意を決す一月四日

 今日出来ることを明日に回さない人間と、明日出来ることなら今日しない人間という、物事に向かう姿勢には二つの典型的なタイプがある。前者は夏休みの宿題を、もらったその日から始めて最短で終わらせ、残りの日程を遊びに使うような子供で、後者は八月の最終日まで全く手を付けずに遊び回り、最後に泣きながらそれをこなす子供である。大体の場合、そんな極端な人間はいないし、特に後者は、よくありがちな話として持ち出されるが、現実的には夏休みの自由研究を一日やそこらで完成させる事は無理なので、八月の三一日に宿題を全部まとめてやった、みたいな漠然とした話は、まず嘘である。良くても計算ドリルの宿題だけが全部残っていた、くらいのものだ。それに、そもそも宿題を提出しなければならない、と考えているだけでそこそこ偉いのである。俺の知り合いには、夏休みの宿題に一切手を付けないという奴がいて、そいつは八月の最終日にも笑いながら遊んでいたし、学期が始まって先生に怒られても気にせず、再三提出を促されても無視し続けた。確か、親御さんを呼ばれて、PTAをも巻き込んで「今の教育を考え直す機会が来た」みたいなちょっとした騒ぎにまで発展したはずだったが、そいつは飄々としながら、何故そこまで意固地になるのか疑問を覚えるほどに、頑なに宿題の提出を拒んだ。今頃、どんな人間になっているのだろうか。

 そいつにとって、夏休みの宿題は、今日やるべきか明日やるべきかというそれ以前に、やるだけの価値があるかどうか、というレベルの代物だったのだろう。そこまでの覚悟をもって行動するとなると、一見怠惰なだけに見えるそれに対し、問題を先送りにすることよりもなお大きな勇気が必要になることがわかる。そんな歪んだものに対して勇気という言葉を使ってもいいのかどうかはよくわからないが、やらなければならない、とされていることを自分の判断だけで切り捨てることに対して、自信を持てる人間など一人もいない。言わば、今日出来ることを明日に回さない人間は、明日の自分が今日と同じ状況にあるかどうかわからないから早いうちに問題を解決しておくという慎重派、明日出来ることなら今日しない人間は、追い詰められて初めて腰を上げてもどうにかなるだろうという予測を立てられるほどには肝の据わった大胆派、そのやるべきこと自体をやらないという選択が出来てしまえる人間は、後先を考えていない大馬鹿者か、あるいは自分にとって何が大切で何が大切でないか、将来性まで考えて行動の出来る先見の明のある大賢者か、そのいずれかということだ。馬鹿なのか賢いのか、それを評価するのは、全てが終わった後の結果論に過ぎないのだから、そんな大博打に出ることが出来る者はほとんどいない、とこういうわけである。

 だからどうしたというのか。この話は至って簡単である。小学生でもあるまいし、と思うのだが、冬休み中の宿題がこの年齢になっても存在する。まあ、大学生はそれを格好良くレポートと呼んでいたりするわけだが。俺は、基本的に中庸を愛する人間であるので、期限ぎりぎりまで課題に手を付けないというようなことをしないし、逆に、課題が出たその日に手をつけるということもしない。提出しないなどもってのほかである。至って中途半端な時期に、思い出したようにそれに手をつけ、普通に終わらせる。それだけの話。

「さすが猫背」

 と、これは勉強机の上で鉛筆を抱えて、計算用紙に落書きをしているハンプバック。この状況を他人が見たら、鉛筆がひとりでに立って、紙に絵を描いているようにしか見えないはずだから、それを考えると自分がいかに現実と離れた部分を歩いているのか思い知らされる。意外なことに、そんな不自由な格好で描かれたその絵は、時折線が歪に曲がっていたりする以外、とても上手だった。しかも、アニメチックなイラストを描くのかと勝手に思っていたが、描かれているのは風景画だった。川と、田んぼと、山と。古きよき日本の景色が、鉛筆の繊細なタッチで描かれている。小さく、案山子まで居る。

「いや、別に、今日レポートやることと俺が猫背であることに直接的な因果関係は一切ないからな」

 シャープペンシルを握る俺の手元では、複雑な等式が踊っている。意味合いさえ分かれば一見複雑なそれも、どうにか理解出来る代物になり得るのだが、アルファベットの右下に数字をつけて区別するやり方は、ぱっと見で混乱を生みやすい。代数学や理論物理学が好きになれないのはこういった辺りの問題で、まあそれ以上に熱力学のエントロピーや構造化学の波動関数、微積分におけるテイラー展開などに至ると、その存在自体を受け入れることが出来ない。理系の人間ではあるが、生物系の学科に所属している俺にとって、数学系や物理系の科目は、完璧に専門外だといって良い。

 今取り掛かっているレポートは、基礎電磁気学。教養科目だか何だかで、必要もないのに必修という不可解な教科である。教科書に載っている基本式を組み合わせれば解ける問題が多いが、模範解答があるわけでもなく、多種多彩なアルファベットが二乗されたり三乗されたりしながら、分母と分子に別れてびっしり並んでいる答えが出ると、もっと綺麗な形になるのではないかと不安になる。

「大体、お助け小人ってのは、こんな大学生レベルの問題なんてお茶の子さいさいで解くことが出来て、その主人を大いに驚かせてくれるものなんじゃないのか?」

「お助け小人って言われてもねえ……」

 腕を組んで眉を寄せるハンプバック。

「基礎学力は備わってるつもりだけど、基本的に私、文系だから。数式見ると眩暈するくらいだし。ま、レポートにおいて、他人の力借りるって考え方は得策ね。物理得意な人とか一人くらいいるでしょ? ここぞとばかり利用しないと」

「当然のようにそこまで言われると、俺って結構真面目な人間なんだと痛感するよ」

「大学の単位なんて、要領の良さと人間関係の広さで拾っていくものでしょ? 研究者にでもなるんじゃなければ、真面目に授業受ける必要なんて皆無。研究者になるにしたって、興味ある分野以外は適当でいいのよ」

「……教育システムそのものを根底から否定するような発言だな」

「小人だもの」

 なるほど確かに、これはお互い様なのかもしれない。俺たち人間から見て、小人がわけのわからないバトルでランキングを決めて一喜一憂している様子が不思議に思えるのと同様に、「学生は学業が本分」という有名無実化したスローガンのもと、勉学に励むというよりも単位を揃えるという数取り遊びをしているような、そんな様相を呈している日本の大学システムは、小人にとって不可解なものなのだろう。いかに効率的にそれを成すか考えれば、レポートは他人の力を頼り、授業は代返で切り抜け、他人から借りたノートを使った一夜漬けでいかにテストを乗り切るか、その辺りが勝負所のゲームでしかない。その全てを生真面目に自力で成そうとするのは、戦略を誤っているようにしか見えないのかもしれない。

「要は、自分が何になりたいか、みたいなことでしょ。一流シェフになりたい人が波動関数を学ぶ必要はないし、逆に言えば理論物理学者になりたい人は料理が出来なくたって構わない。ツキトが何になりたいのか良く知らないけど、電気関連の仕事に就きたいなら、一応電磁気学は必要になってくるだろうし、そっち方面の研究者なら勿論必須事項。でも、それ自体に興味がなくて、生きる上で必要なさそうなら、単位のためと割り切って、適当にこなしてしまうのが人生における最適戦略。でしょ?」

「……ま、まあ、そりゃあそうだが」

「残念ながら、私が手助け出来る分野じゃなさそうだし、どうしてもわかんないなら、無駄に時間かけるよりも後で友達のを写させてもらうことね」

 俺は憮然とする。何人かの友人の顔が頭に浮かんだが、基本的に提出課題で他人の力を借りるのは好きでない。正確に言えば、「ここ、この答えで合ってる?」とか言いながら答え合わせして、間違っていたらやり方を教えたり教わったり、そんな相互協力ならまだしも、他人のレポートを丸写しにするやり方は好かん。第一、俺は今答えが知りたいのではなく、自分の答えが正しいのであるという、その確証が欲しいのだ。

「我侭ね」

 ナチュラルに頭の中の声に反応してくるのは、ハンプバックの悪い癖である。尤も、こちらが目を瞑っていて欲しい思考に関しては大体スルーしてくれているので、当り障りのない部分を選んでわざとやっているのだろうとは思う。

「ま、友達との答え合わせで答えが合ってた時の安心感とかは、わからないでもないけどね。何なら、今から誰か友達と一緒にレポートやればいいんじゃないの? ツキトって前の宿主より友達多そうだし、それくらいの企画しても不思議じゃないんじゃない?」

「いや、そうなると別段、今日である必要が全くないからな。提出期限は最初の授業の時だから、まだ一週間くらい先だし」

「何をするにも中途半端ってわけね、さすが猫背」

「だから猫背関係ないしそんなこと言ったらお前も猫背だしそれどころか守護してる小人だろうが、と一息で言ってみる」

「ご苦労様」

 嘆息。見ればハンプバックの落書きはまた別の絵に変わっており、今度は竹に似た植物と滝を描いた風流な作品だった。

「そのスキルはどこで手に入れたの?」

「ん? 絵のこと?」

「うん」

「前の宿主がね、個人で同人誌っていうのかな、そういうの描いてる人で。時間が無い時は、背景描きを手伝え、と」

「……納得出来るような出来ないような、微妙なラインだな」

「昔から、手先は器用な方よ。むしろ、猫背でただでさえ何の能力も無かったんだから、不器用か器用かなんて、それだけで死活問題だったし。そんなことより、レポートやるなら集中してやってよ。こっちとしては、一〇八属性についての勉強を今日辺りから始めたいくらいなんだから」

 そういえばそうだった。目の前でちょろちょろ動くハンプバックに気を取られて、先ほどからレポートの方は遅々として進まない。問題数は大して多くないが、未だに半分にも到達していないし、後ろの方にある問題の方が難しくて時間が掛かるのがセオリーである。

「うーん、やっぱり、友の力を借りるのが一番賢いかなあ」

 俺のいる学科は生物系だが、受験科目では理科が、物理、化学、生物からの二択であり、基本的に生物選択受験者よりも物理選択受験者の方が多い。そのため、生物選択だった俺に比べて、友人達は基本的に物理に秀でている。

「例のお隣さんは駄目なの? 浪人したツキトより一つ上の学年にいるんでしょ?」

「フウカ? あー、あいつは駄目駄目。俺より物理出来ないもん。獣医学部だから、そもそも専門科目が多くて、電磁気学とかとる必要すらなかったはずだし」

 ぴたり、とハンプバックの筆が止まる。

「……獣医?」

 大きく目を見開き、虎縞の尻尾を逆立てているその様子に並々ならぬものを感じ、俺は思わず椅子ごと一歩下がった。

「なんだ、どうした、ハンプバック?」

「獣医ってのは、あれ? 動物実験の得意な白衣着た眼鏡?」

「えーと、俺に寄生している小人は偏見の守護小人ではなかったはずだが……?」

「実験用のネズミを殺せば殺すほどに腕を上げるという、白衣着た眼鏡?」

「お前、自分の声が他の人間に届かないからって、言って良いことと悪いことってのはあるんだからな? 猫背の俺でも、他人事とは言えさすがにそこまで言われたら黙っちゃいねえぞ」

