第39話:魂を捧げる


◆◆◆◆


 アンヌン大渓谷に濃霧が立ち込めていた。協会の関係者たちは皆苛立ちを隠せないでいる。俺は懐中時計を再び見た。タイムは問題ない。問題は……今のエミリアの状況がまったくこちらから観測できないことくらいだ。


「アンヌン大渓谷に霧が発生することは珍しくないけど……あまりにも不自然ね」


 ヘレンが座ったままの俺に近づいて、コーヒーの入ったカップを手渡す。俺は礼を言って受け取った。


「高位の竜は天候さえ制御するらしいな。これもファントムの騎乗する竜の力かもしれない」

「イラストリアス……あんな竜は知らないわ」

「だが、アンヌン大渓谷での飛行試験はどんなライダーと竜の参加も認められている。ファントムとイラストリアスも同様だ」


 乱入早々ヘレンたちを蹴落としてエミリアとデュエットとしゃれこんでいるファントムだが、一応ルール違反ではない。他の飛行試験ではこうはいかないが。


「エミリアちゃんの勝利を信じているのかしら、ジャックさん。あなたと彼女には、きっと深い絆があるのね」


 ヘレンが大量の砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲みつつ、俺の方を見る。俺は苦いブラックのコーヒーを一口飲んでから首を左右に振る。


「そんな御大層なものじゃない。俺たちのフライトにトラブルはつきものなんでね。いい加減、俺たちは慣れたんだ」


 そうさ。俺たちのフライトはいつだってこんな感じだ。予想外のトラブルにひっかき回される。あらかじめ予測しておけば、ショックだって大したことない。


「でも、通信まで遮断されるのは――」


 ヘレンがさらに言いかけた時だった。


「見ろ!」

「来たぞ!」

「帰ってきた!」


 口々に周囲の人間が騒ぎ出した。俺たちは会話を止めて空を見上げる。見慣れたエンタープライズのシルエットが霧を切り裂いてこちらに向かってくる。その背には、ランスを片手に持ったエミリアが乗っていた。


「エミリア……やったか!」


 表面上は今まで平静を取り繕っていたけれども、それも限界だった。俺は拳を握り締めて叫ぶ。エミリアが、俺の教え子が見事にあの仮面のライダーを下したというはっきりとした証拠が、目に見える形で帰ってきたんだ。酒に酔ってもいないのに、陶酔感が押し寄せてくる。安酒が与える不自然な高揚じゃない。確かにそれは至福と言える感情だった。俺とヘレンは立ち上がると、満面の笑顔でハイタッチをした。まったく、まるで学生に戻ったみたいだ。

 周りの歓声を浴びながら、エミリアは優雅にエンタープライズを着陸させた。サドルから降りてランスを立てかけ、帽子を脱ぐ。目の覚めるような金髪があらわになった。


「おめでとう、エミリア・スターリング。見事アンヌン大渓谷の飛行試験を最後まで飛びきった。タイムも問題ない。君は合格だ」


 主催者が司祭を従えて厳かにそう言うと、エミリアは作法にのっとった仕草で一礼した。


「ありがとうございます。皆さんも、私のために時間を取って下さり感謝いたします」

「竜症から立ち上がり、再び空を目指す君の姿は、きっと多くの人にとって励みとなる。がんばりたまえ」

「はい。スターリング家の子女にふさわしい、模範的なライダーを目指しこれからも努力します」


 それは、誰の目から見ても申し分のない、エミリア・スターリングという少女がライダーとして空に復帰したことの紛れもない証拠だった。

 それに立ち会えた俺は、幸せをかみしめていた。頬を涙が伝うのを感じる。まったく、最近俺は涙もろくなって困るな。


◆◆◆◆


「……ジャック、私、合格したのね」

「ああ。君は見事乗り越えたんだ。俺と違って、君は試練を耐え抜いたんだよ」


 先ほどまでヘレンと話していたエミリアが、俺の隣に立つ。彼女がそばに寄り添うだけで、その身に宿した竜炎の熱が伝わってくる。エンタープライズの翼が発する重低音が、まだ耳に残っている。彼女そのものが竜のようだ。誇り高く美しく、何物にも染まらない自由な一頭の竜。彼女の炎はすべてを焦がすほどに熱く、それでいて破壊的ではない。むしろ優しく、傷つき冷えた心に寄り添って温めてくれる。


「不思議な気分。あんなにこの瞬間を待ち焦がれていたのに、いざこうやってここにいると、まるで夢みたい。実感がわかないわ」

「俺だってそうだ。君を胴上げしたいくらい嬉しいのに、気が抜けてしまった」

「ふふ、してもいいのよ」


 小さくエミリアは笑う。きっと、俺が彼女を抱き上げて喜びをあらわにしても、エミリアは怒らないでくれるだろう。けれども、今はなんとなくそうする気にはなれなかった。俺たちの喜びは、激しく内側で燃えているが、それをあらわにすることはない。今俺たちがいるこの場所には、二人だけの力でたどり着いたわけではないことに、気づいているからだろう。


