エピローグ代わりの一月五日

 もしかすると、この世界にはそもそも、始まりや終わりという概念は存在しないのかもしれない。世界のどこかでは常に何かが起こり続けているのだけれど、矮小な人間存在には断片的なごく一部を捉えることしか出来ない。そこで、対象を自分達の理解の範疇に繰り込むために暫定的に引かざるを得ない時間軸上の二本の境界線に名前を付け、あたかもそれが起こった出来事の全てであるかのように振る舞おうとしているのだ。始まりと終わりを規定するというのは、つまり個々人の自己満足に過ぎなくて、連綿と続いている世界そのものに対する冒涜であると捉えることも出来るのではないか。とすると、例えば架空の世界の始まりと終わりを提示するという側面を持つ創作行為は、あまねく全てが自己への冒涜を内に孕んだ自己満足であると言い換えが可能であり、だからこそ、芸術性なり価値なりが見出されるまで、他者の耳目を惹くことが出来ないわけだ。世界の真なる輝きは、人間に勝手に象られた硬い殻の内に閉じ篭り、人知れず狂おしいほどの減衰と増幅を繰り返しているに違いない。きっとそこには、猫背の俺の絶望も挫折も困惑も悦楽も生も死も全てが一緒くたになって溶け込んでいるのであり、俺の意識が消えようがもう一人の自分が覚醒しようが経済的に破産しようが、始まりと終わりというものだけはどうやっても見つけられないのだ。

 どこまで行っても、俺が続いている。勿論、俺だけじゃなく、俺以外の全ても。

「要するに何が言いたいの? 『どんなことを知られても俺は終わりじゃない』ってこと? それとも、『どんな関係も断ち切って終わらせることは出来ない』ってこと? どっちにしろ完全な開き直りじゃん」

 ぐちぐちと言い訳を弄していたら、ハンプバックが介入して来た。

「まあ、単なる寄生体という立場からは、何も文句は言えないわ。そっちが気にしないならずっと見てるし、どうしてもって言うなら目も耳も塞いでてあげる。六倍の身長があれば私も加わってたところだけど、ないものねだりしても仕方ないし、その辺は我慢するわ。でもね――」

 右手をこちらに突きつけ、左手を腰に当てるお決まりのポーズをとった。

「ずばり、ツキト、男として最低よ」

 直球が来た。自覚があるだけに言い返せない。

「昨日の決意は何だったわけ? 虚構? 幻想? 紛い物? どれ」

 どれでもない。風花を諦めない、そのためにベストセブンを目指す、というのは俺の本気だ。本気中の本気だ。軽すぎるのが嫌だからマジと読まないくらい本気だ。それだけは信じて欲しい。

「じゃあ、断ったらいいじゃん」

 ごめんなさい。

「謝る相手は私じゃないでしょ」

 でも、風花はこのこと知らないし、そもそも俺が誰と付き合おうと平気だって言い張ってるから、裏切ったわけでもないし、謝る道理がない。あ、痛い痛い、やめろ、引っ掻くな。嘘、嘘だって。本当は悪いと思ってる、いや、マジで、マジで。

「……フウカさんは獣医の卵のくせに、そう言う意味では立派だよ。きちんと自分で自分を律している。理性が欲望に優ってる。その上で自壊しないよう自戒してる。一方のツキトは自戒しないで自壊してる。欲望が理性に優ってる。自分で自分を持て余している。いや、正確には自分の分身を持て余している。もっと直截に言えば、息子を――」

 喧しい。真面目な非難の中にちょくちょく下ネタを挟むな。

「だって、そうでもしないと気が収まらないもの。二つの意味で」

 それも下ネタだ。

「あーあ。ツキトがこんな人だってことにここまで気付かなかった自分がショック」

 これまで、さんざんエロ王だなんだと言ってきたくせに。

「まさかここまでとは思わなかったの。そのエロい理由にしても、昨日のカミングアウトのおかげで、フウカさんのこと引き摺ってるからだと思いこんでたし。あー、でも、そうか。『呪縛』の強制契約受け付けないってことは、それなりに過去を引き摺ってるにしても、さほど重症でないってことだもんね」

 そうなのか。それは自分でも少し意外だ。風花のことが忘れられないあまり、呪縛を解き放つために仕方なく、他の女と身体だけの関係を結んでいるが、どれだけ寝ても満たされないので何度も相手を替えざるを得ない、という構図のつもりだったのだが。

「それならまだ許されそうなものだけど……。実のところ性欲に負けてるだけだってことが露骨にわかるから最低以外の何物でもないわね」

 ぐうの音も出ない。

 要するに、俺には俗に言うセフレというのが何人かいるのだが、その内の一人から今日会えないかというメールが来て、いつものくせで了解の意を伝えてしまったことがハンプバックの意に染まなかったらしく、始まったばかりの一〇八属性のお勉強を中断してかれこれ一時間以上も駄目出しを食らっているという次第なのだ。