「――あいつは私を解剖しようとした」

 鉛筆が倒れる音がした。両腕で体を掻き抱くようにして小さく丸まったハンプバックが、蒼ざめた顔で震えている。

「お、おい……」

 尋常でないその様子と、解剖しようとした、という発言で、過去に獣医との間に何かあったことは明らかであった。冗談でも何でもなく、獣医がトラウマになっているのかもしれない。一度トラウマになってしまうと、そこに論理的説明を介そうとしても難しい。エレベーターの中で暴行されたことがトラウマとなった女性に対し、「このエレベーターは、あの時あの場所のエレベーターではないので安全だ」と説明したとしても、それは恐怖を拭うには全く程遠いものであると言わざるを得ない。むしろ、それくらいの論理でパニックを回避できるのであれば、パニック障害ではない。

 どうすればいいんだったか。

 ふーふー、と威嚇するように肩で息をするハンプバックの、本能的恐怖を必死で抑えつけるか細い理性を思い、思わず同情する。可哀相だと感じてしまうのは筋違いであること甚だしいが、彼女が時折垣間見せる「辛い過去」は、基本的に何不自由なく生きてこられた自分にとって、心臓に直接刃物を突きつけられるような、そんな根源的な痛みを誘起するものだった。

 獣医に対する恐怖と敵愾心を剥き出しにするハンプバック。そもそも、毎日のように風花と顔を合わせる自分としては、契約している小人がその度にこんな様子になられては、堪ったものではない。

「えーと、ひとまず落ち着こうや」

 そっと手を伸ばしたが、びくっと大きくハンプバックの体が警戒に震えたのを見て、諦める。この小人のことだから、全てが演技であるという線も考えないで無かったが、どちらかと言えば楽観的なそんな考えに終始してしまえば、相互理解なぞ望むべくも無くなる。

 どうすればいいんだったか。

 テレビ番組で、パニック障害に対するカウンセリングの話は何度か見た気がするが、そんな上等な代物を素人の俺が行うことなど不可能である。症状を緩和する策とか、相手が落ち着いてくれる術とか、身近な対症療法で良いからそういう部分を知りたかった。

「ツキトは……、医者って、怖くないの?」

 必死に落ち着こうとしているのか、深呼吸しながらハンプバックが訊いて来た。吐く息が震えている。ぎらぎらとした瞳は、殺気立っていると表しても過言ではなかろう。

「怖い? 何で」

 少しでも気が紛れれば、と思って俺は話に乗った。ハンプバックは、一度ぎゅっと瞳を固く閉じてから、無理矢理喉を動かして唾液を飲み込んだ。本当に辛そうであるが、トラウマがどれだけ辛いのかなど、体験者にしかわからないのだ。健常者は、その様子を眺めて、自分のことのように心配したり、あるいは他人事のように純粋な興味を示したり、様々な選択でことに当たることが出来るが、いずれにしてもその苦しさを真の意味で理解することが出来ないという点では共通している。

「だって、殺されるかも、しれない」

「殺される? 医者に? そんなことは考えたことも無かったな」

「何されてるのか、わからないと、不安にならない?」

「その辺は、昔から医療そのものの抱えてる根本的な問題点だな。最近、インフォームドコンセントっつって、どんな治療法を行っているのか、医者が患者に説明する義務があったりするのも、そのせいだ。患者は、自分の体のことなのに、それがどうなってるのかわからん。医者に頼るしかない。で、医療過誤の多発で医者への不信感が高まると、診断そのものへの信頼も弱まる。ほら、殺されるって思うのは、相手を信用できてないってことだろうな」

 わからなくもない。体に異変を感じたら、二つ以上の病院を回って、別の医師の診断を仰いだ方が良いと聞く。二人以上の医者の診断が同じであれば、信憑性が増すだろうから。

「私は、獣医が一番だけど、医者も嫌い。信用、出来ない」

「一括りにするのが問題だと思うけどな。良い医者もいれば悪い医者もいる。信用に足る医者もいれば、信用出来ない医者もいる」

「相手が、自分より格下だから、えらぶってるみたい」

「だから、それが人それぞれなんだって」

 ハンプバックが、いやいやをするように必死に首を横に振った。

「医者より、医学に詳しい素人は、絶対にいない。獣医なんて、もってのほか。自分の領域で、自分より下の人を相手にするだけだから、何でも出来る。だから、怖い」

「……相手があまりにも格上過ぎて自分では手も足も出せないフィールド、か。人生が戦いである以上、それは確かに恐ろしいだろうな。だが、別に俺達は医者と医学知識で勝負してるわけじゃないだろ? 何でもありのルールで殺し合いをやってるとしたら、医者という職業が相当有利であることも間違いないだろうけど、別にそういうわけでもない。悪意を持てば簡単に人を殺せる職業でもあるが、法的にそれを許可するようなことは絶対無いし、そもそも人を殺すために医者になる奴なんてのもいない。相手は素人でも、他の医者の目があるんだ。手抜きで診断するわけにはいかない。この世に絶対的な強者なんていないんだ、ハンプバック。獣医も、医者も、別に普通の人間なんだぜ?」

「違う……。普通の人間は、私を解剖しようとはしないでしょ?」

「ああ、結局はそこに行き着くわけね……」

 ハンプバックは寒さに耐えるように自分で自分の体を抱きながら、こちらを睨むように見上げている。

 一体どうしたものか。実際のところ、俺は医者を弁護するほどの立場にいる人間ではない。何せ、ごたごたがあって一浪の末に医学部を諦めた口である。医者に対するコンプレックスもないわけないし、医療業界へのバッシング記事を見るたびにそれ見たことかと溜飲を下げている。だからこそ、ハンプバックの考え方も、よくわかるのだ。医者に対する不信感や、医者自身の傲慢が気になるなど、それは言わば患者側からすれば当然のことだからだ。

 一度医者を目指した側からの意見として、医者だって大変なのだ、とそれもわかる。人格的に問題があるが腕は確かな医者と、腕に不安は残るが人格的には素晴らしい医者。そのどちらが医師としての適性を持っているのか、と訊かれた場合、倫理的な面からは後者を選びたくなるわけだが、現実問題として、より多くの人を救えるのは前者である。そういう難しさが、医療には付き纏っている。気持ちだけで人は救えない。人を救おうという意志だけで本当に人が救えたのなら、問題はここまで複雑化しなかったはずだ。救おうとしたけれども救えなかったのと、救う気が無かったから救えなかったのと、その二つの結果が等しく見えてしまうからこそ、医者に対する不信が生まれてしまう。信じるしかないという状況に追い詰められているからこそ、病気のことなど何もわからない患者は、視野の狭窄を起こして疑心暗鬼にもなる。

「ま、解剖されそうになりゃあ、致し方なしって部分もあるんだがな」

「でしょ?」

 基本的に、女性は共感型の生き物である。論理的な意見で納得を促されるよりも、相手にわかると言って欲しい場合が多いと聞く。この期に及んでどうでも良いな。

「別に、思想の自由って奴が一応あるから、お前がどれだけ獣医と医者を嫌ってても、誰もそれについて文句は言えない。ただ、獣医って言葉聞いただけでそんな風にパニックを起こすようなら、それは問題だと思うぞ」

「にゃう」

「日本語で呻け」

 だいぶ落ち着きを取り戻したハンプバックが、弱々しく、うな垂れた。

「だけど、そもそも解剖されそうになったってことは、お前、一度はその獣医と正式契約したってことだよな? じゃないと、小人には触れないわけだから」

「うん」

「何でそんな怪しげな奴と契約しようなんて思ったわけ」

「詐欺師は自分のこと詐欺師だって名乗って近付いてなんて来ないでしょ? つまり、そういうこと。獣医も、自分のこと獣医だって名乗っては近付いて来ないのよ」

「いや、それは普通に名乗ると思うが……」

 つまるところ、本質を隠して近付いた、ということだろうか。詳細は非常に気になるところだが、これ以上傷口に塩を塗りこむような真似をしてみても、塩分バランスが崩れるだけで一利なしだ。せっかく落ち着いてくれたようなので、話題を変えることにしよう。そうしよう。えーと、何か、場を和ませるに足る話題ってないだろうか。解剖でもなく獣医でもなく、えーと、物理レポートに没頭することにしようか。いや、でも、結局物理得意な人に頼るのが得策だという結論になった気もするし。

「ツキト、ツキト」

 突然、ハンプバックが尻尾で机を叩いて注意を促した。ふと見ると、充電中の携帯電話ががたがたと不気味に震えている。ポルターガイスト現象に慄くほど文明ボケしたおめでたい人員はここにはおらず、それは電話着信を告げる合図だった。一言で言えば、助かった。話題の転換にこれ以上うってつけのイベントはそうそう無い。電話が一番、来客が二番。三番目以降は、災害とか、小洒落たジョークが続くのだろう。知らんけど。

 が、着信相手の名前は、噂をすればなんとやら、小摩木風花となっている。

 何か、嫌な予感がするんですけど?