「……私は、ファントムに飛び方を教わったわ」


 霧が晴れていくアンヌン大渓谷を、エミリアは俺と並んで見つめる。


「そうか、そうだろうな」

「分かるの?」

「何かを悟った顔をしているからな」

「今までずっと私は、自分の意志だけで飛んでいたの。自分の心で、自分の思いで、自分の願いで。でも、今日は違った。ファントムのアームに四方八方から攻撃されて、私はエンタープライズの手綱を取る余裕もなかった。だから私は――エンタープライズに飛ぶことを託したの」


 そっと彼女の手がベルトに伸び、竜骨の入ったフラスコが収められたケースを取る。エミリアの細い指が、ケースの表面を愛おしげになぞる。


「ずっと前にそうするべきだったのに、今日初めて私はライダーとして本当に飛んだのよ。竜に自分のすべてを捧げて、エンタープライズを信じて私は飛んだの。だから、ファントムに勝つことができたのよ」


 俺は胸が痛んだ。ファントム、お前のようにふざけた奴が、彼女にライダーとして一番大事なことを教えてやれるなんてな。そして、彼女のそばにずっといた俺が、それを教えてやれなかったなんてな。


「すまないな。俺がもっとうまく教えてやれたなら、君はこんなに遠回りしなくて済んだはずだ。許してくれ」


 俺は素直に謝る。エミリアは空から目を離して俺を見た。その目に、俺を非難するような感情は一切なかった。


「ううん。今この時じゃなければ、私は学べなかったわ。そんな気がする」


 今ここにオールドレディがいたならば、我が意を得たりとほくそ笑んだことだろう。彼女の言う「大きな流動」は今この瞬間に俺とエミリアとファントムをめぐり合わせた。偶然にして必然のそれは、彼女のフライトに最後の一押しを加えたらしい。

 だがそれは同時に、彼女がここまで血を吐くような思いで空に挑み続けたからだ。俺はそれをずっとこの目で見てきた。確かに彼女は何度も列車に乗り遅れた。目の前の列車をあきらめ、乗りたい願いは叶わなかった。それでも挑戦し続けた今、エミリア・スターリングは列車に乗り込んだ。

 まあ、でもあえて言うならば。

 世の中、諦めないことと夢を叶えることがすべてじゃない。俺はその両方に背を向けた。エミリアに最初に言ったように、俺は試練に耐えきれなかった。はっきり言って逃げた。俺は弱かったからだ。でも――それだって俺の人生だ。こうやって弱いから試練に耐えられず、敗北して逃走したような俺でも、エミリアの喜びの一端にあずかることができるんだ。諦めたから、夢が叶わなかったから人生が終わるわけじゃない。もしかしたら、こういう望外の幸運だってあるかもしれないじゃないか。


「ところでファントムは?」


 俺はエミリアに尋ねる。そう言えばあの無駄に自己主張の強い道化師の姿が見えない。


「私がイラストリアスのサドルから思いっきり叩き落してやったわ。いい気味よ。散々私をあおったんだから。まったく、本当に嫌味なライダーだったわ」


 憤懣やるかたないと言った顔で、エミリアは腰に手を当てる。やれやれ。あのバカなライダーは軽い気持ちでエミリアをからかったんだろうが、手痛いしっぺ返しを受けたようだ。


「ははは。君を怒らせたんだ。当然の報いだな」


 俺も笑いながら、内心でいい気味だと思う。知ったかぶって仮面の内側であざ笑ってばかりだから、エミリアに吹っ飛ばされるんだ。彼女は、ああいう権謀術数を匂わす慇懃無礼なライダーは一番虫が好かないだろう。ご愁傷さまとしか言いようがない。


「さあ――これから変わっていくぞ。君の快進撃の始まりだ」


 霧が晴れて、空から陽光が差し込むのが見える。それはまるで、エミリアを導く天からの経路のようだった。あの先に、きっと彼女の目指す「本物の空」がある。あると信じたい。


「ええ。私の手を取って、ジャック。あなたの導く先が、自由な空だと信じているから」


 ちゅうちょなく、エミリアは先導を俺に任せてくれる。その信頼に胸が熱くなる。本当に、彼女はどこまでもまっすぐだ。どうして俺なんかを? と俺はもう問わない。竜が空を飛ぶのが自然なように、この全幅の信頼こそがエミリアの本質なのだ。決して盲目的な信頼ではない。俺を信じてゆだねてくれるその一途さに、俺は心からこたえたいと願う。

 ……もっとも、その方法は。


「そりゃよかった。次のレースでまた俺は、君にとっぴなことをさせるつもりだからな。……嫌か?」

「まさか。自由に憧れるライダーが、自由すぎるあなたの提案に怖気づくようじゃ、格好がつかないでしょ?」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 さあ、次のレースが待ってる。

 観客を驚かせようじゃないか、お嬢さん。


◆◆◆◆


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