第46話:仮面の下


◆◆◆◆


 聖杯記念。それはかつて聖杯が顕現したとされる聖地フェルギュスを開催地とする、プランタジネットで行われるドラゴンライディングの中で最も栄光あるレースだ。

 レースに参加するライダーは一般投票によっても決められ、入賞者は文句なしに一流のライダーとして認められる。エミリアが目指す冒険家の先導者として推薦されるには、まさにうってつけのレースであり、避けては通れない最大の通過点でもある。そしてそこには、あの『英雄』アーサー・フィッツジェラルドがいる。『隻翼』と英雄の激突を、プランタジネット中が今や遅しと待ち設けていた。

 本来なら俺も、エミリアと共に粛々とレースに向けて準備を整えているはずだった。しかし、俺は今夜一人、深夜の廃工場のレース場にいた。数日後、俺たちは開催地へと出発する。でも、俺は待っていた。ただ、夜空を見上げて待ち続ける。

 そして、その期待は叶った。


「お待たせしたね。ジャック・グッドフェロー」


 あの時のように空から降りてくる竜、イラストリアス。その背に乗っているのは――


「やはり来たか、ファントム」


 骸骨のようにやせ細った異形の竜の背に、古風な礼服にシルクハットをかぶった白い仮面の男がまたがっていた。誰かのようでいて誰でもない、奇妙な声は不思議とよく聞こえる。まるで、俺の耳元でささやかれているかのようだ。


「レディばかり優先してはフェアではないだろう? こう見えて私は紳士なのだよ」


 ファントムは音もなく軽やかにイラストリアスから降り立ち、滑稽な仕草で一礼してから俺の方に歩み寄る。改めて俺はファントムと向かい合った。そこに確かにいるはずなのに、どこにもいないかのような不自然さが付きまとうシルエットだ。まさに亡霊(ファントム)の名の通りとしか言いようがない。


「なぜここに来た?」

「君が私を待っているような気がしてね。空から下を見たら、案の定君が夜空を見上げていた」

「目がいいんだな」


 俺が適当に言うと、珍しくファントムは少しだけ苛立ったようなしぐさを見せた。


「世間話はそれくらいにしたまえ。一晩中たわいもない話をして夜明けを迎えるつもりかね?」


 こいつが会話を遮るなんて。てっきり、下らない話を嬉々として一晩中続けそうだったのに。だが、俺は同時に心底を見抜かれた気がしてぞっとした。そうだ、俺はできればこの後の展開を避けたかった。それを感づいたのか、あっさりとファントムは俺の逃げ道をふさぐ。


「さあ、どうぞ。私は傾聴している」


 大仰にファントムは両手を広げる。俺は唾を飲んだ。エミリアから、アンヌン大渓谷の飛行試験の際に起きたことはすべて聞いている。ファントムこそがグレイゴーストだったこと。空を飛んできたすべてのライダーの魂と、彼らが乗ってきた竜の魂。目に見えないそれらが、何かしらファントムと関係があることは事実だ。もっとも、こいつが質の悪い詐欺師か何かである可能性は捨てきれない。だが――もし――こいつが、空で死んだライダーの魂とかかわりのある何かならば、俺は――


「仮面を取れ」


 俺は短くそう言った。


「私の素顔を見たいのかね?」

「見なくてはいけないからな」


 ふざけたことを一言も言わず、ファントムは素直に仮面を取った。俺は息が止まりそうだった。その顔は……。


「リチャード……」


 見間違えようもない。その顔は俺の喪った親友、リチャード・ウィルキンソンの顔だった。にこりともしないで、リチャード――ファントムは俺を見ていた。死人に見つめられるとはこういう感じなのか。背筋が寒くなる。


「お前は――死んだはずだ」


 からからに乾いた俺の喉は、やっとのことでそれだけ言うことができた。再会を喜ぶことも、恐怖することもできない。あまりにもたちの悪い冗談だ。俺のせいで死んだ親友が、よりによってファントムというふざけた道化師の姿を借りて現世に舞い戻ったのか。喜劇にしては三流のシナリオだ。


