第43話:長い祈り02


◆◆◆◆


「ジャックさん、お久しぶりです」

「ああ、久しぶりだな。変わりないようでよかった」


 俺があの教会に行くと、礼拝堂には司祭が一人いるだけだった。彼はいつものように、聴衆の座るべき方の席に腰かけて俺を見る。


「相変わらず一人もいないな。暇だろ?」

「そんなことはありませんよ。待つことも立派な仕事です」


 俺の無遠慮な言葉にも、司祭は律儀に応える。実のところ、俺はこの教会には何度か顔を出して自分の現状について軽く話していた。けれども、いつも長居せずにすぐに帰っていた。あれこれ詮索されるのがうっとうしかったのもある。だが、何よりも再び空を目指した俺を見て、司祭がどう反応するのかは目に見えていたからだ。どうせ、「あなたがそうなったのは神様のおかげですよ。さあ一緒に感謝しましょう」などと水を差すに決まっているからだ。


「もうずっと、お酒に酔ったあなたを見ていませんね」


 隣に座った俺を、司祭は優しげな目で見る。


「酒はやめたんだ。一身上の都合でな」


 俺は正直に答えた。断酒はきついが、エミリアとの約束は守りたい。隠れてこっそり飲むことだってできるだろうが、きっとエミリアに見抜かれるだろう。何よりも、俺自身がそんなことをしたくなかった。


「元気そうで何よりです。仕事は忙しいですか?」

「ああ。もうじき聖杯記念だ。やることは山ほどある」


 既に司祭は俺とエミリアのことは知っている。今をときめくエミリア・スターリングの名を出しても、司祭は特に反応しなかった。人を肩書で判断しない司祭の鑑と言うべきか、少しは世間に関心を持てと言うべきか。


「少し時間が空いたんだ。今日はちょっと顔を出してみたんだが……忙しかったか?」

「いいえ。教会の扉は必要な方にいつでも開かれています」

「それは、あんたにとってもか?」


 俺は自分でも妙なことを言った。司祭は扉の向こうで迎える側で、自分が扉を叩く側ではないと知っていたのだが、なぜかそう言ってしまった。この司祭が、いつも説教壇ではなくて聴衆の席に座っているからだろうか。


「そう信じます」

「断言しないんだな」


 つくづく、不思議な司祭だ。俺に何か強制したことが一度もない。「話を聞け」「聖典を読め」「神を賛美しろ」「寄付しろ」「祈れ」「感謝しろ」そんなことを言われたことは一度もない。だからこそだろう。俺はついに、ようやく、この司祭の人となりそのものに関心が向いた。


「なあ……今更なんだが、あんた、名前はなんていうんだ?」


 俺の疑問に、司祭はわずかにやる気を見せた。


「時間はありますか?」

「お、説教か。たまにはいいぜ。いつも暇じゃ神様も退屈だろうからな」


 俺は軽口を叩きつつ身構えた。藪蛇だったかもしれない。もしかするとここから、今まで見せなかった説教者としての司祭の姿が現れるのだろうか。


「マシュー・オブライエンという名前をご存じですか?」

「知らないな」


 俺はそう言ったものの、その名を呼び水として記憶の扉が少しずつ開いていく。どこか聞いた、いや見たことのある名前だ。


「待ってくれ。今思い出す」


 俺は改めて司祭の顔を見る。丸顔で垂れた眉。温厚そうな典型的な聖職者の顔。しかし、なおも俺はじっと見つめる。もっと若いころを想像しろ。どんな顔だ。

 それは――新聞に載った顔だ。高慢で荒っぽく、自信家でふてぶてしい顔だ。


「……最強のラフプレイヤー。史上最も喝采を浴び、最も罵声を浴びたフットボール選手。『反則王』マシュー・オブライエン……あんたがそうなのか!」


 俺の脳裏に、新聞に載った彼の若い時の顔がよみがえった。マシュー・オブライエン。プランタジネットのフットボール界において、彼ほど称えられ、彼ほどなじられたプレイヤーはなかなかいないだろう。天才的なセンスと、チンピラそのものの言動。誰もが彼のプレイに目を奪われ、誰もが彼の下品極まる態度に目を覆った。


