第4話:ギャロッピングレディ02


◆◆◆◆


 その日の夜。俺は自分のアパートに帰り、毎日のルーチンを繰り返していた。つまり、意識が途切れるまで酒を飲み続けるという日課だ。


「本当の空……だと?」


 酒瓶の中身をすべてグラスに注ぎ、味わいもせずに飲み干す。喉が焼けるような感覚に思わず咳き込んだ。アルコールが血管の中をめちゃくちゃに駆けめぐり、吐き気と一緒に頭痛が押し寄せてくる。安物の酒はこれだから嫌だ。酔うと言うより頭がおかしくなるだけだ。でも、そうしないと今の俺はろくに眠ることもできない。


「くそ、今さらなんであんな奴がしゃしゃり出てくるんだよ」


 わずかな明かりに照らされた薄暗い室内。散らかり放題に散らかった、部屋なんだかゴミ箱なんだか分からなくなりそうな場所。人間の住む所より、むしろゴキブリの巣と言った方が余程合っている部屋だ。足元に転がる酒瓶を爪先で蹴りながら、俺はテーブルに突っ伏した。

 結局、俺はエミリアのコーチになることにOKはしなかった。エリザベスはそれも分かっていたようで、「よい返事を期待していますよ」と言っただけだった。エミリアは少し不満そうだったが、俺を急かすことはなかったのは助かる。

 ほんとうに、今さらだ。今の俺の前に、なぜあんな奴が現れたんだ? 今の俺には何もない。空を飛んでいたのは昔の話だ。もう二度と、俺はあの大空を飛びたいなんて思わない。なぜなら、あの大空で俺は――


 ――記憶の奥底から、懐かしい声が聞こえる。


「――なあ、ジャック」


 口下手で、陰気で、人間よりも竜が好きだった俺とは正反対の、おしゃべりで、陽気で、女の子にやたらともてたあの色男の声が、まるで耳元で聞こえているかのように記憶からよみがえる。


「――本当の空を知ってるのは、俺たちライダーだけなんだよ。すごいと思わないか? 国王陛下だって知らないんだぜ? ほら笑えよ」


 その声が記憶の中で聞こえるのと同時に、俺の右腕に激しい痛みが襲ってきた。


「……ぐっ!」


 もぎ取られた肩口が痛むんじゃない。なくしたはずの右腕が焼けるように痛い。これが俺の幻肢痛だ。人によって症状は違うらしいが、俺はあるはずのない右腕の全てが痛む。義手を左手で鷲掴みにしてさするが、痛みは治まらない。グラスがひっくり返り、テーブルがわずかに濡れる。見る見るうちに額から脂汗が流れ出していくのを感じる。安酒のアルコールと相まって、最悪の気分だ。


「……本当の空がなんだ。そんなの、何の意味もないだろうが」


 右腕を火に突っ込んだような痛みに呻きながら、俺は呟いた。この痛みは理不尽だが、同時に当然でもある。俺は右腕がこうなったが、あいつは全身がこうなったんだからな。竜と共に落ち、竜炎に焼かれたあいつの遺体は、遺族にとても見せられるものじゃなかったはずだ。俺たちは棺桶の蓋を閉めて葬儀を行った。だったら、俺がこういう目に遭うのも当然だろう。延々と、俺はあの日の失敗のツケを払い続けている。あいつはツケを払うことさえできなくなった。それに比べれば、ずっとましだ。

 俺のこのドブの底のような現状に対し、「本当の空」という言葉のなんて現実感に乏しいことか。理想で空が飛べるわけがない。どこまで行っても竜に乗るライダーに待っているのは、ばい煙で薄汚れた空だけのはずだ。それなのに、あいつもエミリアも、同じ言葉を口にした。「本当の空」という言葉を。


「……リチャード。お前は本当の空を見て、幸せだったのか?」


 ようやく消えていく右腕の痛みを味わいつつ、俺は言葉を続ける。リチャード・ウィルキンソン。俺の無二の親友で、かつてのライダー仲間。ライダーたちの間では、竜に乗っているときに死んだライダーは、魂を空に囚われると噂されている。だったら、今でもあいつはあの空のどこかをさ迷っているんだろうか。

 俺の視線の先には、スタンドに入れた一枚の写真があった。新米ライダーだった頃の俺とリチャードが映っている。戸惑う俺と、満面の笑顔のリチャード。人好きのしない俺と、誰からも好かれたリチャード。俺が生きていて、あいつが死んだ。この世界ってのはあまりにも不条理だ。俺は机に突っ伏して息をついた。ようやく、眠くなってきた。最後に俺は、誰かに問いかける。


