第21話:あの日の罪


◆◆◆◆


 アイルトンカップの数日後。俺は再びオールドレディの屋敷を訪れていた。エミリアの両親は今仕事で極東にいる。実質、彼女は祖母と二人暮らしのようなものだ。電報は既に届いているだろう。仕事の都合がつけば、もしかしたら両親のどちらかが帰ってくるかもしれないが、それまではエミリアは心細いだろう。だからといって、俺が何かできるなんて到底思えないのだが。けれども、少なくともアーサーの言葉は伝えておきたかった。

 侍女を下がらせ、俺はエミリアの部屋の前で立ち尽くしていた。何度も深呼吸する。情けないが、怖くてたまらない。どんな顔をしてエミリアに会えばいいのか。まともに話ができるかどうかも分からない。エミリアは俺にどうふるまうのか。ドア越しに拒絶するのか、無視するのか、それとも部屋の中のものを投げつけてくるのか。どれをされても当然だが、せめてアーサーの言葉くらいは伝えておきたかった。エミリアのために祈ると真顔で言ったあの少年の言葉。それがエミリアの助けになるのかどうかは分からない。けれども、俺には伝える義務があるに違いない。


「勇気を出せよ、ジャック・グッドフェロー。フライトの時間だぜ」


 俺は自分にそう言い聞かせ、義手でノックをした。


「……エミリア。俺だ。いるか?」


 何気なくそう言ってから気づいた。「いるか?」だと? おいおい、我ながら何を言っているんだ。いて当たり前だろう? 何しろエミリアは病人だ。どう考えても「いるか?」なんて聞かなくても、ドアの向こうにいるに決まっているのに。


「入って、ジャック」


 部屋の中からエミリアの声がした。俺はノブをまわして、彼女の私室へと足を踏み入れる。非常にきまりが悪かった。

 前回と同じように、枕を背にしてベッドで軽く上半身を起こしたエミリアが、俺を見ていた。顔色は変わらず悪いが、その目に怒りや拒絶の色はない。それにわずかにほっとした。どうやら頭ごなしに追い出されることはなさそうだったからだ。


「不思議ね、ジャック」


 エミリアが口を開く。声に力はないが、聞き取れる声量だ。


「何がだ?」

「あなたが変なことを言ったせいで、肩の力が抜けちゃったわ。これって、あなたの作戦?」

「まさか。どう見てもへまだろ」


 俺は肩をすくめた。結果的に、俺のバカな物言いが幸いしたようだ。エミリアの方も、俺とどう接していいのか悩んでいたのだろうか。だとしたら、俺のミスが橋渡しになったことになる。物事ってのは、何が良いことで何が悪いことか分からないものだな。


「禍を転じて福と為す……東洋のことわざ通り、ということかしら」


 そう言って、はっとなるエミリア。俺たちはお互いの顔を見合わせた。


「今の言葉、私たちにぴったり……」

「そうみたいだな」


 まるで天から降ってくるように、思いがけない言葉が俺たちの間に転がり込んできた。禍は福に変わることだってある。俺の白けた物言いが道化となって、場の雰囲気が和んだように。だったら、エミリアの竜症というとてつもない禍は、もしかしたら福に変わる可能性だってあるということだ。


「ねえ、もしかして私たち……」


 エミリアは身を乗り出し、すぐに咳き込んだ。またあの、耳をふさぎたくなるような嫌な咳が部屋の中に響く。


「ああもう、エミリア。何を浮かれているんだ。君は今重病なんだぞ。調子に乗るな」


 俺は背中をさすってやりたかったが、我慢した。さすがにそれは親しすぎてよくない。身内でもないのに体に触れるのはマナー違反だ。


「分かってるわよ。でも、希望くらいは持ってもいいでしょ」


 口を押えながらエミリアが顔を上げた。


「いや……そうだな」


 俺はうなずくしかなかった。希望。どれだけ途切れそうな細い糸であっても、俺たちは今、それを切望している。あまたの絶望が飛び出した後の箱に希望が残っているのだったら、俺はそれをなんとしてでも見つけ出し、エミリアに渡したかった。


◆◆◆◆


「そう……アーサーがそんなことを言ってくれたのね」


 やがて咳が落ち着いたエミリアはベッドに横たわり、俺はその枕元に椅子を持ってきて座った。そして話したのは、アイルトンカップ後にあったアーサーとの一件だ。彼が大真面目にエミリアと俺のために毎日祈ると言ったことを告げると、エミリアは複雑そうな表情で天井を見上げた。手放しで喜んではいないが、かといって俺のように祈りの価値を疑ってはいない。


「初めて見た時は、鼻持ちならないナルシストに見えたんだが、どうやら俺の見立てが間違っていたみたいだな」


 ただ、少なくともアーサーに対する俺の評価は少し変わった。敗北を知らぬ無痛の少年に見えた彼は、思いのほか真摯だった。こんな無作法でいい加減な俺と会話して、最後まで怒りも失望もしなかったんだ。それだけで大したものだ。


「私はアーサーが好きになれないわ」


 しかし、エミリアはそう言う。


「彼、今のエグバートが大好きって公言してたの。こんな……汚れきって、息苦しくて、どこを見てもばい煙に包まれたこの都市が」


 エミリアは口を押えて咳き込む。


「苦しいの。喉が焼けそう。息をするのがつらい。それに……痛い。痛い……痛い」

「どこがだ?」


 俺は右腕に手をやる。あの幻肢痛を思い出す。なくしたはずの右腕が火にくべられたようなあの熱さと痛み。今のエミリアが味わっているのは、それに近い苦痛なのだろうか。


「……骨みたい」


 エミリアのささやきに俺は心底ぞっとした。もしかすると、骨組織まで竜症が食い込んでいるのだろうか。エミリアの神経を焼き、骨を削り、肉を削いでいく竜因が俺は心底憎かった。


