後輩は、先輩の血が飲みたい

 目を開けると、朝日が差し込んできていた。あの後、甘える白芽を相手にしたまま寝てしまったようだ。時計を確認すると朝の6時過ぎで、登校まで少し余裕があった。いつもならまだ寝ている時間。白芽もすやすやと寝ている。


 しかし、幸せそうな顔をする白芽を、僕は起こしにかかる。本心を言うと彼女の寝顔を眺めながら、この髪をただ触っていたい。朝の爽やかな気分の中、それは最高の贅沢だ。だが、今日は休日ではない。起きて学校に行かなければならないのだ。


 当たり前のことだが、大事なことである。恐らく、この家には美幸さんらはいない。あの人達は朝が物凄く早いのだ。だから、白芽を起こすことが出来るのは僕だけだ。このまま二度寝でもしようものなら、白芽は起こしてくれない。それは確信出来る。


 別に、白芽が意地悪をしているとかではないのだ。ただ、彼女の優先順位は常に僕を一番に考えていて、学校に行くのも僕と一緒にいる時間を増やしたいからというものだ。なので、必然的に僕がここに居る限り、白芽が学校に行く理由は無くなってしまう。これは白芽のためなのだ。


 「ほら、白芽。朝だよー」


 「うぅん……まだ、大丈夫だよ?」


 「そう言っていつも遅刻ギリギリになるじゃないか。朝ごはん作ってあげるから、早く起きよ?」


 「励の……手作り?」


 「材料があったらね」


 「じゃあ、起きる。でもその前に、おはようのぎゅーして」


 まだうつらうつらしている白芽を、軽く抱きしめる。柔らかい、ふわっとした体は少し力を入れると壊れてしまいそうだ。僕程度の力で、白芽の体をどうにかできる訳もないが、それでも丁寧に抱きしめる。


 「うん……朝起きてすぐに励を感じられるの、凄く幸せ。このままずっとこうしてたい」


 「ほら、起きるよ。ちゃんと支度できたら、後でなでなでもするから」


 「っ! 分かった、すぐ支度する」


 そう言ってその場で着替え始める白芽。急いで目を背けて、部屋を出る。慣れているとはいえ、いきなり着替え始めるのは辞めて欲しい。わざとだと分かっているのだが、それに応えるわけにはいかない僕からしてみれば、ただの拷問である。


 リビングに降りて、冷蔵庫の中身を確認する。昔から白芽にせがまれて料理をしていたので、食材を使う許可はきちんと貰っているのである。僕は白芽が降りてくるまで、朝ごはんの支度を進めるのだった。


-----------


 「じゃあ、行ってくる」


 「うん。じゃあね」


 その後、何事もなく学校に到着した。白芽も機嫌が治り、いつも通りになった。駅に到着するまで、白芽にご飯を食べさせてあげたり、支度がきちんと出来た白芽を褒めたりと色々お願いを聞いたおかげだろう。


 「あのっ……先輩!」


 「ん?」


 教室に向かう階段の途中、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには霞がいた。走ってきたようで、少し息が切れている。一呼吸おいて、霞はこう続けた。


 「お昼に……少しお時間頂けませんか?」


 「大丈夫だけど、何かあった?」


 「いえ、私の個人的な事です。お昼に先輩の教室に行くので、待っててくださいね」


 それだけ言うと、霞は小走りで階段を上がっていってしまった。そして、あまり見たくないものを僕は見てしまった。霞が僕の横を通り過ぎる時、何故か嫌そうにしていたのだ。普段の余裕があまり感じられず、会話も早々に切り上げるのも珍しかった。


 もしかすると、臭かったのだろうか。朝に軽くシャワーを浴びたくらいだったので、その可能性はありうる。彼女は鼻が利くと以前言っていたので、僕が感じ取れない何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。


 「後で謝るか……とりあえず、制汗剤はつけておこう」


 白芽に怒られるかもしれないが、これくらいはエチケットだ。それに、男子は臭いと言われることに意外とショックを受ける。僕は霞や蓬莱さんに臭いと言われたら、間違いなく泣いてしまうだろう。


 「おーっす、ちゃんと乗り切れたみたいだな」


 「あぁ、何とかね。それより誠一、僕って臭い?」


 「あ? 別に臭かねぇけど、急にどうした?」


 「いや、さっき霞に会ったんだけど、僕の横を通る時に嫌そうな顔してたからさ。もしかして臭いのかなって」


 「そりゃあ、お前……理由は明白だろ。まぁ、こういうのは自分で気づかないと意味無いしな。なんで橘がそんな態度取ったのか、自分で考えることだ」


 そう言って、誠一は自分の席に戻っていった。担任から連絡事項を聞く間、僕はずっとその意味を考えていた。彼はふざけている時以外、的外れなことを言わない。だから、霞がそのような顔をした理由を僕よりかは理解しているのだと思う。