「ああ、死んだとも。確かにリチャード・ウィルキンソンという人間は死んだ。彼はもういない」


 リチャードの声だが、話し方がまったく違う。リチャードの顔と声でファントムがしゃべっている。言いようのない不快感が俺の全身に這いあがってくる。


「なら、なぜリチャードがここにいる?」

「それは、彼が私だからさ。彼は私の一部。私はリチャードでもあり、ほかの誰かでもあり、何よりもグレイゴーストである。空で死んだライダーが、魂を空に囚われるのはなぜか分かるかね? 翼のない我々が空を駆けることができる理由を考えれば、答えはおのずから分かる」


 ファントムはリチャードの顔でせせら笑うと、手を上に伸ばす。その手に顔をすり寄せたのはイラストリアスだ。本来だったら、リチャードにそうするのは彼の竜、トライアンフだったはずだ。その仕草は俺の心を苛立たせる。


「――竜か」

「ご名答。ライダーは竜に魂を食わせて空を飛ぶ。竜こそが世界の魂であり、魂を流転させるもの。私は竜であり、ライダーである。この空を飛び、竜と共に過ごしたすべてのライダーの残影だよ」


 大きく出たものだ。こいつは人であり竜なのか。いや、魂という領域ではもはや、その二つを大別する理由などないのか。


「故に私は君自身でもある。君の未練と罪悪は我が事のように感じるとも」


 ファントムの顔が嘲笑から同情を帯びたものに変わる。まただ。また、こいつは俺を憐れんでいる。リチャードの顔と声でそうされることの不快さに、俺はもう限界だった。


「リチャードの声と顔でしゃべるな。お前はあいつじゃない」

「これは失礼」


 ファントムは素直に仮面をつけた。雰囲気が変わる。また彼は、誰でもない誰かに戻った。


「リチャードは……俺を恨んでいるはずだ」


 もはや俺は、ファントムが超常の存在であることを疑うことはできなかった。空を駆けたあまたのライダーの魂の残影がこの男の姿を借りているのだとしたら、リチャードもまたそこにあることになる。


「なぜだね?」

「俺のせいであいつは死んだ。俺がへまをしなければ、あいつは今頃救命ライダーとして活躍できていたはずなんだ」


 その時俺は気づいた。腕が痛む。激しい幻肢痛が指先から這い上がってきた。右腕全体が暖炉の中にくべたかのように熱く、痛い。


「……俺はどうしたらいい。どうしたら――これを終わらせられる」


 俺は歯を食いしばって義手をさする。死んだはずのリチャードを目にしたことで、かつてないほどの痛みが襲ってきた。この痛みはとても耐えられない。絶対に慣れないし、いつも新鮮な激痛として襲ってくる。


「聖杯記念にて君を待とう。君はまたインディペンデンスと共に空を飛びたまえ。待っているよ」

「何を企んでいる?」

「ライダーは竜の目で世界を見、竜の心で世界を感じる。肉の体がないと、いろいろと広い視点から空を見ることができてね。この空でこれから何が起きるのかを、大まかに知ることができるのだよ」

「よく言うぜ。エミリアに横っ面を張られたくせに」


 俺がやせ我慢をしつつ皮肉を交えてあおると、ファントムはもっともらしくうなずいた。


「あれは痛かった」


 そう言うと、まるで演目が終わったかのように、唐突にファントムはきびすを返した。イラストリアスにまたがったファントムに、俺はなおも皮肉を投げかける。


「もう帰るのか? 都合が悪くなったな?」


 さんざん俺をあおったんだ。自分もあおられる気分を味わってみろ。けれども、俺の言葉にファントムは仮面を取った。リチャードの顔があらわになる。そして彼は言った。


「頭で考えるなよ、相棒。お前の望むままに空に来い。ライダーなら翼で語ろうぜ?」


 その物言いはファントムの大げさかつ不気味なものではなく、生前のリチャードのそれだった。一瞬だけ、本当にそこにリチャードがいるように錯覚した。


「お前――!?」


 俺を地上に置いて、イラストリアスは悠然と飛び去った。今の言葉がファントムの渾身の嫌味だったのか、本当にリチャードの思いだったのかは分からない。ただここに残っているのは、右腕の幻肢痛だけだった。


「痛いな。本当に腕が痛い」


 俺は無意味に作り物の右腕をさする。久しぶりの幻肢痛は、歯の根が合わないほどの激痛だった。そして俺は理解した。奴は俺を空で待っていることを。

 俺は願う。聖杯記念当日。その日だけは、どうかこの痛みが生じないでくれ、と。


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