなものよりも代えがたい、痺れるほどの幸福を与えてきました。
舌が先輩の血液に触れるたびに、脳がショートします。味蕾はその役目を放棄し、感じるはずの無い幸せを発信し続けるのです。馬鹿になってしまうほどの快楽物質は、留まるところを知らず、どんどん溢れ出していきます。それらが全て混ざり合って、溶けあって、どんどん形を成していくのです。こんなもの、知ってしまったら二度と忘れられません。
ちょっとだけ、白芽さんが先輩を束縛する理由が分かりました。これほどのものを味わったからには、その幸せを知りながらも受け取れないで生きる未来を想像したくないでしょう。それが想い人なら尚更です。私だって、許されるのなら先輩の全てを独占して、私だけのものにしたいです。
けど、それは先輩への裏切りです。そんな恥知らずな行為をしては、先輩が許しても自分で自分を許せなくなります。今だって、私は自分を許せていません。優しい先輩を、こちら側に引きずり込んでしまった。だと言うのに、私はそれに対して全く後悔していないからです。私は種族的にも、本物の人でなしでした。
「先輩……先輩っ!!!」
「うわっと……危ないって」
私は肌の味しか感じられなくなるまで先輩の手を舐めまわすと、そのまま先輩に抱き着きました。じんわりと、幸せが私の中をゆらゆらしています。先輩が出す全てを、敏感になった五感で埋め尽くして行きます。先輩以外、何もいりません。
「今は、そのままで良いよ。落ち着くまで、ずっとこうしていよう」
「ありがとうございます、先輩。私、幸せでどうにかなっちゃいそうです」
先輩の体が、私を包み込みます。脳内が先輩で塗りつぶされて、全てが先輩になっていきます。先輩が先輩で、先輩は先輩なのです。私の頭は先輩で沈みこまれて、先輩が染みこんでしまったのです。
先輩以外の思考をしたくありません。先輩だけにしか反応したくありません。先輩としか話したくありません。先輩にしか見られたくありません。先輩によって、もっともっともっともっともーっと滅茶苦茶にしてほしいです。
「よしよし……今だけは、何も考えなくていいよ」
「せんぱい……せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい……」
頭を撫でられている間も、私の体は先輩を求め続けます。今この場で先輩に刺されて殺されたとしても、私は幸せです。本物の先輩を知った私にとって、先輩から受けるどんなことも喜びでしかないです。
これから先、私と先輩は白芽さんと向き合わなくてはなりません。小学生の頃から、この快楽を知っている白芽さんにとって、私は先輩を掠め取った相手だと思われることでしょう。ですが、私は先輩を独り占め出来ません。
先輩が白芽さんを大事に思っていようと、私は先輩の愛を少し分けてもらえればいいのです。白芽さんはそれすら認めないでしょうが、私はどんな手を使っても白芽さんを納得させてみせます。先輩も、手伝ってくれますよね?
だって、先輩は言ってくれました。私たちは似た者同士だって、私も白芽さんと同じくらい大切だって。先輩を諦めきれない私にとって、それはあの日以上の救いでした。
死ぬまで先輩の傍にいます。私は先輩と一緒にいるためなら、他にどんなものだって捨てて見せます。絶対に放しません。先輩、大大大大大大大大大大好きですよ。
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