鯨幕に苺色

ふじこ

鯨幕に苺色

「おじさん?」

 萼に問い返したわたしの声は、ひっくり返る寸前でみっともなかった。あわてて口を押さえる。目だけ動かして左右を確認する。誰にも見られていない、聞かれていない。いっしょにビニルハウスの裏に逃げ込んだ萼以外には見つかっていない。

「お父さんはひとりっ子でしょ」

「だから、母さんのきょうだいなんだって」

 わたしたちにおじさんが居るなんてはじめて聞いた。会ったこともなければ聞いたこともない。写真を見たこともない。萼はどこでおじさんのことを聞きつけたのか、不思議に思ってじっと萼の顔を見つめていると「父さんと母さんが話してたんだよ。葬式の喪主はどっちがやるかって」とつまらなさそうに言った。

「どっちかって、お父さんかお母さんか?」

「母さんか、母さんのきょうだいか。名前はミツ」

「ミツ」

「父さんも母さんも名前で呼んでた。だから弟なんかも」

 なんで萼がそんなに面白くなさそうなのか分からない。病院であんなに泣いていたから、涙と一緒にこころも涸れてしまったんだろうか。萼はおじいちゃんが好きだった。おじいちゃんは、わたしたちがうんと小さい頃に腰を悪くして、苺農家の仕事をするのが難しくなってしまったから、お母さんやお父さんに代わってわたしたちの面倒を見てくれていた。それでもわたしはなにかとお母さんにつきまとっていたけれど、萼はいつもおじいちゃんと一緒に居た。わたしがお母さんと一緒に、ビニルハウスで熟れすぎた苺を摘んでいる間、おじいちゃんのロッキングチェアのそばに座って本を読んでいた。あのロッキングチェアはどうするんだろう。籐の背もたれが涼しげな、飴色に艶めいているロッキングチェア。ロッキングチェアが揺れるみたいに、萼の体もゆらゆら揺れている。つまらなくって、面白くなくって、退屈なんだろうと思った。

「そろそろ戻る?」

「いーよ。きっとまた追い出される」

「じゃあさ、おじいちゃんの椅子のとこに行こう。あそこなら縁側だもん、邪魔になんないよ」

「いい」

 平手でほっぺたをひっぱたかれたような気がした。萼の声はとっても冷たくて、できうる限りの強さで拒絶を表しているみたいだった。家の中は、病院からおじいちゃんの遺体が帰ってきて、ずっとばたばたしている。わたしたちに居場所はなくて、萼がおじいちゃんのそばにいたそうだったから仏間にいたらそこも追い出されて、わたしたちはビニルハウスの裏に一緒に逃げ込んだのに、萼はすぐ隣にいるのに、手を握るのがとても難しいぐらい遠くにいるみたいだった。萼は、膝を抱えて背中を丸めて、太腿に顔を伏せている。体操服のハーフパンツの裾がひどく上までずりあがって、パンツが見えてしまいそうだった。萼とわたしはお葬式でどの服を着るんだろう。

 萼は背が高い。肌の色は青白くって、ひょろっと背が高いのだ。小学生の頃、背の順で並ぶとき、萼はいつも一番後ろだった。わたしから萼の様子は見えないのに萼からはわたしが見えて、じっとしてろよなんて茶化されるのがとても嫌だった。わたしは小学五年生でもう背が伸びなくなってしまったのに、萼はまだ背が伸びている。それで、中学校の途中で制服を一回買い換えた。お母さんもお父さんも身長は平均ぐらいだから、まったく誰に似たのかしらとお母さんがうれしそうに文句を言っても、真相は分からなかった。おじいちゃんも身長は平均ぐらいだったのだ。

 ぐうとおなかが鳴った。おへその辺りを押さえて萼を見ると、気まずそうに笑っていた。萼の笑い方を見て、はじめて、恥ずかしさがこみ上げてくる。「じゃあわたしは戻るね」と萼の顔を見ずに立ち上がって、家まで走ることにした。

 集落で苺農家はうちだけだ。家のそばにいくつもビニルハウスが並んで。もうすぐ夏苺の季節だ。大がかりなエアコンでハウスの室温を調整しながら栽培をするのだ。うちでは一年中苺を食べられるから、苺を買ったことがない。売り物じゃなくって、熟さなかった青い実や、熟れすぎてしまった実を摘んで食べることがほとんどだけれど。