 しかし、点で思いつかない。それでも、考えることを辞めてはいけない。僕が意図せずとも、彼女を不快にしたのは事実なのだから。


 だが、授業中も板書そっちのけで考えというのに、これだというものは出てこない。結局、絶対にこれだというものを見つけることが出来ないまま、昼休みを迎えてしまった。


 「授業中ずっと寝てんのに、腹だけは空くんだよなぁ。励は今日学食か?」


 「いや、少し霞に呼ばれてるから、先にそっち行ってくる」


 「そうか、じゃあ俺は寛乃亮と飯食ってくるから、終わったらこっち来い」


 「分かった、また後でね」


 学食に向けて全力ダッシュする誠一を見送り、僕は廊下で霞を待つことにした。それから数秒ほどで、またしても走ってきたのか、少し息が上がっている霞がやってきた。


 「はぁっ……はぁっ……お待たせ、しました」


 「大丈夫? そんなに急がなくても、待ってるって」


 「良かった……間に合って。先輩っ、ここでは少し話しづらいので、場所を変えましょう!」


 「う、うん……分かった」


 あの霞がこれほど焦っているのだ。これはよほどのことなのだろう。周りを警戒しながら、霞は僕の手を取ると、別館の方に進んでいった。こちらは文科系の部室や倉庫などが多く、生徒があまり立ち入らない場所だった。


 その中でも別館の4階。人によっては、一回もここに来ることなくこの学校を卒業する人もいるだろう。そこから更に上、立ち入り禁止の屋上へ、霞は僕を誘った。


 「ねぇ……ここじゃないと駄目なの? 多分、鍵も開いてないよ?」


 「良いんです。ここなら邪魔は絶対に入りません」


 立ち入り禁止のテープを越えて、階段を上がっていく。人がほとんど立ち入らないそこは、埃の被った椅子と机、屋上への扉だけがあった。窓ガラスから僅かに刺し込む光だけが、僕たちを照らしている。


 「こんな所で、ごめんなさい。今日は絶対に、邪魔されたくなかったから」


 「それは全然良いんだけど……一つ聞いていい?」


 「なんでしょうか?」


 「もしかして僕、臭かった?」


 朝から昼まで考えておいて、結局僕の口から出た言葉はそれだった。横を通り過ぎる際に顔をしかめる理由など、僕にはその程度の発想しか出てこなかったのだ。僕もたまに、満員電車で汗だくの人が近くにいると、思わず口呼吸にすることがある。


 だから、嗅覚の鋭い霞が僕の汗だとかを嗅ぎ取って、不快になってしまったのではないかと思ったのだ。今朝シャワーを浴びただけで、今日に限っては体臭に自信が無かったのも大きい。そう自分で思っていると、何故か霞は笑い出した。


 「ふ、ふふっ……アハハ……! ご、ごめんな、さいっ……! そんな言葉が出てくるなんて、思ってなかったからっ……!」


 「ちょ、笑わないでよ! 今日ずっと、そのことで悩んでたんだから!」


 ついには抑えることなく、霞は涙が出るくらい笑っていた。思わず僕もつられて、ここが立ち入り禁止の場所だと言うことも忘れるくらい、声を出すのだった。


 「くすっ……私、先輩に怒られるかもって思ってたんです。こんな場所に私と一緒にいるなんて、迷惑なんじゃないかって」


 「なんで? 確かにここはびっくりしたけど、僕は別に迷惑だと思ってないよ。ここも僕一人じゃ絶対に入らなかったし、むしろ感謝したいくらいだって」


 元々屋上はおろか、そこを上がる階段すら立ち入り禁止になったのは、ここにたむろする不良らが原因だった。今もまことしやかに、ここには不良がたまっていると言う噂があって、4階にすら足を運ぶ人はまれだ。


 僕は一人でそこに入ろうとは思わなかったが、興味が無かったと言えば嘘になる。立ち入り禁止の場所というだけで、少しワクワクしている自分がいた。男子とは、意外に単純なものなのだ。