「フウカさんに告げ口しちゃおっかな」

 別に構わないが、そうなったらたぶん俺はこの部屋の窓から飛ぶだろうな。きっと綺麗な星になれる。

「そこまでの覚悟をどうして別の方向に向けないかな……」

 エロ小人であるところのハンプバックならわかってくれるかもしれない、とそんな甘い期待もあったのだが、やはり女性であるという点で小人も人間も違いはないようだった。

「いや、エロ云々もそうだけどさ、身近な人が不幸になるのって、どうしても看過出来ないでしょ。寝覚めが悪くなるっていうか……。そういう、根本的な問題だと思うわけ」

 つまりハンプバックは、宿主である俺の一時の快楽よりも獣医の卵であり敵対小人の正式契約者である風花の幸福を優先しているわけだ。

「……馬鹿。ここで言うフウカさんの幸福ってのは、ツキトの幸福とも重なってるでしょ。だからあえて、苦言を呈してるの」

 勿論、それもわかっている。だから出来れば――

「出来れば?」

「今日で会うのをやめにしようと思ってるんだ」

 つい、実際に口に出してしまった。ハンプバックが、少し頬を緩める。

「一応、それも本気みたいね」

「本気と書いてマジと読むくらいのノリだけどね」

「今日の相手だけじゃなく、勿論、他の女とも別れるんだよね?」

「ああ。一人ずつ、会って話して決着つけて来るさ」

「……清々しい言葉の裏で、話すだけじゃたぶん納得しないし最後に一回だけ抱いてやろうって考えるのやめて」

「リアルに、それはどうしようもない。最低限、生々しい実戦を脳内で繰り広げないよう努力している俺の苦悩も知ってくれ」

 たぶん、俺は本当にどうしようもない人間なんだろう。この因果な性格は死んでも治らないかもしれない。いや、死んだら治るかもしれないが、俺は死にそうもなくて、そのせいで結局治らないかもしれない。俺の物語は、始まりも終わりもせず、続き続けている。それは結局誰のせいでもないので、自分で帳尻を合わせながら上手く進むしかない。小説よりも奇なるに違いない、戦いに満ち溢れ、殺伐とした、それでも幸福な日常とやらの中を。

「ちょっと気になったんだけど」

 何だ、藪から棒に。上手く纏めようと思っていたのに話の腰を折らないでくれ。

「いや、その、さっきからツキトの頭の中でツキトとくんずほぐれつしてる背の低い女の子、いるじゃない」

 そういう駄目な方向の妄想の登場人物は、この世に存在しないものとして扱うのが通例のはずだが。

「私もそうしたいのは山々なんだけど、この娘、モデルがいるわよね?」

 もしかして、風花に似ていると言いたいわけか? 確かに、背の低さだけなら似ているかもしれないが、この妄想の素は別の人だ。一ヶ月前に知り合った一つ年下の美大生。

「ええと、端的に言って、セフレの一人?」

 端的に言えばね。少し変わった娘で、何考えてるのかよくわからないから、もしかするとセフレだという割り切りが出来てないかもしれない。別れる時一番こじれそう。

「何てことを……」

 誠意を持って接すればわかってくれると思うし、意地でも納得させる所存ではあるが。

「いや、そういうことを言ってるんじゃなく」

 ハンプバックの歯切れが悪い。どうしたことだろう。

「……その娘、専門は立像だって言ってなかった?」

 え?

「部屋に美少女フィギュアが溢れてなかった?」

 うん?

「衣装も全部自作して、完全にオリジナルのキャラクターを創造してなかった?」

 …………。

「ゲーム、漫画、アニメに異常なくらい精通してなかった? しかも、研究のためだって言って、男の子向けのエロいやつも集めてなかった?」

 集めてた。っていうか、集めてる。二日前にハンプバックに発見されたパソコンのゲームも実は彼女に借りたものだ。

「神波羅都子っていう仰々しい名前じゃなかった?」

 ……何故、ハンプバックがその名を知っている? 都子の名を意識の表面に浮かべたことは無かったはずだが。

「まだ気付かないかなあ。都子様も相当の猫背なのに」

 都子様?

「鈍いなあ、もう。ここまで言ってもまだわからないわけ? 神波羅都子こそ、去年の猫背の正式契約者なのよ!」

 頭が真っ白になった。去年の猫背の正式契約者は、ハンプバックにろくでもない知識をさんざん植え付けた、気持ち悪いオタク野郎だったはずではないか。

「別にご主人までが男だったなんて言った憶えはないよ。ただ、この外見を活かして男の人を相手にするならああしろ、こうしろって仕込まれただけの話でさ。都子様本人は、語尾ににゃを付けて男に媚びたりしないでしょ。フィギュア造ってるだけあって、むしろ人間と小人の違いには自覚的なんじゃないかな」

 いや、二人になると結構にゃあにゃあ言ってるけど。

 ハンプバックは、心底嫌そうに顔を顰めた。鼻の頭に皺が寄ると、怒った時の猫っぽい。

「一つだけ忠告しておくと」

 小人は、猫っぽいその表情のまま続けた。

「都子様の執念深さ、嫉妬深さは半端じゃなかったよ。一見飄々としてて捉えどころがないけどさ。高校時代に二股かけられた時、相手の男をノイローゼに追い込んだって言ってたし。……別れ話は慎重に切り出すことね」

 この期に及んでたった一つだけ、悟ってしまったことがある。

 俺の物語はまだまだ続くのだろうが、俺自身はもう終わりかもしれない、ということだ。

 ハンプバックが溜め息をつき、俺を励ますような優しい口調で告げる。

「愛憎の縺れで殺されるなら、正式契約のやり直しが効く一月中にお願いね」

 ……縁起でもない話だ。だが、何が起こるかわからないのが人生というもの。何しろこの世界は、戦いに満ち満ちているのだ。自分で撒いた種とは言え、男女の愁嘆場という最悪の修羅場をこれから幾つもくぐらねばならない俺は、いつ刃傷沙汰に巻き込まれないとも限らないわけだ。小人についての詳細を誰よりも知っているからって、俺がランキングバトルに参加出来ると決まったわけではない。それまで俺が無事に生きている保証なんてどこにもないのだ。この世界は、俺の生も死も飛び越えたところで続き続けるだけだろうから。

 万が一にもそんなことになった時は、誰か、そう、猫背だけが取り柄のそこの君。

 後は任せた。俺の屍は拾わなくてもいいから、とりあえずハンプバックをよろしく。

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