 玄関の引き戸は開け放しだった。昨日からたくさんの人が出入りしているから、三和土に置いてある靴のどれが誰のかなんて全然分からない。でも、ひとつだけ、なんだか妙に目に留まる靴がある。黒色の革靴。革がぴんと張り詰めて皺一つ無い、良く磨かれてつやつやしている革靴。土の汚れなんてひとつもついていない。あんな靴を履く人はこのへんに居ただろうか。スニーカーを脱ぎ捨てるつもりだったのになんだかすごく悪いことをするような気がした。一度しゃがんで、スニーカーを揃えて置いてから、食堂に走っていく。お味噌汁のにおいがしている。

「お母さん、おひるごはん」ちょうだい、と続けるつもりだったけど、びっくりして息を飲み込んだ。萼によく似た男の人が、食堂の椅子に座って、お茶を飲んでいた。その人の隣にはお父さんが座っていて、おにぎりを食べながら男の人の肩をばしばし叩いている。知らない男の人。萼が大きくなったらこんなになるのかなって思うような、男の人。食堂に踏み入れかけていた足を引っ込めると「房」とお父さんがわたしを呼ぶ。ビニルハウスの裏にもう少し隠れていようと思ったのに、もうできない。あきらめて食堂に入って、お父さんの向かいの椅子を引いて座る。机の上の大皿にはおにぎりがたくさん盛られている。コンロの大きな鍋がお味噌汁だろう。お父さんの前のお椀には、具だくさんのお味噌汁がよそわれている。

「どこに行ってたの?」

「ひみつ。ねえ、おひるごはん、おにぎりとお味噌汁なの?」

「そうだよ。味噌汁じゃなくて豚汁だけど」

「お母さんは?」

「お寺さんまでご挨拶」

 お父さんと話しながら、どうしても、お父さんの隣に座っている男の人が気になってしまう。湯呑みを机の上に置いて、ほうとため息をついて、わたしやお父さんの方を見るでもなく、ぼんやりと机の上を眺めている。「房も食べなさい。お椀は出てるから」とお父さんに言われて、うなずいて、一回椅子から立ってコンロまで豚汁をよそいに行く間も、男の人の動きがどうにも気になった。ご飯を食べようとはしていないで、ただ座ってぼーっとしているように見える。豚汁をよそったお椀と、おにぎりを載せる小皿を持って席に戻る。椅子に座って、おにぎりを一つ小皿に載せて、もう一つをどうしようか迷って視線をうろうろさせていたら、お父さんとばっちり目が合った。なんだか目をそらせなくって、口元がむずむずする。お父さんは苦笑いして、隣に座っている男の人の腕を肘で小突いた。

「こいつがだれか気になってるんだろ、房」

「ええと……お母さんの、弟さん?」

「違うよ。兄貴、一つ年上の。な、蜜」

「お前にそう呼ばれるのには慣れない」

 きれいな声だった。大きな声で叫ぶことを知らないようにきれいな声だった。お母さんのお兄ちゃん、わたしたちのおじさんだという人は、ちょっと目を細めてお父さんをにらんで、わたしを見てわずかに笑った。

「久しぶり。と言っても、覚えてないだろうけど」

「萼も房も赤ん坊の頃だもんな、蜜が最後に会ったの。病院に出産祝い渡しにきただけだった」

「会う理由なんてそれぐらいしかなかっただろ」

「理由がないと会ってくれないの。家族なのに」

 お父さんは眉毛をハの字にしながらそう言って、おじさんはまたちょっと目を細めてお父さんをにらんだ。でも何も言わないで、湯呑みを持ち上げてお茶を飲む。反論したり、そうもしないなら離れればいいのにと思った。豚汁は、いつもより味が濃ゆかった。おかずがこれしかないなら丁度いいかもしれない。おにぎりに具は入っていなくて、塩味はついているのかいないのか分からないぐらいわずかだ。「まあ、だから、家族なのに全然会いに来なかったバツだと思って?」とお父さんが言うと、おじさんは湯呑みを机に置いて「俺がやるより実がやる方がよっぽど親父も喜ぶんじゃないか」と言った。お父さんは「みっちゃんは他のことで忙しいんだから」と、おじさんをなだめるように言う。みっちゃん、というのはお母さんのことだ。お父さんは、お母さんのことをあだ名で呼んでいる。