「もしもし」

 何事もなかったように、電話に出る俺。肩に飛び乗って、その内容を盗み聞きしようとするハンプバック。完璧なコンビネーションだった。

『あ、もしもし、ツキト?』

 電波を通して、聞き慣れた声が聞こえてきた。それは、ほぼ普段通りの風花の声だったが、若干気だるそうな雰囲気が漂っているのを俺の耳は聞き逃さなかった。付き合いが長いので、わかる。違いがわかる男に、また一歩近づけた。これは、疲れているか、あるいは体調が悪いか、はたまた酒を飲んでいるか、風花がそのいずれかの状態にあるというサインだ。無理をしやすい性格なので、気を遣ってやらなければ、急に倒れたりする。

 ここは、誠意ある対応をせねばならない。

「あー、フウカ、大丈夫か? 何か、調子悪そうだけど」

 疲労にせよ、体調不良にせよ、泥酔にせよ、いずれにせよ、この質問で網羅できるという素晴らしい代物だ。右手に纏わりついてくるハンプバックが極めて邪魔くさいが、意識の外に払いのけて、電話口の向こうからの声に集中する。

『あー、そうなのよ、わかる? スキーのやり過ぎでぐったりしてる上に、風邪気味で生理痛、おまけに二日酔いなのよね』

「今すぐ病院行け」

『大丈夫大丈夫、今、バスの中で横になりながら迎え酒飲んでるから』

「せめて養命的な効果のある酒を飲め」

 良い子のための無駄知識:迎え酒とは、二日酔いの気を発散させるために飲む酒のことである。が、医学的には酔い覚ましとして一切効果がないことがわかっている上、むしろ逆効果だと指摘されている。絶対に、真似しないでね。あと、お酒は二十歳になるまではこっそり飲まないと怒られるよ。

「誰に対するアナウンスなのよ」

 ハンプバックの意見ももっともなものである。小人は基本的に飲食しない。迎え酒などしようもない。よって説明の理由も無い。良い子のための無駄知識、第一回にして最終回。

 そんな俺の思考を露とも知らぬ風花が、電話の向こうから怪訝そうに尋ねた。その内容に、俺は驚愕した。ありえるはずが無かった。


『……何、誰かと一緒にいるの?』


 俺は思わず電話を取り落とし、かろうじてハンプバックが肩の上でそれを支えてくれたので助かった。顔面から血の気が引いた。

「え、な、何で? 別に俺しかいないけど」

 声が上ずる。狼狽せずにいられようか。完璧な、異常事態だ。

『いやいや、別に隠さなくてもいいって。今の声、友達? それとも新しい彼女?』

 からかうような声に、本気の色は無い。その軽さから考えて、風花が酔っているのは間違いない。だが、同時に、風花には、ハンプバックの声が聞こえていたということ、それも間違いない。

「今の声って? 何、フウカには何か聞こえたの?」

 あくまでも俺はしらばっくれる。ハンプバックは身体全体で携帯電話を支えながら、口に手をあてて黙っている。とりあえずお前はもう喋るなよ、と思念だけで伝えて脅しつつ、平静を装う。しかし、一体どういうことだというのか。

『聞こえたの、も何も、誰か完全に喋ってたじゃない。何で隠すわけ? 何か疚しいことでもあんの?』

 風花は追及の手を緩めようとしない。疲労と風邪と二日酔いを名乗る身で、無駄な無理はしないで戴きたいものだが。それは言うだけ無茶な話だ。

「いや、疚しいことは無くは無いんだが、とにかく、フウカ、電話の用件は何なんだ?」

 あからさまに話題を変えたのは、わざとである。風花の性格上、必死になって疑惑を否定するよりも、一部を認めて引き下がってしまった方が、踏み込みに躊躇いを生じさせることが出来る。彼女の基本姿勢は、目には目を、歯には歯を、時には不条理な殴打を、なので、喧嘩腰でかかるのが一番良くない。そのはずだった。

『何、疚しいことがある? まさか、また妊娠騒動じゃないでしょうね?』

 不条理な殴打が来た。しかもレバーブロウだった。さようなら、冷静君。こんにちは、激昂さん。

「ちょ、ふざけんな。人聞きの悪いことを旅行バスの中で喋るんじゃねえよ。明らかに悪酔いしてるぞ、お前」

『だから、言ってるでしょ? もう、ふらふらで死にそうなんだってば。今、朦朧としてて、意識も半分ないのよ、私?』

「だったら本当に病院行けって」

『病院、病院って、あんたねえ、人を妊婦みたいに言わないでよ』

「だから、なんでそんな話持って来てんだよ、今更。自分で自分の傷口抉って楽しいのか、お前は?」

「えええ、じゃあ、ほんとにツキトが妊娠騒動起こしたことあるわけ?」

「うわ、馬鹿、ややこしくなるからお前は喋るなっつってんだろうが」

『ほーら、やっぱ、誰かそこにいるんじゃん』

「ちょ、違うって。これは、ほら、あれだ、腹話術に酷似したエンターテインメントだって。声が遅れたり二重に聞こえたりする奴」

『へえ、じゃあ、帰ったら是非見せてね』

「う……」

 完全に追い詰められた。俺は、無様な自分に呆れ返って溜息をついた。大誤算だった。よもや、ここでそんな話が出てくるとは思わず、いや、俺自身の対応は別に問題は無かったんだが、寄生体であるところのうっかり猫背小人が普通にリアクションを取ってしまうという大失態をしでかしたのである。何が愚かかと言えば、風花にも声が聞こえるとわかった時点で、ハンプバックを電話口から遠ざけておけばそれで良かったのに、黙っておけ、とわけのわからん命令をするだけで、電話持ちとしての役を与えたまま肩の上に居座らせてしまったことである。機転の利かない人間だな、俺も。

 とはいえ、今更小人を遠ざけたところで解決する問題でもない。肩の上のハンプバックを放置したまま、俺はこの場を切り抜けられる言い訳を探した。それが思いつくより先に、電話口の向こうから、呆れたような疲れたような、おそらくその両方を込めた風花の声が届いた。

『あのさ、何度も言うけど、私とツキトはもう、ただのいとこでしかないんだからね? 私に遠慮する必要とか全然無いわけよ。変に気を遣ってもらっても、逆に迷惑でしかないよ』

 痛烈な発言である。思わず、お前が良くても俺が駄目なんじゃボケ、と腕に覚えの無い関西方面訛りの恫喝で返事をしようかとも思ったが、そんな勇気も根性も俺には無かった。何より、誤解を解くという目的を全く果たせそうにないので、不適切な発言と言え、よって却下。上告も棄却。とにかく忘れよう。

「あー、まあ、その、なんだ。その辺の話は、帰ってからじっくりするとしようじゃないか。電話代も嵩むだろ?」

 何を言っていいのか良くわからなくなっていたので、現実的な妥協案でこの場だけを凌ぐことにした。時間さえあれば、対策の一つや二つ立てられるに違いない。

『……うん。そうね。とりあえず、用件だけでも伝えておかないと……』

 言葉尻が窄んでいって、声が途絶えた。それは、ドラマなどで、瀕死の人間が発する最期の言葉にそっくりだった。一瞬だけ、本当に肝を冷やしたが、すぐさま否定する。死ぬほどのものであるはずがない。風花の性格から見て、スキーの滑りすぎ、風邪気味、生理痛、二日酔い、迎え酒の内、半分くらいは冗談か誇張だろう。本当に辛い時は、逆に症状を軽く言って強がるはずなので、すぐにわかる。

「あー、もしもしー、フウカ? どうかしたのか?」

 それでも、数秒間の沈黙が怖かったので、俺は心配になって声をかけてみた。

『もしもし、守矢君? 私、水城だけど、わかる?』

 その声に応えて来たのは、風花ではなかった。風花のサークル仲間であり、俺とも面識のある水城さんだ。俺の所属する農学部応用生命工学科の一つ上の先輩に当たる。何度か芸能界からスカウトの声がかかったと噂されるその美貌と、父親が同じ大学内のある研究室で教授を務めていることから、学科内では有名人だ。風花を介して知り合いになれたことは、幸運だったと言えよう。いや、本当に非の打ち所のないほど綺麗な人なのだ。

「ああ、どうも、先輩。あけましておめでとうございます」

『え、ああ、おめでとう。今年もよろしく』

「で、単刀直入に聞きますが、フウカは大丈夫なんですか?」

『うーん、一応はね。死んだように眠ってるけど、命に別状はないと思う』

 当たり前と言えば当たり前の報告に、安心する。先ほどの風花とは違う水城さんの冷静な声音には、「同い年の先輩」らしいというかなんと言うか、落ち着いた大人の女性の雰囲気があった。

『フウカ、昨日の夜から寝ないでずっとお酒飲んでるのよ。風邪とかは、その、たぶん嘘だと思うけど、疲れも溜まってるだろうし、ふらふらなのは確かね』

「何かあったんですか? フウカがそんなにはしゃぐなんて、珍しいですね」

『うーん、はしゃいでるって雰囲気でも無かったんだけどね。なんていうか、一人だけあんまり盛り上がってなかったけど、ずっと宴会の場で飲み続けてるの。呼んでみても、うわの空で生返事が帰ってくるだけで。他の友達も、近づきにくかったみたい』

「……それは、ツアーの初日からですか?」

『ううん。最初のうちは、普段通りだったんだけど。様子がおかしくなったのは……昨日の夕方に一人で上級者コース滑りに行って、帰ってきてからかな』

「…………」

 もしかすると、これは……。何ともいえない展開になっているようだ。

『守矢君、何か、心当たりでもあるの?』

「いや、よくはわからないですが。帰って来たらちょっと話してみますよ」

『ああ、そのことなんだけど、守矢君、フウカを迎えに東京駅まで来てくれない?』

「は?」

 思いも寄らぬ提案に、間の抜けた声を上げる。水城さんは、申し訳無さそうに続けた。奥ゆかしい人だ。

『東京駅からフウカと方向同じ人いないのよ。心配だから着いて行きたいところなんだけど、ほら、荷物も多いし、やっぱりちょっと大変かなって思って。フウカ自身も、一人で帰れるって言ったんだけど……この様子だから、ね。無理言って守矢君に電話させたのよ』

「あー、そういうことですか」

『ごめんね。用事があるんだったら、別に無理にとは言わないんだけど……』

「いや、行きますよ。フウカのことが心配ですし、ミズキ先輩に迷惑もかけられないですから」

『本当? ありがとう。今から二時間くらいで東京に着くみたいだから、八重洲南口前のロータリーの辺りで待っててくれる?』

 家から最寄り駅までは徒歩で三〇分。そこから東京駅までは、乗り継ぎ二回を駆使しておよそ一時間。都内のマンションとはいえ、日本の中心、東京駅まで行くにはそれなりの時間がかかるのだ。準備に許された時間はおよそ三〇分か。化粧するわけでもあるまいし、問題は皆無と見た。

「わかりました。とりあえず、フウカのことよろしくお願いします」

『ええ、わかったわ。……でも、大変ね、守矢君も』

「いや、別に……。むしろ、俺がフウカに迷惑かける方が多いですから」

『……妊娠騒動の話とか、今度逢った時に教えてね』

「……怒りますよ」

『冗談よ』

 くすくすと笑う水城さんは、本当に冗談だと思っているのだろう。彼女は、俺と風花の関係を少しばかり知っているが、さすがにそこまでヘビーな話は伝えていない。一時期付き合っていたことがある、くらいの把握の仕方しか出来ていないはずだった。あまり思い出したくも無いことを、ハンプバックの隣で思い出すのも癪だったので、俺は最後に思考を逸らしがてら、自分の仮説を確かめることにした。

「ミズキ先輩、ちょっといいですか?」

『うん? 何が?』

 そして俺は、携帯電話を支えてくれているハンプバックの身体を、手探りでまさぐった。やけにすべすべした衣服の感触と、女性らしいしなやかな弾力を楽しむ間も無く、耳をつんざく悲鳴が上がった。にゃーとも、ぎゃーとも、きゃーとも聞こえる、文字には表せないようなそれだった。彼女が身を捩った途端に肩から落ちそうになった携帯電話を右手でしっかりと押さえ、ハンプバックの小言が始まる前に尋ねる。