「……それとも、これは俺にお似合いの罰なのか?」


◆◆◆◆


 私は、空の青さを忘れてしまった。


 私――エミリア・スターリングの見上げる空はいつだって、どこだって、汚れてくもった空だけだった。いつからだろう? 二十四時間どこにいても息苦しさが付きまとうようになったのは。お医者様は、私が「過敏症」だと告げた。他の人はわずかな不快感しか感じないばい煙に、私はひどく過敏に反応しているらしい。どうしてだろう。なんで、私だけがこんな病気を抱えているんだろう。苛立たしさと、やるせなさと、苦しさだけが体の中で茨のようにいつも巣くっている。

 でも私には、たった一つだけ救いがあった。ドラゴンライディングという由緒正しいスポーツ。そして、そのスポーツを通じて選ばれる、どこまでも空を駆けて冒険家を導く先導者としての将来。それだけが、ばい煙で煙る私の人生に差し込んだ一筋の光だった。

 竜。私たちライダーが、魂を食わせて竜骨から呼び出す神秘の生物。この星の記憶が形になった存在。本来は気体であるそれは、竜炎を巻き起こして空を飛ぶ。初めて私が自分の竜を呼び出し、空へと舞い上がったあの感動は、今も覚えている。

 視界が開けていく開放感。竜の加護に包まれて、その瞬間だけは息苦しさを忘れられる幸福感。そして、スピードの中に感じる、竜との一体感。私にとってドラゴンライディングは、生命線と言ってもいいものだった。


 私はスターリング家の娘だ。おばあ様はあの『オールドレディ』エリザベス・スターリング。スターリング家は何人も有名なライダーを輩出してきた。私も――そうなるはずだった。

 でも、私についたあだ名は『ギャロッピングレディ』『じゃじゃ馬』『暴走機関車』『最下位常習者』というろくでもないものばかり。そう、私の竜の操縦はめちゃくちゃで、勢いだけが先走ってしまうものだった。およそ、スターリング家の娘にはふさわしくない、乱暴ででたらめな乗り方。いろいろなコーチが私についたけれども、みんな早々にため息をついて「おたくのお嬢さんの乗り方は乱暴すぎます。まずは礼儀作法を学ばれてはどうでしょうか」という捨て台詞と共に辞めていった。

 みんながさじを投げる中、おばあ様だけは何か考えがあったのか、新しいコーチを私の元に連れてきてくれた。ジャック・グッドフェロー。かつてリチャード・ウィルキンソンとコンビを組んで空を駆けまわった輝かしい経歴の持ち主が、変わり果てたみすぼらしい姿で私の元にあらわれた。

 事故でリチャードが亡くなってライダーを引退したって聞いていたけど、私の前に立っていたのは、片腕を失って世の中の何もかもに興味がない目をした男の人だった。でも、ジャックは私のフライトを見て一言、こう言った。


「――探し物は見つかったか、お嬢さん?」


 普通のあいさつでもない。竜に乗る私のフォームをどうこう言う指摘でもない。私でも気づいていなかった、何かをぴたりと言い当てたその言葉。


 ――そうだ、私は竜に乗って、何かを求めているんだ。


 それが何かは分からない。でも、それを言い当てたジャックは絶対に手放したくなかった。明らかにやる気がなくて、今すぐ帰りたいという雰囲気のジャックに、私は縋りつくようにしてコーチになってくれるように頼んだ。


「私は――本物の空が見たいの!」


 口にしてから気づいた。私はいったい何を言っているんだろう? そんな漠然としすぎたことを言っても、ジャックは当惑するだけなのに。案の定、彼は変人を見る目で私を見ていた。

 でも私は、冒険家になりたい。竜に乗って空を飛び続けたい。そこしかきっと、私には居場所がないのだから。でもそのためには、冒険家の先導者として推薦されなければならない。ドラゴンライディングで勝ち、優秀な成績を残さなくてはいけない。

 今度ジャックにもう一度会えたのならば、せめて順序立てて私の願いを説明しよう。あるいは、手紙を書いて送ろう。そう思っていた矢先に、彼から私のコーチになることを了承する連絡があった。


「俺がコーチになるのは、単に金に困っているだけだ。スターリング家なら金払いはいいからな」


 おばあ様の屋敷で再会したジャックは、私に対して開口一番そう言った。私がじっと顔を見ると、彼は目をそらした。


「嘘」

「そういうことにしておいてくれ。お嬢さん」


 うっとうしそうに手を振るジャックに、私は腰に手を当ててはっきりと言った。


「エミリアよ。ちゃんと名前で呼ぶべきじゃないかしら?」


 目をそらさずにまっすぐに彼を見つめる。さらに何か言ってくるかと思いきや、ジャックはあっさりと折れた。


「分かった。分かったからエミリア、そんな目で俺を見るな」


 彼はまるで、親に叱られて縮こまる小さな子供みたいだった。


◆◆◆◆


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