透明人間

小深田 とわ

透明人間

 僕は何処にいるんだろう? 僕は何処に行ったんだろう?

 ねえ、誰か僕を見つけてよ。 ねえ、誰が僕を見つけてくれるの?


 僕は歩道を歩く。潮騒が外耳と鼻腔を満たし、往来する自動車が忙しない社会の歯車を廻す。誰もが己の時間を生き、誰もが家族のために時間を消費する。誰もが友人との快楽の一時を過ごし、誰もが恋人との蜜月を過ごす。


 僕は誰を見ているんだろう? 誰が僕を見ているんだろう?

 僕は何を見ているんだろう? 何が僕を見ているんだろう?


             ◆◆◆   ◆◆◆


 遮断機の警報音が鳴る。赤色の警報灯が燦然と点滅し、黒色と黄色の遮断桿が降りる。

 忙しなく足踏みをする者、スマートフォンを眺める者、イヤフォンから流れる音楽に意識を向ける者、友人と仲良く談笑する者、恋人と甘美な会話を交わらせる者、参考書と睨めっこする者。

 有限の時間を他者に奪われた彼ら彼女らの反応は多様性に富む。誰もが、限りある時間を公共機関に浪費させられている。それを有意義に利用するか徒に浪費するか。運命の歯車のかけ違いを生じる一端は、こうした些細な出来事が切っ掛けなのだろう。

 轟音と振動を周囲一帯に撒き散らす鉄の蛇が遮断桿の間を疾走する。強風が髪を靡かせ、轟音が会話を遮断した。


 僕のことが見えた人はいるんだろうか?

 僕を知っている人はいたんだろうか? 僕が知っている人はいたんだろうか?


 やがて警報灯は灯りを消し、警報音も止む。遮断桿が持ち上がり、線路はそれを直交する人の群れに開放される。徐に進む洋服達は道を飾り、遠くから届く喧騒の調べに導かれる。

 僕もそれらに加わって線路を渡る。冷たい鉄の轍が足底を刺激する。チラリ、と横を見ると走り去った蛇の尾が遠くのカーブに消えた。

 踏切の反対側からも色とりどりの洋服達が歩いてくる。言の葉を送らなくても自然な身の流れで衝突を回避する一連の流れは芸術作品として昇華される。

 僕は誰かと肩が接触する。バランスを崩した僕は線路に尻もちをつく。しかし、それを気にする人は誰もいない。接触した人も、そうでない人も、誰もが我関せずの態度で歩を進める。


 僕は誰かに見えてますか? 僕は誰にも見えてませんか?

 誰か僕を見つけられますか? 誰も僕を見つけられませんか?


 僕は立ち上がって臀部の汚れを手で払う。そして、再び歩き出した。誰も僕を見ていなかった。僕は誰にも見えていなかった。


             ◆◆◆   ◆◆◆


 僕は大通りに並行する歩道を歩く。昨日の降雨が齎した溜水が、陽光に照らされて宝石箱の輝きを振り撒く。稚い少女がそれを蹴り上げて遊び、跳ねる水飛沫に特別な感情を見出す。

 僕の横を大型のトラックが駆け抜けた。大きなタイヤが高速で回り、轟く風切り音と共に大量の水を蹴り上げる。

 僅か数秒の出来事。トラックはそのまま遠くへと走り去り、僕はその場に立ち止まる。後続の車たちもまた同様に走り去り、車体に比例した水飛沫を蹴り上げる。


 誰か、僕が見えていますか? 誰か、僕を見つけられますか?

 僕は此処にいますか? それとも、僕は此処にはいませんか?

 僕は何を見ているんだろう? 皆は何を見ているんだろう?

 僕は誰に見られているんだろう? 皆は誰に見られているんだろう?