「今の声、聞こえました?」

『声? どんな? 本当に誰かいるの?』

 やはり、か。これで俺の仮説は一つの確証を得た。だが、しかし、そんなことが本当にあっていいのか? 事実は小説より奇なり、と言うが、どうやらそれは真実だったようだ。個人的には、小説の方が明らかに事実より奇に決まっていると思うのだが。

「いや、やっぱり何でもないです。変なこと言ってすみません。とりあえず、二時間後に東京駅、確かに引き受けましたので」

『うん、ありがとう。今度、何かお礼するね』

「いやいや、それには及びませんって、痛」

『どうかしたの?』

「いや、ちょっと、小動物と戯れていたら噛まれたというかなんというか」

『ふふ、やっぱり守矢君って面白いね』

「いや、それほどでもないですよ。それじゃあ、また今度学校ででも会いましょう」

『うん、じゃあね、また』

 電話を切った。さて、ここからが正念場だ。まずは、

「痛いからやめろっつってんだろうが、このうっかり天然猫背小人めが」

 被害箇所は、携帯電話を持つ右手の甲である。誇張でも何でもなく、流血沙汰になっている。ハンプバックは、両手の爪とそして牙で食らいついて、離そうとしない。左手で無理矢理に小人を引き剥がす。見るも無惨に切り裂かれた傷口から、じわじわと真っ赤な血が滲出している。まさかこんな事態にまで発展するとは思っていなかった。

「悪かったってば。いや、本当に反省してるから」

 左手で捕まえられたハンプバックは、目に涙を溜めながら、拘束から逃れようともがいている。指に噛み付こうとしていたので、慌てて解放した。

「やっていいことと悪いことがあんでしょうが! もう、絶交よ! 契約破棄よ! 鬼! 悪魔! 女性の敵! 小人相手に発情するなんて、何考えてるわけ!」

「いや、発情って……」

「うう、信じらんない。よりによって、ツキトがこんな下衆な人間だったなんて……。私って見る目がないのかしら。電話相手に喘ぎ声が聞こえるように責めたてる、変態的な破廉恥行為に及ぼうとする強姦魔を契約者に選ぶなんて! 妊娠騒動に続いて、今度はこんな……! 最低よ! 人間失格よ! 去勢しなさい!」

「いや、ほんと悪かったって。手っ取り早く大声出してもらおうとしただけなんだってば。別に、他意はないんだよ、他意は」

 皮がめくれていたり抉られていたり、本当に正視に堪えない状況になっている右手をティッシュで押さえながら、俺は本当に後悔した。まさか、ここまでガードが堅いとは思わなかった。夜のご奉仕だの何だの、契約の時にさんざん言っていたし。

「はあ? まさかツキト、それをいやらしい意味に捉えてたわけじゃないでしょうね?」

「え、違うの?」

 おいおい、そんな初心なキャラだったか、こいつは? 意外とオープンだと思ったからこそ安易にボディータッチに走ったわけであって、そんな、性的嫌がらせみたいな意味合いになるようなら、手を出すつもりなどさらさらなかった。

「……いや、そりゃ、勿論いやらしい意味全開だったけど」

「だったら何で今逆ギレしかけたんだ、お前は……」

「いや、ほら、流れ的に……」

 机の上から二段目に、消毒液とバンドエイドが入っていた。前にカッターで指を切った時に救急箱から持ち出して以来、そのままにしてあるのだ。渡りに船とはこのことだろう。

「ツキトはさ」

 少しふてくされたようにハンプバック。力なく垂れ下がる耳と尻尾が、その心理を如実に表している。

「エロ王だから気にしないかもしれないけど」

「いや、何その称号。猫背王ですら嫌なのに、何でそんな不名誉な呼ばれ方になってんの」

「小人にだって貞操観念はあるわけよ」

「……そんな切実に訴えなくても、お前の人間味は充分過ぎるほど実感しているが?」

「かの有名な女体接触論、ツキトだって読んだでしょ?」

「……いや、読むどころかその存在すら許せそうにない書物だ」

「端的に言えば、男性からの不用意な接触を無償で許す女性は繁殖欲旺盛と見なされてもやむを得ないから、それが嫌なら暴力か訴訟で応じろ、というわけよ」

「何それ、すっげー暴論」

「また、女体に対して不用意な接触を取ろうとしてくる不届きな男性は発情して手が付けられなくなっているから、女性が接触に寛容だと繁殖行為を強要してくるわけよ」

「何それ、すっげー虚言、そしてすっげー言葉選び」

「茶化さないで」

「ごめんなさい」

 ハンプバックから漂うオーラに負けて、俺は謝るしかなかった。ギャップは埋まりそうになかった。俺にはどれだけ冗談のように聞こえたとしても、彼女が本当に、生まれた時からそのような観念の元で生活して来たのだとすれば、それを馬鹿にすることは許されないのだ。どれだけ不条理で馬鹿馬鹿しかろうと、それが、小人の倫理ならば。

「ツキト、ひどいよ」

 不用意な発言で他人を傷つけることがある。不用意な行動で他人を傷つけることがある。今の俺が、まさにそうなのかもしれなかった。女体接触論に啓発されているハンプバックにとって、不用意に触れられるということは、自分が淫蕩な女だと見なされていると感じても仕方のない行為なのだ。それは、彼女への侮辱に他ならない。さらに、不用意に女体に触れようとした俺は、繁殖欲に身を任せた汚らわしい獣のように見えたに違いない。自分が契約者に選んだ相手がそんな様子では、自己嫌悪にも陥るだろうし。今思えば、男の身体への妙な執着心も、そういう何らかの事情があるのかもしれない。

 俺の右手の甲は、傷だらけになって、痛みを訴えている。それと同じだけの痛みを、俺はハンプバックの心に与えたのだ。目に涙を浮かべ始めている彼女に、俺は頭を下げた。

「いや、本当にごめん。まさか、触ることがハンプバックにとってそれほどの重要事だとは思わなかった」

「……まあ、その、私も確かに大人げなかったけど。こっちの人は女体接触論を知らないってことを失念して、酷いこと言った気もするし、その点はごめんね」

 大人げ、か。容姿があれなので、ハンプバックの年齢はよくわからなかったが、俺はもう二十歳を過ぎた人間である。分別ある大人として、紳士らしい行動が望まれる歳だ。それが、何だ。仮説を実証するために手っ取り早く大声を出してもらおうと、安易に女性の身体に触れるとは。相手が人間だったら、下手すれば実刑である。大人げないのは俺のほうだ。発想がまるで小学生じゃないか。

「今度から、私が接触を覚悟してない時、つまり、お風呂とか夜のご奉仕とか着せ替え以外の時にむらむら来て触りたくなったら、一声かけてね」

「……は?」

「触りたいって一声かけてくれれば、よっぽどのことがなければ、いいよーって言うから」

「なーんか解せないんだけど……?」

 衣装の襟を気にしたり裾を直したりしながら、普段と変わらぬ目でこちらを見上げてくるハンプバックに、俺は呻くことしか出来ない。

「いや、ほら、やっぱり、非言語コミュニケーションの一つとしてスキンシップが重要であることまで私は否定しないからね。むしろ、大好きだし。挨拶としての抱擁やキスなんて、こっちの世界だって常識でしょ? それに、一緒にいるからには相手の肌の温もりを感じて安心したいっていう感情は、小人にとってはとてもとても自然なことだと思うわけ。私はただ、不用意に触られることが嫌なだけなのよ」

「……それこそ結構、奔放な女性に見えて仕方ないんだけれども」

「それは、ツキトの価値観」

「いや、だってさ、不用意に触ろうとするのは許さないけど、一声かけるだけで許容出来るってのは、繁殖欲旺盛と見なされる人とどれほどの違いがあるのよ?」

「やっぱ、わかんないかな。道徳観の問題だから難しいけどさあ、例えば、生々しい話だけど、恋人同士ってのは、多かれ少なかれ生殖行為に及んでいるわけじゃない?」

「無理矢理オブラートに包んできたね」

「それ自体をはしたないと見なす人ってのはあんまりいないだろうけど、屋外で、衆人環視の元にそういう行為を惜しげもなく晒してる人を見たら、『うわあ、お盛んだこと』とか思うわけじゃない」

「まあ、そりゃ、そうだ」

「でもさあ、結局それって、人が見てるかどうかの違いくらいしかないわけじゃん。前者は、人の見てないところで燃え上がってるからばれてないだけであって、実は人に言えないような破廉恥なプレイに興じてるかもしれないわけでしょ。でも、その人たちは、それを他人に隠しているから、道徳的にあまり問題があるとは思われない」

「何、つまり、お前が不用意な接触に過敏になってるのは、本質的な嫌悪があるっていう理由じゃなくて、淫蕩だろうが淫乱だろうが、それを他人に気取られないための最低限のモラルってこと?」

「ま、ぶっちゃけるとね」

「じゃ、本質としてのお前は、淫乱かもしれないのね?」

「…………」

 ハンプバックの顔が、真っ赤に染まった。耳まで真っ赤に染まる勢いだったが、あいにくと猫耳はふさふさの毛に包まれているため変色が確認できなかった。

「……エロ王」

「何、そのリアクションは……」

 両手で頬を挟んでうずくまっているハンプバックを尻目に、俺はとりあえず右手の傷の手当てを終えた。バンドエイドだらけになって見苦しいが、手袋でもしていけば目立たないだろう。

「ま、ぶっちゃけるけども」

「またかい」

「小人は、繁殖能力が全くないの」

「……変なところをぶっちゃけて来たね、おい」

「根本的に、生物という枠組みに入るかどうか怪しいとも言えるけどね。完全なる無から、気分で生み出されるのが私達。お腹を痛めて子供を産む、みたいなことは全く出来ない。つまるところ、いわゆる生殖行為、繁殖と呼ばれる活動は痕跡として残っているに過ぎなくて、その意味は」

「純粋な快楽の追求でしかない、と」

「ザッツライト」

「……何の真似なの、それは?」

「だからさ、ほら、わかるでしょ。貞操観念ってのが、どれだけ重要であり、同時にどれほど形骸化しているか。自らを律することが出来るかどうか、問題は全てそこに集約されている。滝の下の国では、最近の風潮として、性は取引の材料の一つでしかないからね。女性は男性を、男性は女性を愉しませることが出来れば、それは個人の存在価値が認められたということに他ならない。テクニック一つが死活問題に関わってくると言っても過言ではないわね」

「殺伐とし過ぎだろ、それは」

「強姦なんて日常茶飯事だからね。抵抗して逃げられるか、逃げられないようなら抵抗を諦めて許容するか、それとも抵抗した振りを続けて相手の欲望を満たしながらその実許容するか、あるいはいっそこちらも愉しむか、会敵から一瞬でそれを判断しないといけない。選択を誤ると、待っているのは死よ」

