第8話 反転する殺意 4

 職場である歯科医院のドアをくぐると、休診時間を見計らってきただけあって、空いていた。治療を終えたらしい若い女性が帰ると、待合い室には誰もいなくなった。

 奥へ呼び掛け、森谷裕子に出て来てもらう。

 比較的背の高い、おかっぱ頭で色白の女性、それが森谷だった。小さな目と対照的に、口は大きめで、愛嬌のある顔と言えた。上半身がほっそりしている割に、足の方は丈夫そうだ。

 殺しを考えるような人には到底見えなかった。だが、下田警部は気持ちをなるべくまっさらにした。先入観を裏切られた経験なら何度でもある。

「森谷さんは、先月末、三十日の夜は、どこで何をしてました?」

「え? 困ったわ。急に聞かれても……」

 極々淡いピンク色の制服に身を包んだまま、頬に手のひらをやった森谷。その姿形だけを捉えれば、思い出そうと努めているとしか見えない。壁に掛かるカレンダーを見やり、やがてつぶやくように言った。

「恐らく、定時にここを出て、家に帰ったと思います。独り暮らしだから、証人はいませんけれど」

「電話等はどうです?」

「覚えてません。でも、彼氏どころか親しい友達もいない寂しい身ですから、電話があれば記憶に残ってるはずね」

 自嘲気味に微笑する森谷。小さな患者達の前では決して見せないであろう、うつろな表情だ。

「アリバイなしと見なしていいんですな」

「今のところ、仕方ないじゃないですか」

 あきらめた風に言って、きびすを返すと、森谷は待合い室のテーブル上を片付け始めた。てきぱきと動き回りながら、下田らに聞いてくる。

「何の容疑なんですか、私に掛かっているのは?」

 下田は受付窓口の脇にある缶型の筆立てにカッターナイフが挿してあるのを見届けてから、反応した。

「有山洋という方をご存知ではないですか」

「……えっと」

 曲げていた腰を伸ばし、上目遣いになる森谷。

「確か、そういうお名前の患者さんが、以前いたように思いますけど、調べましょうか」

 下田は、隣の花畑が歯ぎしりするのを聞いた。

「いえ、調べなくて結構。仰るように、こちらに通ったことのある患者の一人です。個人的なお付き合いはなかったかどうかを知りたい」

「随分直接的な質問ですね。びっくりしたわ」

 再び片づけに戻る。雑誌をひとまとめにして、マガジンラックに押し込むと、手をはたいた。

「個人的な付き合いって、さっきも言いましたように、私には彼氏も親しい友人もいませんから」

「仮に嘘をついても、調べれば分かることなんですよ」

「ですから。私は患者さんと個人的な関係になったことは、一度だってありませんてば」

 声を荒げた森谷。さすがに気分を害したらしい。もっとも、交換殺人のメモが頭にある刑事達にとって、これされも演技に見えなくもない。

「では、吉山卓也なら知っているでしょうね」

 森谷の動作が、ぴたりと停止する。直立姿勢で刑事達に向き直った。

「……どこから出て来たのか知りませんが、忘れられない名前だわ。調べは着いているって言うんでしょう? そう、私の叔父を死に追いやった男です」

「殺したいほど憎んでいたと聞き及んでいます」

「今でも殺してやりたいわ。刑事さんの前で言っちゃあいけないことかしら」

「殺そうとしたことはなかったんでしょうかね」

 病院の待合いで交わすにはふさわしくない会話だと感じつつ、下田は質問を重ねた。

「空想したことなら、何百回何千回もあるけれど。あいつが歯の治療にやってきたら、毒を仕込んであげるのよ」

 笑った森谷に、花畑が「あんたねえ!」と声を大きくする。思わず叫んでしまった部下を、下田は抑えた。それから、周囲に第三者がいないことを再確認した上で、事件の中心であろうポイントについて切り出した。

「森谷さん、あなたには殺人未遂、それも交換殺人の疑いが掛かっています。今は容疑者どうこうではなく、状況の調査・確認だから、気を楽にしてお答え願えたらありがたい」

「こうかん……?」

 花畑がフリーハンドで相関図を描き、交換殺人の仕組みを説明した。森谷は途中で分かったようだが、最後まで大人しく聞いていた。

「それで、私が誰かと組んで、交換殺人をやったと言うんですか」

「違いますか?」

「ええ。患者さんの一人である有島洋という方との関係を疑われたのも、これのことなんですね。よく分かりました。的外れよ。私は一切知りません。第一、吉山の奴が死んだってニュースは、なかったようですけど」

「六日の夜、どちらにいました?」

「またアリバイ? 付き合いの悪い女にそういうことを何度も……あ、六日って、今月の?」

 下田が黙って首肯すると、森谷は子供に向けるような満面の笑みを作った。

「でしたら、アリバイがあります。久しぶりに休みをもらって、旅行に出掛けていたわ。五日の夕方に出発、七日の昼に帰って来たんだから、アリバイ成立でしょう?」

「どちらへ行かれたのかを伺わないことには、何とも」

「福岡です。コンサートを観るのと観光を兼ねて。一人旅でしたけど、証人ならホテルの人とか。チケットの半券も取ってあるわ。ああ、お土産を院長先生にお渡ししたから、それをご覧になります?」

 下田の返事を待たずに、森谷は奥の部屋へと走っていった。

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