第3話 ちょうど今日だよね
湖面に垂らした釣り糸は微動だにしない。初秋の太陽は傾き、湖面はその光を黄金色に反射している。対岸の鬱蒼とした森からは、終わりゆく夏にしがみつくように蝉が鳴いている。
流介の提案で教室から逃げてきた俺たちは、釣り部部室前の露台にやってきた。思えば、俺が釣り部に入ったのも、流介に誘われたからだ。去年の今くらいの時期だった。
その時の俺は、何をやるでもなく、ただ毎日を消費するだけだった。だから、流介の誘いに一も二もなく飛びついた、ということはなく、普通に断った。せっかくの誘いだったが正直有難迷惑、いや、迷惑だった。普通に迷惑だった。その当時の俺はむしろ毎日を無駄に過ごしたかった。それでも流介は何度も何度も俺を誘った。俺は断る気力もなくなり、一旦入部してすぐ辞めればいいか、と思い、入部届を提出し、今に至る。
「文化祭なんざ、あいつらカースト上位だけでやってりゃいいんだよなー」
早速愚痴が出てきてしまう。釣れなくて面白くないというのもある。
「思うんだけどさー、そのカースト? 意識してる奴、あんまいなくない?」
「いや、そりゃおまえは意識してないのかもしんないけどさー」
流介は極めて凡庸な、普通男子である。成績も中くらい(下手すりゃ中の下だ)だし、スポーツも決して得意ではない。これといった特技もない。しかし、こいつは割に誰とでも仲がいい。男子とも女子ともだ。
「太一だって、一年の頃は割と誰とでも普通に話してたじゃん。今と違ってさ」
「そうだったっけか?」
「一年前の話だよ、忘れてるわけないでしょ」
「忘れちったかな……」
釣り糸は相変わらず動かない。釣れない。流介の方も釣れる気配すらない。釣り糸が虚しく風に揺れている。ただこの状況は今に限ったことではない。もうずっと釣れない。一年くらい釣れない。そんなんだから、部員もどんどん辞めていった。そして現在、釣り部の部員は俺たち二人だけである。
流介は缶コーヒーを一口、一旦口に含んだ後、飲んだ。何か話したいことがあるのだろう。そういう時の、こいつの癖だ。
「確か、ちょうど今日だよね」
「……えー? 何が?」
「だから……。あ、ちょっとごめん」
流介は、手ごたえのないロッドを左手で握ったまま、缶コーヒーを持った右手で目をこすった。
「どした?
「うん……」
この一年くらい、どうしたわけか、湖を見ている生徒が眩暈を訴えるケースが増えた。それも決まって、夕暮れ時だ。俺も何度かある。こう、湖を眺めていると、何というか、景色がズレるような気がするのだ。眩暈を訴える生徒は、やはり皆同じような症状らしい。病院に行っても、特に異常はない。そこも共通している。周辺にヤバそうな施設もなく、特に健康に害もない。
「僕は呪いだなんて思ってないよ」
「当たり前だ」
釣り部の部員が俺たち二人だけになった理由は、魚が釣れないという話だけじゃない。生徒が一人、ここで死んだということになっているからだ。人が死んだかもしれない湖で釣りをするなど、そりゃ確かに嫌だろう。
事故か自殺か、それはわからない。ただ、制服がこの湖から発見された。死体は上がらなかったが、警察はこの湖での溺死という判断を下した。
悪いことは重なるもので、魚が釣れなくなったのも、湖で眩暈を訴える者が増えたのも、あいつが消えた後に起こったことだった。だから、呪いなんていう噂も出てきた。ただの偶然をそうやって結び付けたがるのは、馬鹿げてるとしか言いようがない。
「もう、いいんじゃないかな。もう今日で一年経ったんだから」
「いいって、何が?」
「太一が楽しく過ごしたからって、死んだ人間を裏切ることにはならないと思うよ」
「あいつは死んでねーよ」
それには答えず、流介は缶コーヒーを啜った。しかし、もう空になったことをその音が告げた。
「思うんだけどさー、思い出さないことは忘れたことになんのかな?」
「……どういうことだ?」
「コーヒー買ってくる」
流介は釣り竿を固定し、露台を後にした。
「なんだよ、あいつ……」
空は
そういや、あの巨大な魚影を見たのも、ちょうど去年の今日、場所もここだった。こうして思い出しても、背筋に震えのような、何とも言えない感覚が走る。恐怖だろうか畏怖だろうか。例えば水族館で巨大なサメとか海獣を見た時に感じる、あんな感じ。
俺が流介の誘いに乗って釣り部に入ったのは、あの巨大魚をもう一度見たいというのも、ちょっとあった。
どんな魚なんだろう。その姿をハッキリ見てみたい気もする。怖い気もするが。
あの時、湖で聞いた水に落ちるような音は、あの巨大魚が跳ねた音だと、俺は思っている。
湖面を細い波が糸を引いていく。一点から二本にV字に分かれて、真っ直ぐに伸びていく。こうして湖を眺めていると、たまに現れる。他の湖や池では見たことがない、この湖独特の波だ。多分、この地形が特有の風を生み、湖面に波を作るのだろう。俺はたまに見ることができる、この波が好きだ。
思い出さないことは忘れたことにならない、って、どういうことだ。思い出さなきゃ、忘れちまうだろうが。
「ねぇ、太一、」
いきなり、後ろから女の声がした。急だったので、飛び上がってしまった。声も出ないくらいびっくりした。
振り向くと、今度は逆に声が出てしまった。
「うおおぉっと……」
そこにいたのは七瀬だった。それだけなら特に声は出なかったのだろうが、七瀬のシャツは胸のボタンが破れていた。そんな状態の女子を見ようものなら、声も出ようというものだ。俺はすぐに目を逸らした。
「ねぇ、黙ってないで何か羽織るもの貸してよ」
責めるように七瀬は言うのだが、じゃあこういう時、何て言えば良かったのか。その答えを俺は知らない。羽織るもの、と言っても俺はシャツを着てるだけだ。
「下、Tシャツ着てンでしょ? シャツ貸してよ」
「俺の?」
「いいじゃん、今更。幼馴染なんだし」
幼馴染っつったところで、ガキじゃねぇんだから……。背に腹は代えられないといったところか。とりあえず、俺は後ろを見ずに、着ているシャツを脱いで手渡した。一応、周りを見回したが、誰もいない。流介もまだ帰ってくる気配はない。それにしても、さすがに日も暮れてきたし、Tシャツ一枚だと、ちょっと寒い。
そろそろいいだろ、と思い振り返ると、俺のシャツを着た七瀬が立っていた。俺はそんなに大きい方ではないが、それでも渡したシャツは女子の七瀬には大きく、なんというか……、まぁいいや。
「他に着替え持ってねぇのかよ?」
「ジャージがロッカーの中に入ってたはず」
「じゃ、持ってきてやるよ」
「お願い」
俺は竿を固定して、立ち上がった。七瀬からロッカーの鍵を借りた。
「あ、釣れたら上げといて」
「やだ。めんどくさい。できない」
交渉の余地はないようだ。釣れるとは思えないので、まぁいいけど。
「おまえ……、なんでこんなところにいたの? それから、なんつーか……、そのシャツ……。何があったんだよ」
「……怪獣にやられた」
「怪獣……?」
その時、校舎の向こう、つまり校庭の方から悲鳴が聞こえた。それも、一人や二人ではない。何十人という生徒の声だ。
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