 何もわからない。誰もわからない。滴落する雫が無常の移ろいを表しているようだった。


             ◆◆◆   ◆◆◆


 やがて僕は大きな町に着く。喧騒が間断なく飛び交い、LEDの照明が時間を忘れて燦然と輝く。スーツがスマートフォンを耳に当てて忙しなく行き交い、制服がスマートフォンの画面越しの世界を見つめる。私服が赤子を抱き抱え、空いた手には重たいビニール袋を下げている。

 何処かで誰かが騒いでいる。手に持ったプラカードは政治的プロパガンダに対する主観的反論。小さな口が大きな主語を用いて己の正当性を主張していた。

 誰もそれを見ていなかった。それは景色の一端として処理され、誰の目にも心にも見えていなかった。それでも、彼ら彼女らは崇高な主張を止めない。誰もそれを見ていないという事実が見えていなかった。


 誰かそれを見ることはあるんだろうか? それが誰かを見つけることはあるんだろうか?

 それは何を見据えているんだろう? 見据えた先の未来は彼ら彼女らを見てくれるんだろうか?


             ◆◆◆   ◆◆◆


 何処かで赤子が泣き声を響かせた。高周波のそれは、他の喧騒を割って何処までも響く。それは、この世に生を受け、全てを初体験する彼ら彼女らの喜怒哀楽を示す数少ないCommunication-tool。誰もが一度経験したそれは、何時までも止む気配を見せない。母親はそれを宥めるが、一向にその気配は現れない。母親はたった独りで戦い続け、目の下には重たい隈が浮かんでいる。


 誰も母娘を見てなかった。母親も周囲を見てなかった。

 僕もそれを見なかった。僕は何も見えなかった。


             ◆◆◆   ◆◆◆


 その後も、僕は大きな町を彷徨い歩く。誰もが小さな大きい世界に執心し、誰もが修飾された世界に心を奪われる。食事も、風景も、思い出も、記録も。全てが画面越しの小さな大きい世界から生み出され、全てが現実の世界から切り離される。しかし、彼ら彼女らは現実へと抜け出せない。


 画面越しの美麗は現実の美麗なんだろうか? 現実の美麗は画面越しでも美麗なんだろうか?

 画面越しの僕は現実の僕なんだろうか? 現実の僕は画面越しでも僕なんだろうか?

 僕は何処にいるんだろう? 何処に行けば僕は僕になれるんだろう?

 誰か僕を見つけてよ。誰か僕を探してよ。誰にも見えない僕は、誰かに見つけられるんだろうか?


             ◆◆◆   ◆◆◆


 バス停にも多くのスーツや制服達が立つ。出荷を待つ機械人形のように整然と並べられ、互いに無関心を貫きつつ手元で光る小さな板を注視する。浅い呼吸が重なり、Daydreamの世界が脳裏に広がる。僕もその後ろに並んだ。

 バスが来る。唸るエンジン音と軽快なアナウンスが重なり、無感情な手招きが無感情なスーツや制服を飲み込む。小さな段差、数歩の階段。電子マネーの読み取り機が存在を誇張する灯りを点滅させている。しかし、イヤフォンの内側に広がる世界を羽ばたく鳥達には、それらが魅せる彩りが見えない。僕も彼ら彼女らに続いてバスに飲み込まれた。

 徐に回る車輪が鉄の箱を動かす。小刻みな振動はそれが生きている証。無感情なアナウンスと共に車窓の景色は移ろう。

 町を離れ、鉄の箱は閑散と広がる田園世界を走る。玲瓏な空気を横切り、くすんだ空気が後に残る。風に靡く稲穂が清涼な音楽の調べを運び、燦然と輝く日輪が母の恵みとなって大地に降り注ぐ。


 皆は何を見ているんだろう? 皆は誰を見ているんだろう?


 彼ら彼女らは揃って小さな大きい世界に没入し、眼前に広がる無際限の解像度から目を逸らす。或いは、音の世界から齎される仮初の青春に魅了されている。


             ◆◆◆   ◆◆◆


 そうして僕は学校に行く。沢山の制服達が賑やかに跳ね回る。同じ髪、同じ服、同じ鞄、同じ靴。同じ自転車。亡失した自己を探し求めて限りある個性で自己を主張する。没個性的なパラダイムは、僕達を誰にも見つからない何処かへと追いやる。


 名前という言葉飾り以外を失った僕達は、一体誰なんだろう?