 おじさんは、大きく目を開いて、すぐに細めて、寒すぎてこごえているときのような、弱っているのに怒っているような、複雑なまなざしをお父さんに向けた。お父さんは、おじさんと目を合わせて、笑っているのに怖かった。急に豚汁の味がしなくなった。お父さんも伯父さんも黙ってしまったから、急いでおにぎりをほおばって豚汁をかきこむ。「ごちそうさま」と早口で言って、食器を持って席を立った。シンクに食器を置いて、食堂を出る。

 あんなお父さん初めて見た。

 お父さんは、優しくって、面白くって、お母さんや萼やわたし、家族みんなのことを好きだ。おじいちゃんのことだっていつも気に掛けて、病院の送り迎えをしていた。萼はおじいちゃんについていって、待つのが退屈だろうからとよく本を買ってもらっていた。それを話して、萼にも買ったんだからとわたしを本屋に連れて行ってくれるお父さんは優しい目をしていた。おじさんのことを家族だって言うのに、あんな怖い顔をするお父さんは、なにか変だと思った。

 歩いているのに床を踏んでいる感じがしなくって、気付いたら自分の部屋じゃなくって居間にいた。ビニルハウスに逃げ出す前はたくさん人がいたはずなのに、誰も居ない。座布団だけ散らばっている。その上に寝転がって眠たくもないのに目を閉じた。

 ふさ、ふさと、わたしの名前を呼ぶお母さんの声と一緒に、肩を揺さぶられて目を開けた。明るかったはずの居間は薄暗くなって、わたしをのぞきこむお母さんの顔がよく見えない。「もう始めるよ」と言われても、何のことだかすぐに分からない。あれ、あれ、と首を何度か傾げてようやく、お通夜のことだと思い出す。「萼は」と聞いたら喉ががさがさしていて、こほこほとせきが出る。「見当たらないのよ、どこ行っちゃったのか」とお母さんが言うので、首を傾げておいた。

 制服に着替えて、お母さんについていって仏間に入った。仏間には見たことある人もない人も、たくさんいた。お母さんは、眠っているわたしをそのままにしておいてくれたんだろう。それか、喪服の着付けもあるから、起こそうにも起こしに来られなかったのかもしれない。お父さんはおじさんの隣に座っている。お母さんは前から二列目で、わたしの隣で座布団に正座をしているから、喪主はおじさんがすることになったのだろう。顔を見た覚えがあるお坊さんがしずしずと入ってきて、読経を始める。お線香の煙のかおりがただよっている。そっとお母さんに渡された数珠の玉はあわいピンク色だった。こういう色の苺もあるなと、写真で見たのを思い出した。おじさんからお焼香を始める。おじさんの次に、その隣のお父さん。指で少しお香をつまんで、軽く顔の前にかかげて、火種に振りかける。いつも、どれくらいの高さまでお香をかかげればいいのか分からなくて、困ってしまう。隣のお母さんのやり方を見て、お香を振りかけて手を合わせる。一瞬目を閉じると、お香のかおりを強く感じた。萼はまだ来ない。

 お坊さんの読経を聞きながら、お焼香は何の問題も無く順番に進んで、最後の列まで進んだお盆が前に戻ってくる。いつの間にか始まった木魚の音が、なんだかとってもおかしくって、笑いそうになるのをぐっとこらえる。これは、お通夜なんだから、悲しい場所なんだから。萼がいないなら、代わりにわたしが充分に悲しまなきゃいけないんだから。数珠を左手に掛けて、膝の上で手を合わせる。

 読経が終わったお坊さんは、袈裟の裾をさばいて立ち上がって、しずしずと出て行く。それから、おじさんが立ち上がって「本日は故人のためにお集まりいただき、ありがとうございます」としゃべり出す。やっぱりきれいな声だった。他の人と同じ黒色なのに、特別深く、吸い込まれそうな黒色のスーツを着て、まっすぐに前を見ながら話すしゃべるおじさんは、ちっとも悲しそうじゃなかった。ずっと平坦な声でしゃべっているのに、周りからはすすり泣く声が聞こえて、いよいよおかしかった。数珠を握りしめて笑いをこらえた。

 わたしはおかしいのかもしれないと思ったら、通夜振る舞いの席にいる気になれなくて、お母さんに伝えて自分の部屋に戻った。お母さんはわたしを止めなかったけど、萼が相変わらず見当たらないのを心配そうにしていた。「きっとおじいちゃんの部屋に戻ってくるよ。萼だもん」と伝えると、お母さんは口をぱくぱくしてから顔を下に向けて、「そうかもね」と言った。