「すまない。俺は帰る。ゆっくり休んでくれ」


 アーサーのことはちゃんと伝えた。もう俺は用済みに違いない。俺が立ちあがって椅子を元の位置に戻そうとすると、エミリアが叫んだ。


「待って!」


 俺とエミリアの目が合う。見知らぬ街に取り残された迷子のような目が、俺を見ていた。


「そばにいて」


 小さく、その唇が動いた。


「エミリア……」

「何か話して。なんでもいいから。そうしないと、すごく怖いから」


 それは、初めて見るエミリアの弱気な姿だった。竜症で倒れた時も、彼女はやり場のない怒りと嘆きで荒れ狂っていた。まるで、エンタープライズを駆り、ギャロッピングレディと呼ばれていた時のように。しかし今、彼女は触れただけで折れてしまう枯れ枝のようだった。 


「これからどうなるんだろう、って一人でずっと考えてると、どんどん怖くなる。もう二度と飛べなくなったらどうしようって、そんなことばかり頭に浮かぶの。そうなったら私、生きていても……」


 俺はがくがく震える脚を無理やり動かして、エミリアの枕元に近づいた。


「エミリア、お願いだ。そんなことは言わないでくれ」


 みっともなく、俺は病床のエミリアにすがる。


「なんでもする。本当になんでもする。俺にできることならなんだってするから、お願いだ……頼む」


 身近な人の死は、俺にとって自分が死ぬよりも恐ろしい。俺の命なんて路傍の石ほどの価値しかないが、それでも無駄に息をしている。そんな奴がのうのうと生きているのに、ずっと価値のあるエミリアが命を失うようなことがあったら、それはもう、理不尽以上の拷問だ。


「ジャック、怖いの?」


 素直に俺はうなずいた。


「怖くてたまらない」


 あの時。エミリアに俺が飛ばないと言った時に同じようなことを言われた。その時俺はかっとなったが、今は子供のように正直に認めるしかなかった。


「一つ、約束して」


 大人とはとても思えない情けない姿を見ても、エミリアは俺をあざ笑うことはなかった。


「一つと言わず、いくつでも約束する」


 話題を変えるべく、俺は勢い込んで何度もうなずく。


「お酒はやめて。少なくとも、昼間から飲んだり、前後不覚になるまで飲むのはやめてほしいの」


 一瞬だけ俺はひるんだ。今となっては俺と酒は切っても切り離せないずぶずぶの関係になっていたからだ。けれども、エミリアにそう言われたら、従わないわけにはいかない。


「分かった。金輪際酒は飲まない。やめる」


 こんな俺に言い訳する権利なんてないし、約束すると言った以上守らなければならない。もしここで俺が言い訳してごねたりしたら、どれだけエミリアを傷つけるだろうか。それを考えたら、俺は即答するよりほかに道はなかった。


「よかった……」


 エミリアはほほ笑むと、あおむけになって枕に頭をうずめた。


「酒臭いコーチがそばにいるのはうんざりだったか?」

「ううん。あなたが体を駄目にしちゃうんじゃないかって、心配だったから」


 自分の体裁よりも、俺の体調を気遣ってくれたエミリアに、俺は言葉が出なかった。


「すまない、エミリア。ほかに何か、俺ができることはあるか?」


 しばらく恥ずかしさから黙り込んでから、それでも俺は言葉を続ける。


「……お話して」


 ……いや、それは無理だぞ。確かに何か聞いていれば気がまぎれるかもしれないが、俺に何をさせる気だ、エミリア。絵本でも読むのか。それとも……


「子守歌なんて知らないぞ」

「あなたが歌って私が安眠できると思う?」

「はは、無理だな」


 そう言いつつも、俺は椅子に再び腰かけた。俺とエミリアの目が合う。人にまじまじと見つめられると大抵落ち着かなくなるが、不思議とエミリアの視線は俺を居心地悪くさせない。冷えきった寒い屋外を歩いていた時に、温かい焚火のそばに座れたような安心感さえ覚えてしまう。


「どうしてジャックは飛ばなくなったの? 教えて」


 彼女はささやいた。


「それは……」

「なんでもするってジャックは言ったわ」


 今さら言質を取るエミリア。彼女の顔を見ると笑わずにまじめな顔で俺を見ていた。何が目的だろうか。ただの暇つぶしだろうか。それとも、俺の弱みを握るつもりなのか。


「俺の情けない過去を知って、気晴らししたいのか?」


 もっとも、俺の弱みなんてもう山ほどエミリアに見せているのだが。


「ううん。違うわ」


 彼女は首を左右に振った。


「いつもあなたは空を見るたびに、悲しそうな顔をしている。耐えきれない痛みに押し潰されそうな顔をしている。死んでしまいそうなくらい」


 俺は何も言えなかった。


「聞かせて、ジャック。あなたの痛みを」


 俺の痛みを君は知りたいのか。知ってどうするんだ。もう何もかも、取り返しがつかない遠い過去の出来事なのに。

 それなのに、俺は椅子に深く腰掛けた。長話をする体勢に入ったことに、俺は内心苦笑した。こんな愚にもつかない昔話が、エミリアの気を紛らわすものにならないとわかっているのに、話そうとしている。


「俺に断る権利はないからな」


 何を期待しているんだ? ジャック・グッドフェロー。

 慰めか? 救いか? 許しか?

 つくづく度し難いな、俺は。


◆◆◆◆


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