 誰が僕達を見るんだろう? 僕達は誰に見られてるんだろう?

 僕達の何を見ているんだろう? 僕達は何に見えるんだろう?


 生徒指導の腕章をつけたスキンヘッドの男性教諭が玄関前で腕を組む。ジャージの襟を立て、奥を見透かせない漆黒のサングラスをかけて生徒達を萎縮させる。


 彼は僕達の何を見たいんだろう? 彼は僕達の何を見たいんだろう?


 何処かの誰かが教諭に捕まり指導を受けている。社会に通用する画一的なパラダイムに押し込む様を衆目へと晒す。


 あの子は一体誰なんだろう? 先生はあの子に何を見たんだろう?


             ◆◆◆   ◆◆◆


 下駄箱を抜けた僕は廊下を歩く。友人と談笑する者、彼氏彼女と親睦を深める者、享楽を求めて廊下を駆け回る者、独り読書に興じる者。それは、その場において確約された唯一の自己主張。


 誰がそれを見ているんだろう? 僕は誰かに見られているんだろうか?


 教室の扉を開ける。小さな空間に押し込められた溌剌な喧騒が溢出する。有り余るエネルギーで、活発な自己表現を限られた友人と混ぜ合う。或いは、ただ寡黙と自分の時間を過ごしている。

 僕は自分の席に座る。教室の最後尾から全体を見渡す。

 話す者、遊ぶ者、自主学習に励む者。外の世界に身を投じて五感で世界を味わっている者。しかし、それは仮初の人間像であり事実ではない。手元に広がる小さな大きい世界に、彼ら彼女らは誇張された自己表現を投じる。刹那的な興味関心と欺かれた恋心でマズローの第四欲求は満たされる。

 手元に広がる小さな大きい世界は、彼ら彼女らの心を拘束して眼前に広がる直截的な関係を蔑ろにする。眼前の友情は余剰の意識で処理され、内側に収束する虚像を獲得した自己像として錯覚する。


 皆は何を見ているんだろう? 皆は誰を見ているんだろう?

 僕は皆に見えているんだろうか? 皆は僕を見ているんだろうか?

 誰か、僕を見てくれないかな? 何か、僕を見てくれないかな?

 本当の僕を見つけてよ。僕は此処にいるんだから。


             ◆◆◆   ◆◆◆


 チャイムが鳴り授業が始まる。それは、知識を獲得する場。それは、将来に対する長期的な投資であり人間が獲得できる唯一のDownloadable contentsである。一方的に投げつけられる知識の種を拾い、朧気に浮かぶ将来の自己像へ蒔く。非対称的なキャッチボールは個々に対する配慮を封殺し、ボールを取り損なう姿に対して盲目となる。


 皆はどうやって自分自身を見ているんだろう? 皆は自分自身の何を見ているんだろう?

 どうやったら僕は自分自身を見つけてくれるんだろう?


             ◆◆◆   ◆◆◆


 空が茜色に染まる。烏がどこか遠くの空で鳴いている。

 長い拘束から解放された彼ら彼女らは、世間が思う健全な青年像に当てはまる心身を獲得するための活動に身を投じる。或いは、画面越しの小さな大きい世界に没入するための帰路につくのかもしれない。修飾された己を発信し、渇いた心を潤わせて一時的な満足感を獲得するのかもしれない。笑い合う彼ら彼女らの手には揃って小さな光る板が握られていた。

 僕は学校の屋上に行く。転落を防ぐ高いフェンスが四方を囲むように聳えていた。


 僕は皆に見えているんだろうか? 僕は誰かに見られているんだろうか?


 画面越しの小さな大きい世界に僕は映らない。外の世界に誰が生きているのか誰も気にしない。

 僕の世界は茜色の宝石箱。雲一つない世界が地平の彼方まで広がっていた。

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