 自分の部屋に入って、制服の上着とスカートを順に脱ぎ捨てて、ベッドに飛び込んだ。しわになる、と思ったけど、今はどうでも良かった。泣けないのはなんでだろうって考えるのに、こらえていた笑いが口からこぼれて、うふふ、あははと自分の声を聞いていた。おじさんは、どんな顔をして通夜振る舞いを食べているんだろう。おじさんは、明日もあんなに悲しそうじゃない声でしゃべるんだろうか。まっすぐに前を見て、隣にいるお父さんになんか見向きもしてなかったおじさん。

 ふっと目を開けたら、ふとんにくるまっていた。寒かっただろうか、キャミソールとパンツだけだから、寒かったのかもしれない。今が何時か分からないけど、お風呂に入るのはなんかしんどい。でも、喉は渇いている。けほけほと咳が出る。お水を飲みたい。手探りで衣装ケースの引き出しを探って、体操服のハーフパンツを引っ張り出してはく。

 自分の部屋を出たら廊下はすっかり暗かった。真夜中なのかもしれない。誰の声もしない。ゆっくり廊下を進んで階段を降りる、ちょっと木がきしむ音が大げさに聞こえる。食堂の向こう側にひとすじ、明かりが漏れている。食堂でお水を飲んで部屋に戻ればいいのに、その明かりが気になってしまう。足音を立てないようにそっと明かりの前まで行くと、襖がほんのわずかだけ開いていた。ほんのわずかの隙間に目を当てながら、この中は通夜をした仏間だと思い出す。

 萼がいた。おじいちゃんの棺の前に、膝を抱えて座っていた。萼の後ろに少し離れて、おじさんがいた。おじさんは、片膝を立てて座って、何か本を読んでいた。髪が短いからあらわになっている項の曲線がよく似ている二人だった。お線香のかおりがただよってくる。ろうそくの火が灯っている。わたしはこの部屋に入ってはいけないと思った。苺を摘まなきゃ、と思った。

 だから朝になって一番に、着替えをする前に、顔を洗う前に、ハウスにきた。もう終わりの春摘みの苺。苺の苗のそばをゆっくり腰を屈めて歩きながら、もう熟れすぎて売り物にならない苺を摘んで回る。今日の午前中に、お手伝いをお願いした農協の人が、売り物になる苺を摘んで出荷してくれるはずだ。だから、売り物にならない、真っ赤に熟れすぎた苺だけを、ざるに摘んで回る。

 赤色でいっぱいになったざるを、いつものように台所に置いておこうと思った。そうしたら、みんなが少しずつつまんで、いつの間にかなくなる。でも、食堂に入ったら、おじさんがコンロの前に立っていた。コンロでは薬缶がしゅーしゅーと湯気を立てている。おじさんは、何気なくわたしの方を振り向くと「おはよう」と言った。「おはようございます」と返事をしたわたしの声はかすれていて、みっともないと思って顔が赤くなる。おじさんの声は朝でもやっぱりきれいなのに。苺のざるをシンクに置いて隣を見ると、おじさんは、食器棚からマグカップを一つと、ティーバッグを一つ出していた。調理台にはすでに一つ、ティーバッグの入った空のマグカップが置かれている。

「なにしてるの」

「紅茶を入れてるんだ。きみは、苺を摘んできたのか」

 きみ、なんて呼ばれてくすぐったい。名前じゃなくて呼ばれるときは、たいてい、アンタ、とか、オマエ、とかだ。おじさんは、わたしとは違う世界で生きているのかもしれないと思った。

「うん。売り物にならないやつ。おじさん、食べる?」

「いや……ジャムでも煮ようか」

「ジャム?」

 苺のジャム。食べたことがない。だってうちは苺農家だから、苺を買ったことがない。苺ジャムも買ったことがない。苺味のアイスはたまに買う。苺味のチョコレートは一周回って買わない。買わなくっても作ることはできるのに、わたしは、苺ジャムを食べた覚えがない。それで、返事ができなくて黙っていたのに、おじさんは、コンロからマグカップにお湯を注ぐと、ティーバッグをマグカップに入れっぱなしにしたまま、ジャムを煮る準備を始めた。ホーローの鍋と、ボウル。ボウルに、大量の砂糖を出していく。重さを量っているようにも見えない、ただの目分量。適当だ。それからわたしがざるに入れた苺に、蛇口から直接水を掛けて、手でざるの中身をひっくり返しながら洗う。それから、シンクの下から小さなナイフを取り出して、苺のへたを落としてホーロー鍋に入れていく。ほとんど手元を見ていないのに、全然危なげはなかった。慣れているのかもしれない。