「……お前もそういう世界を生き抜いて来たのか」

「自慢じゃないけど、私はほとんど狙われなかったわよ。獣のパーツが付いてる小人は病気持ちだっていう噂を流したもの。全くのでまかせなのに国中に広まってやんの。あはは」

「笑えねえよ」

「何でよ。言っとくけど、ほんとに病気なんて持ってないからね」

「いや、そういう意味じゃなく。そうまでしないと身の安全が保証されないっつう環境がな……。コメントのしようがないが」

「まあ、そんなわけで、向こうにいた時は相手してくれる人が少なくて、私は比較的欲求不満になりやすかったわけで」

「生々しい話をするな」

「純粋に快楽のためだけに繁殖行動をとっているという点から考えて、人間に比べて小人の方が概して性欲は強いかと」

「……ああ、そういう結論なんだ」

「ま、私は小人の中でも結構上の方だと思うけど」

「さらりと凄いことを口走ったな」

「夜中に私の喘ぎ声で起こしたらごめんね」

「直球で下ネタか。恥じらいはゼロか」

 まだ頬の熱さを確かめているハンプバックは、それでも少し落ち着いた様子で、はにかむように笑って見せた。よくわからない居心地の悪さを感じて、俺は視線を逸らす。

「あーあ。カミングアウトしたら何か楽になっちゃった。ツキトもおいおい、その野獣の如き性生活について教えてね」

「野獣の如き、は余計だ。ま、いずれ、機会があればな」

 野獣、か。もしかすると、それ以下かもしれない。少なくとも、自己嫌悪の対象となるくらいには、俺は自分のそういうところが嫌いだった。

「エロ王」

「やかましい。とりあえずハンプバック、俺が満身創痍になりながらも確かめた仮説、お前も気付いてるか?」

「満身創痍? 手の甲擦りむいただけじゃん」

「気付いてないようだな」

「うん」

 以心伝心とまで行かない、この中途半端な伝達様式がもどかしい。とにかく、それは東京駅に向かう途中で説明すればいいことなので、ひとまず出かける準備をしよう。三〇分の余裕があるからと言っても、バスの到着時刻が概算でしかないので、もっと早く着く可能性もある。早く家を出るに越したことはない。

「ハンプバック、そんなわけで、契約後初の遠出だ。準備はいいか」

「うん。フードつきのコート羽織ってね。私、フードの中に隠れるから」

 諸々の準備を済ませて、俺withハンプバックは慌しく家を出た。手袋の下で、引っ掻かれた傷が疼いた。


 最寄り駅から各駅停車の電車に乗り込んで、車両の隅の座席に腰を落ち着けた。ハンプバックの言によると、周囲を歩く人々の中には、ちらほらとだが確実に、下級小人に強制契約された人間がいるらしい。一月四日。まだ今年に入って四日しか経っていないのに、守護小人ランキング決定公認バトルは着々と準備が進められているのである。俺達も負けていられない。

 とにかく、だ。俺は、頭の中を整理し、一旦仕切りなおした。これからは、思考でハンプバックと会話しなければならない。ハンプバックの声は誰にも聞こえないため、俺が声を出せば、完全に俺の独り言になってしまう。携帯電話を取り出して電話相手と話しているようにカモフラージュすることも可能ではあるが、さすがに電車内では憚られる。モラルを気にする人間なのだ、俺は。

「何でもいいからさあ、早く仮説ってのを聞かせてよ。もったいぶらずにさ」

 背中に垂れ下がっているフードの中でごろごろしながら、やけに態度のでかくなっているハンプバック。俺が周りの目を気にして大きく出られないのをいいことに、好き勝手に動こうという腹黒い魂胆である。そのしたたかさは、知人から嫌われる人間像の最たるものとして俺の目に映っていたが、おそらく滝の下の国で過ごした小人ならば誰しもが持っている部分なのだろうと思う。だからと言って、簡単に許せるほど、俺は人間が出来ていない。椅子の背もたれに体重をかけ、あわよくばフードごと中身を押しつぶそうと体勢を変える。

「にゃ! ちょっと待って。痛い痛い。ほんとに洒落にならないって。ちょっと、ツキト、妊娠しちゃうってば」

 するか。どこの国のジョークだ、それは。

 とりあえずある程度懲らしめるだけで満足した俺は、体勢を引き戻しつつ、窓の外を振り返って見た。電車は駅を出発し、レールの上をひた走っている。本題を切り出すタイミングをこれ以上見計らっていても、特に何か起こりそうもなかったので、俺も見切り発車で話を始めた。

 さっき、風花が電話してきた時に、お前の声が風花にも聞こえてたよな?

「うーん。明らかにそんな感じの受け答えはあったけど、ほら、あの獣医の卵、酔っ払ってたんでしょ? 偶然、私が喋った時に幻聴が聞こえただけなんじゃないの?」

 そんなありえない説明で納得出来るわけないだろう。あと、その敵愾心に満ちた獣医の卵という呼び名はやめようや。

「じゃあ、なんて呼べばいい? まだ親しくもないのに名前で呼ぶのはどうかと思うし」

 いや、風花って呼び方でいいんじゃない? 誰も気にしないだろうし。

「んじゃ、念のためにフウカさんって呼んでみるわ」

 何、念のためって……?

「で、彼女に私の声が聞こえてるかもしれないって言うけど、それがどうしたの? 私としては、たぶん、偶然そんな風なやりとりになっただけだと思うんだけどなあ」

 確かに万に一つくらいの確率でその可能性も否めないが、状況から考えて、あれはハンプバックの声が聞こえていたとしか思えない。一度ならず二度までも、的確に反応を示していた。

「じゃあ、もしかしてフウカさんって霊感とか強いタイプじゃない? ごくまれに、いるのよ。私達の存在をナチュラルに感知しちゃう連中が。で、それを幽霊と勘違いして騒ぎ立てたりする場合もあるし」

 霊感、か。風花は、悪いがそういうものは一切信じないし興味もない。昔から、徹底的なリアリストだった。だからこそ、俺達の関係は破局を迎えたわけだし。と、それは今あまり関係ないが。

「だったら、一体何だっていうわけ? 何で声が聞こえたのよ」

 最初は、俺も複雑に考え過ぎた。もしかしたら、電話を通せば小人の声が一般人にも聞こえるのかとまで思って、ハンプバックに大声を上げさせたのだから。結果として、水城さんには全く聞こえていないらしいことがわかって、俺は確信した。風花の様子がおかしい理由と、小人の声が聞こえる条件ってのを考えれば、一目瞭然だった。ただ、あまりにも荒唐無稽な気がして、ハンプバックですら思いつかないだけで。

「……私ですらっていう言い方は気になるけど」

 まだわからないのか?

「だって、どうせ教えてくれるんでしょ?だったら、考えるだけ無駄じゃん」

 俺は、思わず苦笑した。それを咳で誤魔化しながら、脳内で告げる。

 風花も、何らかの上級小人との正式契約者だってことさ。

「……………………」

 間があった。

 俺は、その後におそらく繰り出されるであろう、「ええええええ」という類の感嘆の声に備えて覚悟を決めた。鼓膜をもって行かれるかもしれないが、耳を塞ぐわけにはいかない。電車内でそんなことをする奴を俺は見たことがないからだ。

「ええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 案の定、来た。わざわざ頭の中で俺が警戒をしていることを伝えているのだから、遠慮してくれてもいいだろうに、小人はあくまでも自分の欲求に正直だった。きーん、と耳の奥が鳴っている。本当に、勘弁してくれ。

「ええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 嫌がらせだろう、それはどう考えても。

「二回目は間違いなく」

 正式契約者を何だと思ってるんだ、お前は。

「おもちゃ――ああ、嘘嘘、嘘です。潰さないで、背もたれで潰さないで。助けて、ご主人様、ご主人様!」

 その呼び名も止めろ。

「はい」

 とりあえずの静寂が戻って来る。電車の揺れる音が余所余所しく、他人事のように響いている。雑然と、八両編成の電車は空席の目立つ昼時の空気を内包してのんびりと進行を続けていた。非日常に片足を突っ込んだ俺だけが人知れず浮いている。

「あのさあ、ツキト」

 何やら、感慨深げに呟くハンプバック。

「確かに、何らかの上級小人の正式契約者が他の属性の上級小人の声も聞こえるって解釈は、正しいよ。状況的に、何ら矛盾するところもない。でもさ、たったの一〇八人しかいないんだよ、正式契約者は。全世界、六十億人くらいいる中の、一〇八人だよ。日本だけに限ったって、一億人の中の一〇八人って相当少ないでしょ? 宝くじで百万円以上当てた高額当選者の数すら、一年間でもっと多いんだよ? 何が言いたいかわかる?」

 確かに、確率的には、ありえない話と切り捨てられても文句は言えない。俺は宝くじで高額当選したことなどさらさらないし、また、知り合いの中にそんな経験を持つ者もいない。俺が正式契約者になり、隣人の風花も正式契約者になるという確率は、二人が一年の間に宝くじ百万円以上を当選させる可能性よりも低いということだ。だったらむしろ百万円を当選させていただきたかったという本音はさておいて、果たしてこれが現実的な仮説として真面目に考えるべき事柄なのかどうか。判断は難しいところである。

「少なくとも、私はこっちで他の上級小人に会ったことはないわ。夢の淵の本部で会うことは当然あったけど。半径何メートルだったか以内にまで近付けば、どんな小人が近くにいるか把握できるはずだから、そういうニアミスすらしたことないってことがどれだけ小人同士の遭遇が珍しいかをそのまま表していると言えるんじゃない?」

 俺に、反論の余地はない。確率が低い、ということは否定のしようがないからだ。

 だが、ここでどれだけ考えても机上の空論であると言わざるを得ないが、風花の異変の様子を聞くにつけ、旅行中に何かあったとしか思えず、その何かというのがまさに、上級小人との契約だったのだとしたら、全て説明出来る気がしてならないのだ。低確率ということにしても、確率がゼロでない限り否定する材料にはなりえないはずだ。

「それにしたって……。あまりにも都合よすぎない? ドラマじゃないんだから……」

 存在自体がドラマみたいな奴にそんな身も蓋もないことを言われるのもどうかと思うが。

「でもなあ、ほら、もし仮にそうだとすると、私は獣医の卵だけじゃなく、他の小人と常にニアミスしながら暮らさないといけないってことになるでしょ……? それを思うと、やっぱ是が非でも否定したいわけよ」

 獣医の卵はおいといて、お前、他の小人と仲悪いのか?

