第45話:長い祈り04


◆◆◆◆


 なんという皮肉だろうか。俺は今までずっと、他人が知らずに俺たちを傷つけていると苦言を呈していた。勝者である百人目の王子が、敗者である九十九人の王子の一人である俺を足蹴にしていると。しかし……当の俺が、こんなにもこの司祭を傷つけていたなんて。俺だって、百人目の王子だったんだ。


「『汝嫉妬することなかれ』と知ったかぶりをして私は教えてきました。けれども、あなたたちの復活劇を見聞きし、私は心底嫉妬しました。私と違い、もう一度空を目指せるあなたたちが、身震いするほど羨ましかった」


 身震いするほど、という言葉がマシュー司祭の深い思いを代弁していた。彼は俺が押しかけるたびに、耳をふさぎたかっただろう。二度とコートに立てない自分と違い、少しずつ希望の光に向かって手を伸ばす俺と、俺の語るエミリアの姿に身を切られるような嫉妬心を掻き立てられたに違いない。穏やかな聖職者の顔の裏に、どれほど悔しい思いをしたのか。……そして、俺は何も知ろうとせず、自分だけが不幸のような顔をしていた。


「済まなかった。俺は、そんなつもりじゃ――」


 そう言いかけて、俺は首を左右に振った。そんなことを言う資格はない。俺は十分すぎるほど、故意にマシュー司祭を傷つけていたのだ。


「いや、全部その通りだ。俺のしたことは、あんたの古傷を抉る行為でしかなかった」

「傷があるからこそ、傷ついた人の痛みが分かるのです。痛みを忘れた者の説教など、雑音にすぎません」


 俺を責めることなく、マシュー司祭はそう言った。俺たちはどこまでも悲しく、ちぐはぐで、足りないものだらけだ。なぜ自身の痛みだけが、人の痛みを理解する手段なのだろうか。


「あんたはもう充分苦しんだ。神様はこの上まだ試練とやらを科すのか?」


 やりきれなくて俺はついそう尋ねる。得意の絶頂のスポーツ選手が命よりも大事な足を失い、這いずり回ってたどり着いた信仰の道で、再び自分が手にできなかった復活の栄光を目にする。皮肉にしてもあまりにもそれは辛い。


「あなたは、ご自分の体験してきたことや、エミリアさんの病は、神がわざわざ用意した試練とお考えですか?」

「いや、俺の思う――信じる神はそんなサディストじゃない。ただ、起きるべきことが起こっただけだ」


 俺は否定する。否定しなければならなかった。起きるべきことが起こったという運命的な物言いも本当は足りない。でも、俺にはそれしか思いつかなかった。


「ならば、私の身に起きたこともそうなのでしょう。痛みは苦しいです。苦しくてたまりません。でも――きっと不幸だけではないのです」


 痛みは苦しいが、不幸だけではない。その言葉に、俺たちはすがるしかない。


「少なくとも、私は神の手を取った。その選択は不幸ではありませんでした」


 ラフプレイヤーが信仰者に転じた。その転身を世間は笑うかもしれない。宗教にかぶれ、信仰に溺れていると。でも俺は笑えない。マシュー司祭と俺は同類だ。司祭が目に見えない神の手を取ったように、俺は差し出されたエミリアの手を取った。あの胸の高鳴りは、絶対に否定したくない。だから俺は、神の手を取った司祭の選択を否定しない。


「なあ、マシューさん。聖杯記念に興味はあるか?」


 俺は話題を変える。


「ドラゴンライディングですか?」

「ああ。プランタジネット中が熱狂する強豪ライダーの集うレースだ。俺の教え子のエミリアも出場する。見に来てくれ。歓迎する。俺に言ってくれれば、関係者の席を一つ用意できる」


 せめてもの罪滅ぼし、ではないが俺はマシュー司祭を聖杯記念に誘う。国中が熱狂するレースを、二度とコートに立てない彼に見せる。それは残酷なのかもしれないが、同時に俺はわずかに期待していた。エミリアのあの自由を求める情熱が、司祭の心に火をともしてくれるのではないかと。


「日時はいつですか?」


 俺が教えると、間髪入れずに司祭は首を振った。


「せっかくの申し出、大変ありがたいのですが。その日は教会で説教の日です」

「誰も来ないだろ」

「そういう決まりですから」

「一日くらいいいだろ? 駄目か?」

「もしその一日に、あなたや私のような傷ついた人が助けを求めて来たらどうでしょうか? 私には、そんなことはあり得ないとは言えません。自分がそうでしたから」


 マシュー司祭は譲らなかった。ドラゴンライディングを軽視しているわけではないのは、彼の態度から分かる。俺の誘いを納得した上で、それでも彼は誰も来ない教会を取ったのだ。


「どうしても駄目か?」

「約束しましたから」


 誰に、とはあえて聞かなかった。司祭は神と約束したのだ。そして、俺が酒を止めたのも、エミリアとの約束だった。


「――神様との先約があるなら、仕方ないな。約束は守らなくちゃいけない」


 俺もまた、納得していた。司祭を薄情だとは思わない。頭が固いとも思わない。そういうものだ。俺だって、エミリアと約束してようやく酒を止められたんだ。約束は守りたい。


「ありがとうございます。あなたに会えて本当によかった」

「礼なら神様に言ってくれ。俺は何もしていない」


 俺は立ち上がり、教会の出口に向かった。


「ここから、お二人のことを祈っています」


 振り返ると、マシュー司祭は静かに俺を見据えていた。


「勝利をか?」

「いいえ。立派なライダーになることを」


 ――彼の祈りは叶えられた。ああ、おそらく叶えられたんだろう。彼は勝利を祈らなかったのだから。


◆◆◆◆


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