 あっという間にすべての苺のへたが落とされて、ホーロー鍋は苺でいっぱいになった。そこに、砂糖がまんべなく振り入れられる。空っぽになったボウルを調理台に置いて、おじさんは、ホーロー鍋の中の苺と砂糖を手で混ぜる。砂糖の白い粒が赤い苺にまとわりついて、雪が降ったみたいだ。それから、鍋をコンロに載せて、火を点ける。ごくごく弱火だった。

「これで放っとけばできあがり」

「簡単だね」

「そう、簡単。でも、俺しか作らなかった」

 おじさんは鍋の中を見ながら静かに笑う。ちょっとだけ悲しそうに見えた。寂しそうでもあった。わたしが苺ジャムを食べたことがないのは、おじさんがこの家に帰ってこなかったからなんだなと分かった。苺の表面の白い砂糖が見えなくなって、苺から少しずつ水分がにじみ出して、甘いにおいがし出す。ふつ、ふつ。ちゅる、ふつ、ぐつ。苺から出た水分が沸騰して、苺が砂糖で煮込まれていく。ただでさえ熟れすぎて真っ赤だった苺なのに、赤色がどんどん深くなっていくように見える。あわいピンク色のあくが浮かんできて、数珠の玉の色を思い出した。おじさんが、小さなお玉であくをすくって、マグカップの紅茶に浮かべる。いつの間にか、ティーバッグはシンクの隅のゴミ入れに捨てられている。一回、二回、三回とあくを浮かべて、おじさんは「どうぞ」と、くすんだ緑色のマグカップをわたしにすすめる。わたしはそうっとマグカップを両手で持って、ふうふうと息を吹きかけて、紅茶を飲む。苺と砂糖の合わさったこっくりした甘さと、ほのかな酸っぱさ。それでよけいに強く感じる紅茶の渋み。はじめて飲む味に、なんだか涙が出た。ちょっと涙が出るだけで済むかと思ったのに、次から次に涙が出て、鼻水をすすった。おじさんは何も言わないでジャムの鍋を見つめている。

 鍋の中の煮崩れた苺に向けるのと同じまなざしで、おじさんは前を向いている。きれいな声が最後の挨拶をしゃべっているけれど、内容は頭に入ってこない。紅茶でやけどしてしまったらしい舌のひりひりが気になって、舌を上の歯にこすりつける。

 男の人たちが、おじいちゃんの棺の周りに集まった。霊柩車まで棺を担いで行くのだ。隣に座っている萼が立ち上がろうとした。とっさに、萼の制服のスカートをつかんで、萼を引きとめた。お下がりをもらってもきっとわたしは着られない中学校の制服。

「どうしたんだ、房」

「おねえちゃん、行かないで。一緒にいて」

 まっすぐに萼の目を見つめてそう言った。萼もわたしの目をまっすぐに見てくれている。萼が瞬きしたらわたしが瞬きする。わたしが瞬きしたら萼が瞬きする。たぶん、何十秒か見つめ合って、萼が、眉毛をハの字にしてため息をついた。

「分かったよ。おねえちゃんだからな」

 萼は立ち上がって、でも歩き出さずに、わたしに手をさしのべた。わたしは萼の手をとって立ち上がる。萼と手をつないだまま、霊柩車がとまっている表に出るために、玄関に向かう。萼の左手には数珠が握られている。わたしのと同じあわいピンク色の玉が連なった数珠で、紐の色だけが違う。わたしは白色、萼のは濃い赤色。お母さんのは何色だっただろう。お父さんのは、おじさんのは。考えながら、ローファーを履いて外に出る。ちょうど、霊柩車に棺が載せられるところだった。遺影を胸の前に掲げているお母さんの手元に、あわいピンク色の紐が垂れ下がっているのがちらりと見える。それから。それから? 萼の手をぎゅっと強く握る。

 お葬式から帰ってきたら、萼と一緒に、苺ジャムを沈めた紅茶を飲もうと思った。

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