「良くはないわね。基本的にライバルだから、あんまりべたべたしないってのもあるけど、おかしな奴の方が多いからあんまり付き合いたくないというか……」

 それは、猫背の守護小人が言っていいセリフとは思えないが。

「まあ、何人かとは顔見知りだし、普通に喋れるから、そういう人達の正式契約者であることを願うしかないわね」

 とにかく、ここでどれだけ考えていても答えは出ない。東京駅に着けばわかることだ。風花が本当に何らかの属性の小人と契約したのか、それとも、全くの杞憂に過ぎず、ただ単に酔っ払って幻聴を聞いていただけなのか。どちらかと言えば、後者の方が重症である気はするが、前者が厄介であることは俺にも否定出来ない。

「で、話を逸らそう逸らそうとしてここまで来てるわけだけどさあ、ツキトとフウカさんって結局どんな関係なの? 妊娠騒動って何?」

 さて、そうこうしている内に、一度目の乗り換えである。俺は、乗り換えのことをしっかり考えて電車に乗るタイプなので、ちょうど階段の目の前に来る車両を利用する。勿論今日もその例外でなく、降車側の窓には見慣れた下り階段が口を開けていた。特に重要なものも入っていないがとりあえず持ち歩いているお気に入りの鞄を肩に下げ、俺は立ち上がった、駅名を告げるアナウンスに続いてドアが開き、身を切るような一月の風の中に、足を踏み出す。あまりの寒さに思わず肩をすぼめる。電車の中は、どう考えても暖房が効きすぎだ。この寒暖の差には何らかの陰謀を感じないでもないが、面白いことを思いつかなかったので、ひとまずその説は置いておこう。

「あのー、もしもし、ツキト。そうまでして話を逸らすだけのメリットがあるのでせうか?」

 旧仮名遣いで尋ねる小人。いとをかし。

 エスカレーターには、右側を空けて乗る。そうそう、そういえば、このエスカレーターで歩く人のために右側と左側、どちらを空けるかというのは、地方によって違いがあるのだというもっぱらの噂だ。関東では右側を追い越しのために空けるが、関西地区では左側を空けて、皆右側に並ぶのだという。世界的にみても、左側を空けるのが一般的で、エスカレーターで右側を空けるのはオーストラリアと日本だけだと何かで聞いたことがある。そもそもこれは、車の追い越し車線の考え方で説明されるのではないかと俺は思うのであり、関西地区は大阪万博の際にエスカレーターのグローバルスタンダードが自然に身についたという話があったので、それ以外の地域では日本の左側通行、そして右側が追い越し車線という流れを踏襲して、今のような状況になったのではなかろうか。こうした身近なところにも、文化的な背景が見え隠れするというのは、非常に興味深いところだよね。

「だよね、じゃない」

 フードの中で立ち上がって、ハンプバックが首筋を引っ掻いた。

 痛いな。やめろよ。暴力は何も生み出さないって、誰か、偉い人が言っていたぞ。

「知らないってば。早いところ白状しちゃいなよ。そんなに隠したいの……? そりゃあさ、まだまだ私だってツキトの恋人としてまだまだ至らないところもいっぱいあるけど」

 誰が恋人だ、誰が。寄生体だろうが、お前は。お前を恋人だと思い始めたら、俺はたぶん病気だ。色んな薬を飲んで、前後不覚になったり身体をぼろぼろに痛めつけたりするから、よろしく。

「興味本位だって言われればそれまでだけど、やっぱり気になるよ。ツキトと獣医の卵の間で、どんな波乱万丈があったのか」

 思わずまた獣医の卵って呼び方になってるところから、明らかな本音が垣間見えるな。

「で、どうなのよ」

 話せば長くなるんだが、仕方ない。東京駅に着くまでの間、都合の悪いところを省略して掻い摘んで説明するけど、それでもいいか。

「うーん、あんまり良くないけれども、とりあえず話して欲しいので、良し」

 ホームに出るために階段を上りながら、俺は頭を掻いた。

 言っておくが、今のところこの話は、俺と風花の間での秘密ということになっている。両親も知らないし、どんな親友にだって言ってない。そんな中、お前に言うんだ。いいか、ハンプバック。これがどういうことか、わかるか。

「私はそれだけ特別な存在だってこと?」

 ポジティブだな、お前は。とりあえず、お前の声が他の人間に聞こえないから暴露するっていう理由も確かにある。絶対に、他の誰にもばらすなってことだ。特に、風花はお前の声が聞こえるみたいなんだ。俺がお前に秘密を喋ったってことを悟らせるんじゃないぞ。

「……わかった。うっかり喋るかもしれないけど、極力気をつける」

 うっかりしないように極力気をつけてください、本当に。

 で、だ。俺と風花の間に何があったのか。端的に言えば、昔付き合ってたけど、俺がフラれて、そのショックで大学受験に失敗した、という感じだ。

「それは何となくわかる。妊娠騒動ってのは?」

 そのままだ。高校三年の夏頃に、風花の妊娠を巡って一波乱あった。それが破局の直接の原因だ。

「うわー、お盛ん。一番身を委ねてはいけないものだよね、十代の性衝動って」

 知った風な口をきくなよな、本当に。色々あったんだ、俺達は。以上。

「終わり? ……やっぱり、詳細が気になるんだけど」

 思った以上にコンパクトに纏まったからな。順を追って話すとするか。

 まだまだ、一度目の乗り換えを終えたところである。東京駅までは四〇分ほどかかる。

「ほらほら、悩んでるんでしょ? フウカさんのことで。相談に乗ってあげるから、お姐さんに話して御覧なさい」

 お姐さんって言えるほど頼りになる存在でもなかろうが。まず、お前何歳だよ。

「……確か、設定年齢は二四歳よ」

 設定……?

「ほら、小人って無から生まれて来るから、生まれた時から同じ格好なの。で、そこに年齢が設定されていて、精神年齢とか性格とかも、その辺りから派生してくるわけ」

 ゲームのキャラクターエディットみたいなものなのか。随分と不可思議な生態である。確かに、これは生物という枠組みから逸脱していると見て間違いなかろう。二四歳って言ったらもう、良い大人じゃないか、と思ったりもしたが、それには触れないでおいた。

「しっかり触れてるけど? 子供っぽく見えるって、昔からよく言われてたなあ」

 性格以上に、その容姿のせいもあるのだろうと思うが、気にしているかもしれないので、それには触れないでおいた。

「ツキト、わざとやってる……?」

 勿論だったが、違うことにしておこう。次の乗り換え駅では、ホームの端に出口があるので、電車内を歩いて先頭車両に向かう。こうした地道な努力がどこかで身を結ぶ日がきっと来るはずだ。

「どうでもいいからさ、早く教えてよ」

 首筋に爪を突きつけて脅しをかける極悪猫背小人。俺はそれに屈した。

 そもそも。

 俺と風花の関係を説明するためには、守矢家と小摩木家の関係から説明せねばなるまい。

「何何、由緒正しい主従関係とかあるの?」

 いや、それはない。今でこそ親戚関係にあるこの二つの家は、一代前までは家族ぐるみの付き合いをするお隣さんでしかなかった。もっとも、住所は今の守矢家、小摩木家のある高級マンションとは全く違う一軒家なんだがな。

「へえ。それって、ツキトとフウカさんの件となんか関係あんの?」

 大有りだ。後でわかる。

 とにかく、だ。わかりやすい様に実名を出して説明すると、一代前の守矢家は四人家族。父:森杉、母:清瀬、長男:守、長女:安茂里、という構成でお送りしていた、仲の良い一家だったらしい。その一方、一代前の小摩木家も四人家族。父:畔麿、母:笙子、長男:彦馬、長女:真樹という守矢家と非常に似通った構成でお送りしていた、これまた仲の良い一家だったらしい。この二つの家は、隣同士だったことと、長男、長女がともにお互い同学年だったために学校行事で一緒になる機会が多く、家族ぐるみでの付き合いが続いていたわけだ。守、安茂里、彦馬、真樹の四人は、まあ、いわゆる幼馴染だから、かなり仲良くて、いつも一緒に遊んでいたわけだよ。

「……幼馴染って、居るところには密集して存在してるものなのね」

 お前、まだ幼馴染が実在しないとでも思っていたのか……? ともかく、ここからは俺もあんまり詳しくないんだが、いつも仲良く遊んでいた幼馴染の兄妹同士の関係が、ある時微妙に狂い出すわけ。何でかわかる?

「恋愛沙汰に発展するってこと?」

 その通り。彼らも例に漏れず、相手を異性として意識し出してしまったわけ。守矢守は小摩木真樹を、小摩木彦馬は守矢安茂里を好きになったわけだけれど、お互い、親友の妹だからと遠慮してなかなか口に出せない。妹二人も、お互いの兄二人に惹かれていて、二人できゃあきゃあ言いながら話し合ってはいたんだけど、本人に伝える勇気はない。誰かが口火を切れば何のごたごたもなく済む話なのに、内向的な彼らは、一歩を踏み出すことが出来ぬままにぎくしゃくと三年くらいを過ごしたらしい。

「気の長い話だこと」

 で、均衡が崩れたのは兄達が高校三年生、妹達が高校一年生の時。安茂里が思わず、兄である守に、暴露してしまったらしい。自分が彦馬のことを好きで、また、親友である真樹が守のことを好きである、と。何で急にそんな風に暴露したのか、父さんは詳しいことを言ってなかったけど、たぶん安茂里叔母さんに酒を飲ませたんだと思う。昔からよく親に隠れて飲んでたって言ってたし、安茂里叔母さん、お酒飲むとお喋りになるし。

「……なーんか、だんだんわかって来た予感」

 まあ、これからはとんとん拍子だよね。守は、お目当ての真樹が自分のことを好きだと知って狂喜乱舞、また、妹の恋を成就させてやろうと親友の彦馬にそれとなく探りを入れると、彦馬も安茂里のことが好きだと判明。ここに目出度く二組のカップルが誕生したわけだ。守矢守と小摩木真樹。小摩木彦馬と守矢安茂里。

「それが、今のツキトとフウカさんの家、守矢家と小摩木家になるわけね?」

 そう。この二組のカップルには、家族の誰も反対しなかったらしい。それはそうだろうね。どこの馬の骨とも知らない奴を嫁にもらったり、どこの馬の骨とも知らない奴に娘を嫁がせたりするよりか、勝手知ったる隣家の人間が相手の方が親としても安心出来るだろう。たぶん家族は、カップルが実際に成立するより前に、四人の微妙な関係に勘付いていただろうしね。かくして、四年間の交際の後、兄の方二人の大学卒業と同時に――まあ、この時には既にベンチャー企業を起こしていたらしいけど――晴れてゴールイン。兄妹がお互いに結婚するという、強固な親戚関係がここに築かれたというわけさ。

