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 二日目以降、二人は毎朝同じ時間に外出する妻と、それを分かりやすく尾行する夫を追い続けた。夫は毎日いともたやすく妻を見失い、落胆して会社に戻ることを繰り返した。

「ご主人、こんなに会社を抜け出して何も言われないのでしょうか……?」

 会社を張り込み中、あとりはアイスの当たり棒を咥えながら心底不思議そうに呟く。

「俺も気になって調べたが、どうも大きい会社の社長なんだそうだ。秘書も付けず、スケジュールも自由に自分で組んでいるから誰にも何にも言われないんだろう」

「ほえー、なんて職権乱用……」

 妻はというと、買い物、美術鑑賞など思い思いに羽を伸ばしていた。毎晩事務所に戻った後にかかってくる電話の声は弾んでいて、目論見もくろみ通りに息抜きできているようだとあとりは安心した。

 そしてとうとう三日目。その日も二人は同じ時間に事務所を出て、いつもの副島邸近くのコンビニでスタンバイしていた。

「今日はなんだか冷えますね、曇ってますし」

 こんな時は肉まんです! とあとりは今しがた買ったばかりの温かい肉まんを袋から取り出して見せた。半袖短パンから伸びる手脚が寒々しい。

「本当に自由だな、お前は……寒いなら上着を着てこい」

 こういうの、と京介は羽織っていた薄めのトレンチコートを指す。

「だって、持ってないんですもん」

 肉まんで暖を取ろうとするあとり。荷物少なく事務所に転がり込んだため、上着は持たなかったのだ。京介は嘆息し、自分が来ていたコートを脱いで投げて寄こした。

「これ着とけ」

「良いんですか!? ……初任給で買って返しますね!」

「いや、今日の終わりに返してくれ……」

 あとりは早速袖を通し、あったかーい! と屈託なく笑った。袖も裾も小柄な彼女には長く、着られてる感満載だ。袖曲げちゃえ、と長さを調節していると、副島が駅の方向へ歩いていくのが見えた。初めて事務所に来た時と同じ、白いワンピースを着ている。

「さーて今日もつけますかー」

「待て、何か様子がおかしい」

 そう制止され目を遣ると、確かに彼女の足取りがここ三日間見てきたより重く、俯き加減で後ろ姿に覇気がない。萎れた花のようとも言うべきか、背中に悲壮感を負っていた。

「元気がないですね……依頼に来た時みたい」

「今日は夫はいないのか」

「あ、本当だ」

 あとりは周囲を隈なく見渡したが、この三日間あれだけ分かりやすく尾行していた夫の姿は見当たらなかった。

「どうしますか? ご主人いませんけど」

「……ひとまず妻の様子を伺おう」

 行くぞ、とコンビニを出る京介。外は暗い雲が立ち込め、小さな雨がぽつり、とあとりの額に当たった。

「傘買っていこ」

 おあつらえ向きに入口に掛かっていたビニール傘を購入し、京介の後を追う。



 副島は駅に向かった。が、街へ向かう電車ではなく郊外へ向かう電車に乗り込んだ。各駅停車のがらんとした車内にひとり、座席に腰掛けている。魂が抜けたような表情で、流れていく車窓の一点を見つめていた。二人は隣の車両に乗り込んでその様子を伺っていたが、副島はいつまで経っても降りなかった。

「今日はすごく遠出しますね……」

 いくつもいくつも駅看板を見送り、車掌が何度も車内を行き来して、窓の外にはすっかり野山に囲まれた自然景が広がっていた。

 昼下がりになって、ようやく彼女はホームに降り立った。空は今にも雨が降りそうに暗く黒く沈んでいる。改札をくぐると、「登山口」と書かれた小さな古い看板が立っていた。副島は迷わず矢印の指す方へ向かう。平日の昼ということもあり、人気はまばらで閑散としていた。

「ここから登山ですかね」

「……」

 一定の距離を保ちつつ、白いワンピース姿を追う。森を切り開いたかのような登山道は少しぬかるんでいて、二人は度々足を取られそうになった。

 そうして追跡を続けているうちに、雲が耐えきれずとうとう小雨が降り出した。雨粒が木の葉を叩いて落ちてくる。副島は降り出した雨にも気付かないかのように、一度も振り向くことなく傾斜のついた山道を登っていく。

「もはやこの傘は杖ですね……」

 森の中で傘を差すと木々に引っ掛けて邪魔なだけでなく、副島に見つかる可能性があるため仕方なく杖として使用するあとり。あまり運動が得意ではないのか、少しずつ息が上がり始めている。

「早く来い。見失うぞ」

 先を歩いていた京介が彼女を振り向き――何かに気が付いた。彼らの十数メートル後ろの薮が、不自然に揺れる。

「……このまま副島を追ってろ。俺も後で行く」

「うぇっ? 私ひとりでですか!?」

 あとりの返事を待たず、草むらに突っ込む京介。不自然に揺れる影は、ガサガサと音を立てて遠ざかっていく。獣にしては不用心な動きであるのを不審に思った京介は、そのまま薮の奥へと駆けていった。



 ひとり取り残されたあとりはその後必死に副島を追うも、いとも簡単に見失ってしまった。履いているスニーカーや服は跳ねた泥まみれだ。

「運動不足が……憎い……ッ! それにしても、副島さん足腰強すぎ……」

 肩で息をしながら道の先を見回したが、白いワンピース姿はどこにもなかった。幸い一本道のため道に迷うことは無かったが、こうも離されては様子も伺えない。あの悲壮感漂う青白い顔を思い出し、あとりは何だか嫌な予感がしていた。

 早く追いつかないと、と踏み出したその時。

「すみません、この辺で一人で歩く女性を見ませんでしたか!?」

 あとりを呼び止める声が、後ろから聞こえた。自分達以外に人気が無かったため驚いて振り向くと、

「副島さんの……ご主人……?」

 高級スーツと品の良い革靴が泥だらけになるのも構わず、山道を登ってきたと思しき副島の夫があとりの肩を掴んだ。片手には紙袋の手提げを抱えている。急いで来たのかセットした髪は崩れ、肩で息をしていた。

「お嬢さん、どこかでお会いしましたか……?」

 隠し立て出来なくなったあとりは、掻い摘んで夫に事情を話した。副島が探偵事務所にやって来て、夫を撒くように依頼してきたこと。この三日間、依頼通りにひとりで出掛ける手伝いをしていたこと。その彼女の様子がおかしかったため、山中まで追っていたこと。

「なんて事だ……」

 聞き終えて、夫は天を仰いだ。そして雨が滴った前髪を撫で付け、言葉を絞り出した。

「彼女は、鬱病なんです……」

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