「いや、まさか。そんなはずはない。嘘だろ?」


 ある時を境に、彼の名は新聞からも世間からも消えた。でも、いくらなんでも同姓同名の別人に決まっている。あんな反則を嬉々として行うプレイヤーが、こんなところで聖典片手に神の愛を語る司祭であるはずがない。


「これを見て下さい」


 司祭は腕をまくった。右腕に描かれたのは、花嫁衣裳の骸骨のタトゥー。左腕には『オライオンユナイテッド万歳! 売春婦の息子ガルシアは地獄に落ちろ!』と書かれていた。俺はこの二つのタトゥーをこれ見よがしに見せびらかしていた写真を思い出す。


「はは……ははは、なんであんたがここにいるんだよ。よりによって宗教にかぶれたのか? 相手チームの守護聖人の墓に小便を引っかけてやったって豪語していたあんたが!」


 俺は礼儀も何もかも忘れて叫んだ。いくらなんでもめちゃくちゃだ。あんな神も悪魔も笑い飛ばす傲慢な自信家が、宗教なんかを頼りにしているなんて落ちぶれたとしか言いようがない。

 いや、確かに司祭という仕事は別に悪いものじゃない。宗教だって必要なのは分かる。でも、あの良い意味でも悪い意味でも男の中の男のようなマシュー・オブライエンが、神の御機嫌を窺うような仕事をしているのはさすがに文句を言いたくもある。


「私はもうコートに立てませんから。この通りです」


 続いてマシュー司祭は片脚を少しだけ見せた。その右脚は俺の右腕と同じ作り物だった。

 俺は息が止まった。フットボール選手の命ともいえる足が、彼から失われていたのを直視したからだ。それがどういう意味なのかよく分かる。半身をもぎ取られるよりも辛い苦痛であることが、容易に想像できてしまう。


「あなたと同じですよ、ジャックさん。あなたはどうして手を失ったのですか?」

「き、救命ライダーだったころに、ミスをして空から落ちたんだ」

「そうですか。痛かったでしょうね」


 司祭は俺を思いやる。自分自身の痛みと重ねているのだろう。


「あの頃の私は浮かれていました。自身に満ちあふれていました。得意の絶頂でした。神さえも俺には道を譲り、悪魔さえも俺には怯えて逃げ出す。そんな根拠のない妄想に酔いしれていました。人里離れた別荘で浴びるほど酒を飲んで、ふらふらと外に出て崖から落ちるまでは」


 マシュー司祭は語り始める。


「折れた足で三日這いずり、ようやく通りがかった農夫に助けられましたが、私は右足を切断しました。最強のラフプレイヤーと呼ばれた男はその日、死にました」


 死んだ。そうだ。よく分かる。分かってしまう。それがどれほどの絶望であるか。どれほどの痛みであるか。生きながら死んだその激痛は、俺自身が味わったものと似ているだろう。


「『当然の報い』『天罰』『死ねばよかったのに』。ありとあらゆる非難と中傷と罵声を浴びました。私はそれまでは実力でそれらを笑い飛ばしていましたが、脚を失い選手生命を絶たれた私にはその声を消す力はありませんでした」

「……そうだろうな」

「友人と思っていた人間も、愛人と思っていた人間も、協力してくれていたスポンサーも、離れるのは早かったですよ。当然ですけどね。稼がない私など、鼻持ちならない性根の腐った男でしたから」


 マシュー司祭は失った右脚を撫でる。この司祭に幻肢痛はあったのだろうか。


「この世のすべてに八つ当たりをした私は、最後に神にも八つ当たりをしようと、ある日目についたとある教会に押し掛けました。そこで私は年配の司祭にこう問いました。『世間じゃ、俺が右脚をぶった切ったのは神様からの罰だって言ってるぜ。迷惑な話だよなあ。おい、ありがたい関係者の話を聞かせてくれよ。司祭さんよ、俺がしたことは人生をめちゃくちゃにされるほど悪いことだったのか? なんで俺は――一番大事なものを奪われなくちゃならなかったんだよ!?』と」


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