 「あの……こんなこと言ったら迷惑かもしれません。もしかしたら、不快になるかもしれないです。それでも、聞いてくれますか?」


 「ん、良いよ。なんでも言ってみ」


 少し顔を赤らめながら、こちらを見る霞。ちらちらと視線が泳いでいて、僕と目が合うとすぐに逸らしてしまう。誰もいない屋上前の踊り場ということもあり、なんだか告白のようだ。僕まで緊張してきてしまった。


 「あのっ!」


 「はいっ!」


 「明日、一緒に遊びに行きませんかっ!!!」


 「……え?」


 一世一代の大勝負のように、顔を真っ赤にして霞はそう言った。もしかして、甘酸っぱい何かを告げられるのではないかと思っていた僕は、少し力が抜けた。だって、そんなことをされたら、僕はそれを断らなくてはならない。白芽という存在がいる僕が、それを承諾することは絶対に出来ないのだ。


 「なんだぁ……そんなことだったの?」


 「そ、そんなことって! だって、先輩を遊びに誘うのなんて初めてだし、それに……」


 「? 別に、友達と遊びに行くくらい普通じゃないの?」


 「えっ?」


 まるで驚愕の事実を知ったかのようなその顔を見て、今度は僕が少し笑ってしまった、そういえば、この子は中学校まで全く外に出ると言うことをしていなかったのだ。人間関係が希薄で、その機会が少なかった彼女からしてみれば、遊びに行くと言うのは一大イベントだったのかもしれない。


 「なっ、なんで笑うんですか! 私、すっごく緊張したのに!」


 「ご、ごめん……いつも僕をからかってくる霞が、遊びに誘おうと頑張ってたの考えたら、何だか……!」


 「だって……だってだって……! 今まで、したことなかったし」


 少し霞が涙目になってしまった。からかいが過ぎてしまったようだ。慌てて僕は謝る。少しすねた様子で、「許しませんっ」と怒る霞は、とても可愛かった。


 「良いよ。行こっか、遊びに」


 「っ! はい! じゃ、じゃあ……隣の市にある、美術館なんてどうです? 今なら新しい展示があって、きっと楽しめますよ!」


 「美術館か……言われてみれば行ったことないや。時間は何時ごろ?」


 「え、えっと……時間は朝の9時くらいで……」


 嬉しそうに、日程の確認をする霞を見て、僕まで温かい気持ちになってきた。予定が無ければ、白芽といるか本を読むかくらいしか予定の無い僕からしてみると、この提案は有難かった。僕は友達が少ないし、誠一と寛乃亮は美術館に行くという考えがそもそも無いので、結構楽しみだ。


 「じゃあ、また明日。何かあったら連絡してね」


 「はい。あ、先輩! もう一つ良いですか?」


 霞はそう言うと、バッグから何かを取り出した。見るとそれは、お弁当のようだ。紺色の布で包まれたそれを僕に手渡すと、上目遣いでお願いをした。


 「それ、先輩のために作りました。ちょっと失敗しちゃったので、もしかしたら変な味がするかもですけど、食べてくれたら嬉しいです」


 「おぉ! ありがとう! 味わって食べるね」


 「はい……それはもう、しっかりとよく噛んでください」


 微笑む霞は、先ほどの笑顔とはまた違う笑みを浮かべた。僕は去り際にもう一度お礼を言って、食堂に向かった。これで学食代が少し浮くと、ちょっとケチなことを考えていると目的地に着いた。そこには、昨日と同じように誠一と寛乃亮が昼飯を食べていた。


 「いやいや、ステ振りは絶対筋力と技量に振った方が良いって! どうせなら色んな武器使いたいじゃん!」


 「お前、極振りはロマンだろ? そりゃあ、上限まで振るより他の補助ステータスにポイント振った方が賢いけどよ、自分の好きな武器で出せる最大火力の方が絶対良いだろ!」


 「はぁ? 極振りとか、一部の変態しかやってないじゃん! それにいっつも先に死ぬから、某が多数戦になるんだよ! そういうのは基本を押さえてからしろって!」


 「二人とも……またゲームの話?」


 空いていた席に座って、二人を見る。話に熱中しすぎたのか、どちらも全然食べていない。この二人はゲームの好みは合うのだが、そのプレイスタイルは真逆なのだ。


 RPGは攻略を一切見ないのと、最適解をあらかじめ調べる遊び方。堅実で強い武器と、少し癖のあるものを好む趣味。二人の意見がゲームタイトル以外で合致しているのを、僕は見たことが無い。