「……まあ、それなりに良く出来たストーリーね」

 それはどうも。ここまではおそらく、何の問題も無いただのラブストーリーなんだと思う。少しだけ様子がおかしくなるのは、この先。俺と風花が生まれた辺りからだな。

「様子がおかしくなるってのが、よくわからないのよ」

 まあ、普通に考えたらおかしくなる理由は無いからな。ともかく、守矢家と小摩木家が今のマンションに移ってから、同い年の子供が生まれた。守矢月鳥、つまり俺と、風花こと小摩木風花だ。何の因果か、この二人も、幼馴染ということで、とてもとても仲良く、すくすくと健康に育っていくことになるわけだ。

「世代を越えて似た様なことやってるわけね、君らは」

 いや、それが、だな。ここからがとてもとても言い難い話になって来るんだが。

「ほう、是が非にでも聞かせてもらうわよ。どんなに隠そうとしたって、深層心理まで勝手に入り込んで、絶対に突き止めちゃうから」

 俺、お前が時折悪魔に見えることがあるんだ。

「眼鏡でも買ったら」

 残念。視力にだけは自信があってね。守矢の家は代々目がいいんだ。逆に小摩木の家は代々目が悪くて、その特徴を折半したはずの俺と風花の世代でも、何故かその形質は予想通りに遺伝してしまったという皮肉な話があったり無かったり。

「え……じゃあ、やっぱり獣医の卵は眼鏡かけてるわけ? 獣医と言ったら、白衣と眼鏡だもんね」

 おい、トラウマを再発させるんじゃねえぞ。それに、風花は普段コンタクトレンズ着用で、ほとんど眼鏡なんてかけない。不意にかけてくると、結構どきっとしたりするが、それはまあ、おいておこう。

「……あー、そういう、ね。あるある、ツキトはそうか、眼鏡か。前の宿主の元で色々学んだから、知ってるよー。つうか、たぶん、私も自分用の持ってるよ。かけてあげようか?」

 猫耳、猫尻尾、眼鏡。

 ちょっとそれはあまりにもあれなので、さすがにやめておこうや。

「……本当は見たいくせに」

 まあ確かに、色んな意味で見てみたい気はするが、人間として駄目になりそうなので、遠慮しておく。

「で、その目の悪いフウカさんと、一体何があったというわけ?」

 急に話を戻せといわれてもなかなか難しい。結構な覚悟が必要だった。

 丁度、二つ目の乗換駅がやってきた。しかし、こんなにも周囲の状況が目に入って来ない旅路は初めてである。普段から、電車内では読書に没頭するタイプなのであるが、それにしたって駅を幾つ通り過ぎたのか全く気付かないほど没頭することはありえない。

「ま、今日は不慣れな私との会話をこなしながらってことだと思うけど、最低でも一ヶ月以内に、周囲の状況をしっかり把握しながら、同時に私と脳内で会話することをマスターしてもらうよ。どちらが欠けても、勝率七五パーセントはありえないからね」

 ハンプバックが、フードの中から声をかけてくる。これは、思った以上に難しいかもしれない。漠然と、いつも通りの行動をしている分には、ハンプバックと会話しながらでも普段のように動くことが出来る。例えば、乗り換え慣れた駅で、何番線ホームに行けばよいのか一々考えなくても、自然と足がそちらに向かうし、階段で躓くこともなければ通行人にぶつかることも無い。しかし、確実に注意力は減じているのだ。例えるならば、携帯型ミュージックプレイヤーで音楽を聴きながら歩いているような状態だ。常に鳴り響く音楽に耳を貸せば、その分だけ、周囲への注意は散漫になる。周囲へと注意を戻せば、音楽の印象が薄まってしまう。双方へ均等に意識を向けるのは、非常に難しいと言えよう。

「普段、自分が置かれた状況を意識することってあんまりないと思う。例えば電車を待っている時に、あと五分で電車が来るっていう状態から実際に電車が来るまで一秒刻みで数えて、今電車が来る何秒前なのか、それを把握するなんてこと、普通はありえない。でも、無意識の内に考えているから、電車を待っている途中で誰かに、あと何分で電車が来ますかって訊かれたら、それなりに正解に近い答えを教えてあげることが出来るはず。そのレベルでも構わない。漠然と、ただ見るだけ、聞くだけ、嗅ぐだけ、味わうだけ、感じるだけでは駄目。意識して。一度でも良いから。そこで何が見えたか、何が聞こえたか、何が嗅げたか、何が味わえたか、何が感じられたか。時折、五官を外に開く感じで」

 いや、まあ、そうしたいのは山々なのだけれども、例えば今みたいな長いセリフを聞くと、その内容の把握のために意識が割かれてしまうわけで。二つ以上のことを同時に考えると、やはりどちらかが疎かになる。

「だから、その切り替えを上手くやれってことよ。ツキト、瞬きの前と後であまりに状況が違ってて困惑することって絶対にないでしょ? その瞬きの時間を限界まで長くする感じ。私の声を聞く時は、それを上手く駆使して」

 やれやれ。無理難題を押し付けられたような心地である。

「ま、今はまだ気楽にね」

 フードから肩によじ登り、ハンプバックが右肩の定位置に腰掛けた。

「いやはや。やっぱり、都内は人がいっぱい居るもんだね」

 いや、一応俺の家も都内なんだがな。

 ハンプバックは、やたらともこもこしたファーのついた真っ白いコートを着こなして、いつもより一回りほど大きくなって見える。

「都会っぽくないじゃん、あんまり」

 悪かったな。都民であるだけで意外と偉いんだよ。

「東京駅まで後どのくらい?」

 二〇分あるかないかくらいだな。駅についてからも少し歩くことになると思うけど。

「その間に、クライマックスをしっかり話し切ることが出来そう?」

 どうだろう。説明の仕方によるかも知れない。

「ほら、じゃあ、早速続きを話してよ」

 その前に、フードの中に戻れ。

 俺は、もそもそと移動を開始するハンプバックを見送って、頭の中で構成をまとめた。丁度電車がやってきたので、何も考えずに乗り込んだ。東京駅の構造にはあまり詳しくないので、よく行く出口と目的地の違う今日は、何両目に乗ればいいのかわからないのだ。環状線は、さすがに正月の昼間からそれなりの人ごみだった。

「着物姿の人がいるね」

 初詣の帰りとか、まあそんな感じだろうか。そういえば、いつからか、初詣に行かなくなった。神頼みをやめたというべきか、それとも単にものぐさになったのか。昔は、家族ぐるみで、風花の家と一緒に出掛けたこともあったのに。

 昔から、俺と風花は、とにかく仲が良かったのだ。

「まあ、両親がお互いに幼馴染だもんねえ」

 幼稚園からずっと一緒だった、どころの騒ぎでなく、生まれてからほとんどずっと一緒にいたのだ。一緒にいるのが当たり前、の世界だ。本当に、空気みたいなものだ。自分の記憶を探ってみても、風花のいない光景など、ほとんど存在しない。両親が一緒に働いてるということもあって、俺達二人はまさに姉弟のように育てられた。というか、もう、それ以上だ。二人まとめて一人であるかのように育てられたと言っても過言ではない。どんな時でも一緒にいる。

 無邪気でいられた頃が、一番楽しかった。幼心に、疑ったことすらなかった。お互いに、将来結婚することになるんだろうと思い込んでいたし、事実、俺は風花が大好きだった。風花も俺が大好きだった。ファーストキスは幼稚園。笑えるだろ。それが、本当に本気だったんだ。

「なるほどなるほど。思春期に入って、お互いにお互いを異性として捉える様になってから、状況が一変するというわけね?」

 ……いや、その、まあ、なんだ。

 普通は、そうなるのだろう。普通の幼馴染、あるいは普通のいとこであれば、そうなるのだろう。が、俺達は、普通でなかった。幼馴染であると同時にいとこであり、二人一緒にいるのが当然の間柄だった。はっきり言おうか。ここからは、ちょっと禁断気味な世界が垣間見えるが、それでも聞きたいか?

「……勿論。私、そういう話大好き」

 そうか……。まあ、そうだと思ったけどな。たぶん、それが小人のスタンダードだと思うんだがな。これは、今まで、誰にも言えなかったことなんだ。本当に。

 小学校中学年くらいになると、二人の両親が共に遅くまで帰って来ないってケースが増えた。良い子で待っていられる歳になった、と判断したんだろう。夕食は守矢家のテーブルの上。ラップをかけて置いてあった。七時になったら、それをレンジで加熱して二人でテレビを見ながら食べる。皿洗いは、じゃんけんで負けた方。勝った方は、皿を拭いて棚に戻す係。戸棚の高いところには手が届かないから、椅子に上って背伸びして……。今でも鮮明に覚えている。性の目覚めの瞬間、とでも言えばいいのかな。見えたんだよ、風花の下着が。俺は偶然しゃがんでいて、風花は椅子の上で背伸びしていた。別に、覗こうとしたわけじゃなかったんだ、たぶん、その時は。あの、わけのわかんない胸の高鳴りを、俺はどう表現することも出来ない。まるで、吸い寄せられるかのように、視線が動かなかった。別に、下着なんて、毎日見てたんだよ? その頃は、まだ一緒に風呂に入ってたし。でも、確かにその瞬間だった。そのアングルから下着を覗き見た瞬間、俺は大人の階段を一つ上ったんだと思う。

「なんか、小学生の下着覗いて興奮してるのが今のツキトみたいに思えるせいで、犯罪的なものを感じてしまうんだけども……」

 いや、頼むから、それはやめて。俺にはそんな嗜好は無いから。いや、本当に。そういう意味での禁断では決してないから。

「で、そこで初めて相手を異性として意識したわけよね? それからどうなったの」

 ……風花にばれた。

「ご愁傷様」

 翻るスカート越しに目が合って、顔を赤くした風花が、馬鹿とかエッチとか何か呟いたまま黙っちゃうんだ。勿論、その時には、もう裾を手で押さえていた。なんか、それが凄く可愛かった記憶がある。

「ごめん、またツキトが小学生に対して欲情している構図が見え隠れしてる」

 追い払え。断固としてそれは否定するぞ、俺は。

 とにかく、俺としては、自分が破廉恥行為をしたという自覚はあったわけだから、すぐに立ち上がって、謝ったわけ。悪気は無かった、みたいなことを言って。

「それで?」

 風花は、怒らなかった。その後も、普段と変わらなかった。一緒にテレビを見て、宿題をして、お風呂に入って、両親が帰宅したら、隣の家に帰って行った。

 あの頃の風花は、まあ、今よりももっと姉貴面をしていた。数ヶ月の差とはいえ、向こうが先に生まれたことには違いないんだけど。だから、俺は絶対に怒られると思っていたんだ。けれど、怒られなかった。

「ははーん、それで、野獣のようなツキトは、それ以降、洗い物のたびにスカートの中を覗くという、確かに他人には言えないような行為に及ぶわけね」

 そうなると思うだろ? 幼さゆえの性への好奇心という観点から考えれば、きっと、そうなるのが自然だった。そうなっていれば、ここまで重症化することもなかったのかもしれない。けれども、俺達は異常だった。俺達にとって普通であることは、やはり、今思えばどこかおかしかった。

