第42話:或る生き方


◆◆◆◆


「『親愛なるエミリア・スターリング様へ。突然のお手紙で失礼します――――』」


 ある日、エミリアの元に一通の手紙が届いた。名前はアンナ・スチュワート。住所はエグバートから遠く離れた一都市の病院だった。俺は椅子に腰かけ、私室で手紙を読むエミリアの声に耳を傾ける。午後のティータイムに流れる時間は穏やかで、かすかに眠くなる。気が付くと、俺はずいぶんとこの屋敷の雰囲気になじんでいた。


「『私はある重い病気にかかっていて、ずっとベッドから起き上がることができませんでした。今も同じです。何もしなければ二十歳まで生きられないとお医者様はおっしゃり、今私は新薬による治療を受けています』」


 手紙には一枚の写真が同封されていた。そこには、痩せこけて落ちくぼんだ目をした、毛髪の一本もない少女がベッドに横たわっていた。生きながら既に、死神の手が首にかかって締め上げているのがよく分かる姿だった。


「『病気のせいで体中がいつも痛いです。同い年の女の子や男の子のできることがほとんどできません。いつも窓から外を眺めて、鳥も自由に飛べるのに、どうして自分はできないんだろうってずっと思っていました。薬を飲むとものすごい吐き気がしますし、すごく高い熱が出ます。髪の毛も全部抜けてしまいました』……」


 手紙を読むエミリアの声は震えていた。アンナという小さな女の子の身には、この世の不幸を煮詰めたかのような苦痛が押し寄せているのが分かったからだ。


「『どうやったら早く死ぬことができるんだろう。ご飯を食べなかったらすぐ分かってしまうし、窓から飛び降りたくても一人で起き上がることも難しいです。どうすれば死ねるんだろうって毎日考えていた時、エミリアさんのことが書かれた新聞を読みました。そこには、エミリアさんが竜症にかかってアイルトンカップに出られなかった時から、今までの大変な日々のことがとても詳しく書かれていました。私は夢中になって読みました』」


 新聞屋の連中もたまにはいいことをするらしい。根掘り葉掘りエミリアのことを調べまわって詳細な記事にしたことが、こんなところで役に立つこともあるようだ。


「『エミリアさん、あなたはすごいです。とても痛くて辛くて苦しかったと思います。私がそうだからです。でも、あなたは諦めないでもう一度ライダーとして復帰しました。本当にすごいと思います。いつの間にか、私は死にたいってあんまり思わなくなりました』」


 俺はいつも思う。

 ――痛みは、痛みによってしか癒せないのだろうか、と。


「『嘘です。今でも痛くてたまらない時は、死んじゃいたいと思います。でも、そんな時はエミリアさんのことを考えるようにしています。エミリアさんができたんだから、私も我慢できるはずですから。私もいつか病気が治って、ほかの子たちと一緒に遊んだり学校に行けるようになりたいです――』」


 ――俺たちの痛みは、誰かの痛みによってようやく癒えるのだろうか。

 俺の痛みを癒したのがエミリアの痛みだったように、アンナの直面しているどうしようもない痛みをわずかに癒したのは、エミリアの痛みだった。


「『ありがとうございます、エミリアさん。あなたが飛んでくれたおかげで、私は生きているんです。これからも頑張ってください。ここからあなたを応援しています。たくさんの愛をこめて。アンナ・スチュワートより――――』」


 読み終えたエミリアは、手紙を抱いて静かに涙をこぼした。不謹慎かもしれないが、アンナのことを思って涙を流すエミリアの姿は、目を奪われるほど美しかった。


「治ってほしいな」


 俺はつぶやく。


「ええ。治るかしら」

「医者ではない俺には分からない。でも、希望があるのとないのとではきっと何かが違うはずだ」


 治ってほしい。それは俺の本音だ。だが、「治るに決まっている」とはとても言えなかった。世界は理不尽にあふれている。もしかしたら、アンナは治るかもしれないし、治らないかもしれない。痛みの中死んでいくのかもしれない。俺たちにはどうしようもない現実だ。

 「希望」。それはもしかしたら、俺たちの目の前に今わの際までちらつく虚構の光なのかもしれない。それでも、アンナの希望がエミリアというライダーの形で結晶したのならば、きっとそれは果たされる約束となるはずなのだ。


「竜症は、本当に苦しかったわ。痛くて、痛くて、痛くてたまらなかった」


 エミリアは噛みしめるように言葉を紡ぐ。


「他の同級生が何食わぬ顔でレースに出ているのを新聞で見ながら、なんで私だけ――私だけが――よりによって私がこんなに苦しまなくちゃいけないんだろうって、神様はもしかして不公平なのかもしれないってベッドの中でずっと考えていたの」


 それは、気高く鮮烈なエミリアという少女の弱音であり本音だ。痛みに対する心の自然な反応だ。


「辛かったな。よく頑張った、エミリア」

「でも――私の病気がこの子にとっての一番必要としていた励ましになったのなら、竜症で苦しんだ私の存在が、この子にとっての希望になることができたのなら――あの激しい痛みも、死にたいくらいの苦しみも、きっと無意味じゃなかったのよ」


 エミリアの目が俺を見る。そのまなざしは竜に似ていた。


「神様はきっと不公平じゃない。私たちは、それを信じて祈るのよ」


 なぜこの子は――こんなにも強いんだろうか。たくさんの痛みを経験し、たくさんの余計なものを背負い、それなのになぜこんなに力強く空を目指して羽ばたけるんだろうか。大人の俺が悲鳴を上げて逃げた現実に、エミリアは打ちのめされても屈することはなかった。そしてその強さは暴力ではない。だからこそアンナに憧れを与え、俺を救い出してくれた。神様が公平かどうかは俺には分からない。でも、エミリアの言う「きっと」という言葉にわずかな信心をかけるくらいのことはできる気がした。


「君は強い子だ、エミリア。俺だったら、不公平という現実に押し潰されたままだろうな」

「きっとそういう人が必要よ。そういう人こそが、誰かの耐えられない痛みを共有してあげられるのだから」


 エミリアはそう言うと、丁寧に手紙を引き出しにしまった。代わりに紙とペンを取り出す。


「返事を書くわ、アンナに。私は、この子が大変な時に側にいてあげられなかった。でも、私のフライトがこの子の希望になることができたなら、それはとても誇らしいことなの」

「君は俺に手を差し伸べてくれたように、この子にも手を差し伸べてあげるんだな」


 彼女の平等な親切心が、俺は嬉しかった。俺だけを特別に助け出したんじゃない。エミリアは、苦しむ人をためらいなく助けようとする。その姿が俺にはまぶしかった。


「地上にいても私はライダーよ。翼で語るって、そういうことでしょ?」


 エミリアはそう言って誇らしげに笑った。

 たった一人で自由な空を心ゆくまでに目指せばいいのに、彼女は余分なものをわざわざたくさん背負い込んでいた。それなのに、ますますエミリアのフライトは冴え渡っていく。何が余計なのか、何が重荷なのか、俺には分らなくなりそうだった。だからこそ、誰の目にも分かるはっきりとした印が必要だ。


 それは――聖杯記念。


◆◆◆◆


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