 「なぁ……お前はどっちがいい? ただ強いだけの戦い方と、一発逆転がある戦い方! ぜってぇ後者だろ!」


 「ゲームは勝ってこそでしょ! いくら好きな武器でも、勝てないんじゃ意味ないって! 励もそう思うでしょ!」


 「いやー……あんまゲームやらないし、ちょっと分かんないや」


 ここでどちらかを擁護するような発言をすると、されなかった方がすねるので大変めんどくさい。ここでは、あえて何も言わずに流すのが一番だ。二人は少し残念そうにすると、今度は僕の持つ弁当に目を向けた。


 「それ、どうしたの? 白芽ちゃんって料理しないし、励もお弁当作るのめんどいって一か月しないで辞めたじゃん」


 「それに、お前の趣味ってもっと明るい色だよな。紺色なんて、選んでるの見たことねぇぞ」


 「あぁ、霞に貰ったんだ。さっき呼び出された時にさ」


 「へー、霞ちゃんも女の子らしい所あるんだねぇ……僕の眼鏡バキバキにする子なのに」


 それは寛乃亮が以前、初対面で「背ぇ小っちゃいね」と言ったせいだろう。こいつは的確に人の地雷を踏む。しかも、大半は悪気が無いのでたちが悪い。そんなことより、弁当だ。何故か、自分で作ったものよりも、他の人がこしらえてくれたものの方が美味しく感じるものだ。


 蓋を開けると、僕が作りそうもない弁当がそこにはあった。野菜やハンバーグ、その他色々な具材が入っているそれは、僕の手抜き弁当とは違い、その大半が手作りだった。霞に感謝してそれをしっかりと味わる。


 不思議と、僕が好きな味だった。決して完璧ではないのに、その全てがとても美味しい。僕が作ってもこんなに美味しくはならないだろう。あっという間にその全てを平らげてしまった。


 今度、霞に料理を教えてもらおう。それくらいに美味かった。何か、特別な隠し味でも使っているのだろうか。


----------


 「うふっ……ふふっ……」


 誰もいなくなった屋上前で、私は思わず笑ってしまいました。だって、こんなにも簡単に先輩を誘い出すことが出来たのだから。今日は弁当を渡すだけのつもりだったのですが、結果オーライです。急遽予定を変更したのには、理由があります。


 朝、少し遅刻しそうな時間に登校した私は、それを見てしまいました。まるで恋人のように、その手をつなぐ先輩と倉持白芽の姿を。早起きしたのに、弁当の準備に手間取ってしまいそのような光景を見てしまったのは、不幸としか言えません。


 ですから、あれが離れるのを見てから先輩を呼び止めました。本当はその場で渡すつもりだったのですが、私の嗅覚は感じ取ってしまったのです。倉持白芽の臭いが、昨日私がつけた匂いをかき消すかのように、全て上書きされているのを。


 それは、時間が経って消えたというものではありませんでした。明らかに、狙っています。


 それを見た私の心の内はぐちゃぐちゃになりました。どうして、先輩の体に倉持白芽の臭いが充満しているのか。どうして、その臭いがまるで今朝つけたかのように、その異臭を放ち続けているのか。どうして、先輩はそれを受け入れたのか。


 きっと、先輩と倉持白芽は本当に恋人なのでしょう。いつも二人でいますし、先輩はあれを大切にしているのが痛いほど分かりますから。でも、それを認めるのが怖くて、今までその事実を確認することはしませんでした。


 けれど、それももう終わりです。これ以上、私の先輩を汚されるのを見ていられません。どんな手段を使おうとも、先輩を手に入れます。少し早いですが、明日にも実行しましょう。そう思って先輩をここに呼び出しました。考えていたより、あっさりと約束出来たのでラッキーでした。


 頭の中を先輩で埋め尽くしながら、恐らく今先輩が食べているであろう弁当のことを考えます。あの中には、バレないくらいに私の血を入れました。愛情のトッピングです。気づかれないようにはしましたが、先輩が分かったらそれはそれで嬉しいです。


 あぁ、出来るなら先輩がそれを食べているのを間近で見たかった。先輩が私を食べて、噛んで、飲み込んで……私を取り込む姿を頭に焼きつけたかった。しかし、倉持白芽ほど今の私をイラつかせる存在はいません。先輩の前だろうと、彼女を殺してしまうやもしれないのです。だから、想像だけで我慢です。


 私の血を含んだ弁当を食べる先輩を妄想しながら、私は教室に戻りました。今日はこれで良く眠れそうです。先輩、大好きですよ。

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