「どういうこと?」

 俺も風花も、ステップを踏まなかった。実は、順序が既に逆だったんだ。

「だから、どういうことよ」

 俺が下着を覗いてドキドキしていたその日、いや、その日どころか、そのずっと以前から俺達が密かに楽しんでいた遊びがあった。それは、俺達にとってはあまりにも自然なことだったから、いつ始めたか覚えていない。

「……ああ、あれか。お医者さんごっこ、みたいな?」

 そうなるかな。俺達としては、おままごとのつもりだった。

「まあ、でもそれってそんなに不思議なことでもないんじゃない? 推奨していいのかどうかよくわからないけど、子供時代のエロ体験として、結構みんなやったことあると思うけど。ああ、勿論私はやったことないけどね」

 正常か異常かの判断は、そのお医者さんごっこってのがどの程度のものなのかによると思うがな。何か、こんな公共の場で考えるような内容じゃないから今は詳しく触れないけど、とにかく俺達の異常さは、一目瞭然だ。

「具体的に何をやってたわけ?」

 いや、もうまさに、やってたわけよ。

「…………はい?」

 まず、学校が終わるわな。学校から帰るのは風花と俺でばらばらだ。というか、小学校ではべたべたしたりしなかった。一見すると普通の友達だったと思う。いとこであることさえ知らない人が多かったんじゃないかな。避けていたわけでもなくて、ただ、必要以上に仲良く見せるメリットがないと思ってた。お互いに。誰が誰を好きで、みたいな色恋沙汰で騒がれることもなかったし、平穏な学校生活だったよ。

 で、帰宅と同時に様変わりする。守矢家に二人が揃った時から、おままごとがスタート。玄関で相手を迎える時に、抱き合いながらキスをする。照れも何も無い。恥ずかしさも何も無い。ごくごく自然に、そうやって始まるんだ。

「……その、背徳感みたいなのが無いことが問題なのよね、たぶん」

 そして、服を脱がしあう。

「……ハイレベルな遊びね」

 お互いに裸になったら、寝室から毛布を持ってくる。一つの毛布に二人でくるまって、居間のソファの上でテレビを見る。相手の肌の温もりを感じながら、ドラマの再放送とか、子供向けの教育番組とかを、楽しむわけだ。で、ドラマなんかでは、時折、濡れ場と呼ばれるラブシーンが入ったりする。

「ま、まさか、その真似を……?」

 してもおかしくないだろ。本当に、何の羞恥心もないんだから。ベッドの上で裸で重なって、毛布の中はどうなってるのか、そういうの気になるだろ、やっぱり。

「……気になってもおかしくないけど、毛布の中でどうなってるのか、気付いてしまったわけ?」

 気付いたのか、あるいはどこかで知ったのか。全然、その行為の意味合いがわからない段階から、普通に体験してた。あまり特別なことだと思ってなかったから漠然としか覚えてないけど、気持ち良かったような気はする。風花は初めての時、やっぱり痛がってたような気もする。血が出て焦ったのは、印象に残ってる。そこでやめておけばよかった。

「……確かに、禁断の領域ね。第二次性徴よりも遥かに前からそんなことをやっているなんて……。年齢一桁の内からだなんて、ちょっと、ねえ……」

 いや、本当に。今思うと、ひやひやすることを普通にやってたもんだ。下着見て興奮するのに、その一方で裸で抱き合うことは普通だと思ってた。ぞっとするよ。ちなみにこの遊び、中学校に入ってもまだ続いていたんだ。

「え、危ないじゃん、明らかに」

 そう、危ない。しかも、それを知らずにやってるから、より性質が悪い。初潮も精通もあって、妊娠の危険性のある行為をしてるのに、本人同士にはその認識がない。当然、避妊措置なんて取るわけが無い。ただ、気持ち良いからやるだけ。しかも、その一方で、衝動的というほどの積極性は無い。両親が家にいないし、時間も空いてるから暇つぶしにやろうか、みたいな感じ。何せ、遊びだから。一緒にテレビゲームをやる、くらいの感覚で性交渉してしまう。お風呂も一緒に入る。下手すればお風呂の中でもやる。なのに、女性の下着を見るだけで赤面する。自分としては、女性に対して免疫がないものだと思い込んでいる。気味が悪いほどに歪んでいる。

「……性の問題の認識レベルと、実際の行動があまりにも乖離してるわけね。妊娠騒動もそりゃ、起こるわ」

 いや、それは違うんだ。さすがに中学生に入ってから、自分達がやっていたことが一体何だったのか、知る機会があった。俺は真っ青になったけど、風花は驚いていなかった。むしろ、早い段階から知っていた、というようなことまで言っていた。どうせ結婚することになるだろうし、妊娠してしまっても気にすることはないと思っていたらしい。

「うわあ……」

 でも、そんなわけにはいかない。さすがにそれっきり、その遊びは一切しなくなった。服を脱ぐことなどしない。毛布など持ってこない。一緒にテレビドラマを見て、ラブシーンがあっても真似しない。

「……妊娠騒動は?」

 だから、遊びでは一切しなくなったけど、それと認識した上での行為はまだ続いたわけよ。幼馴染のいとこ同士、ではなく、恋人同士としてね。

「……変わってないじゃん。結局毎日のようにいちゃいちゃいちゃいちゃしてたってことでしょ?」

 まあ、否定はしないけど、認識が変わっただけでも、意味合いは全然違ってくる。背徳感やら羞恥心やら、心理的なスパイスが過分に加わったから、快楽のレベルが格段に上がった。病み付きになりそうだった。

「……状況悪化してるじゃん」

 好奇心も増して、色々なことを試してみようという流れになった。具体的には割愛するけど、まあ、相当奔放に楽しんだとだけ言っておこうか。

「もう、かなりどうしようもないわね」

 とりあえず、避妊にだけは気をつけた。性周期を把握して、危険日と言われる日には風花の中で出すのをやめておいた。

「お、ちょっと、ナチュラルにさらっと言ってるけど、それ全然避妊のこと考えてないじゃん。安全日、危険日の概念は存在しないと思わなきゃ駄目なんだぞ。周期が少しずれるだけで、妊娠の恐れがあるわけだから。ちゃんと避妊具つけなさいよ。それに、中で出さなければ妊娠しないとか思ってたら大間違いだからね」

 いや、わかってるよ、今は。だからこそこんな風に話せるんだろうが。つまるところ、いつもいつも俺達はやばい方向にだけ無知であり続けたわけだ。避妊に気をつけたつもりになっただけで、実際はノーガードみたいなものだし、性病についても全くノーチェック。現代の若者の乱れた性風俗のテンプレートみたいだろう。恐ろしい。今考えると非常に恐ろしい。

「で、そのまま、高校生になってもやり続けた結果、フウカさんが妊娠したわけね」

 高校三年生の夏だったかな。むしろ、それまで何も起こらなかったことの方が奇跡に近いと今俺は思うわけだが、風花が突然こんなことを言い出した。生理が三ヶ月来てない。

「うわ、怖」

 俺、顔面蒼白ね。

「まあ、そうなるかもね」

 何せ、当時の俺は、完璧に避妊していたつもりだからな。

「やることだけは一人前なくせに、致命的な無知を引きずったままだったのが悔やまれるわね。頻繁にエロ話するような悪友でもいれば、過ちに気付けたかもしれないのに」

 風花本人は、平然としていた。本当に、子供を産んでも構わないと思っていたのかもしれない。俺だって結婚するつもりだったし、まあ、親も薄々俺と風花の関係に気付き始めていて、それでも交際に反対する様子はなかった。学生の身分で相手を妊娠させたわけだから、それなりに怒られることは覚悟していたが、しっかり責任は取れると思っていた。取るつもりだった。

「でも、最終的に破局に追い込まれたわけよね? 親が結婚に猛反対したとか?」

 いや、親には結局話さずに終わった。

「は? だって、妊娠しちゃったんでしょ? 黙ってるわけにはいかないと思うけど」

 結論から言えば、風花は妊娠してなかったんだ。想像妊娠というか、受験のストレスのせいで生理不順になっただけというか、とにかく奇跡的に、この期に及んでもなお、何も起こっていなかったんだ。

「なーんだ」

 なーんだ、じゃない。

「でも、だったらどうして破局の原因になるの? ツキトが突然フウカさんに冷たく当たるようになって嫌気をさされたとか?」

 違う。俺は、それまで以上に風花をいたわるようになっていたし、風花はその様を見ながら喜んでいた。まあ、滅多に見られる光景じゃないからな。

「だったらどうして?」

 血縁だ。

「はい?」

 風花が、遺伝学か何かの本を読んだらしい。そして、突然結論してきた。お腹の中の子供は堕ろした方がいい。私達は別れた方がいい、と。俺の部屋に来て号泣した。

「……あー、何、血縁者の結婚は血が濃くなるから出来ればやめた方が良いって奴? でも、日本では四親等以上ならば結婚できるんだから、いとこは全然オーケー。そりゃ、生まれる子供が遺伝病になる可能性は赤の他人同士のカップルよりも多いだろうけど、あんまり気にしなくてもいいんじゃない?」

 俺も、そう思った。でも、話は俺が思っているよりも少しだけ、深刻だった。

「なんでよ?」

 俺と風花は、普通のいとこじゃない。

「その上幼馴染ってこと?」

 いや、全然違う。少しは察せよ。普通のいとこってのは、片親同士が兄弟あるいは姉妹というケースで、母方か父方、どちらか片方の祖父母が共通しているだけだ。だが、うちは違う。お互いの父母が兄妹という緊密な血縁関係だ。父方の祖父母も母方の祖父母も共通している。集団遺伝学の専門用語では、二重いとこというらしい。

「……それって、やっぱりまずいの?」

 難しいことは省略して、とりあえず近縁係数というものを使って数値的に説明しようか。この数字が大きければ大きいほど、血縁度が高いと思ってくれ。普通のいとこが一六分の一なのに対して、二重いとこは八分の一。おじとめいの関係も八分の一。兄弟姉妹が四分の一であることを考えると、二重いとこってのが、かなり血縁的に近い位置にいることがわかるだろう? 日本で結婚が禁止されているおじと姪、あるいはおばと甥という三親等の血縁度と同じ数字なんだからな。

「うーん、でも、それほど気にすることじゃないと思うんだけど……」

 一般人の間で十万人に一人現れる、劣性遺伝子由来の遺伝病があるとしよう。その病気の子供が生まれて来る確率は、つまり本来ならば十万分の一。余程運が悪くなければ大丈夫だと言って過言ではない。何せ、誰も口にしていないだけで、子供を産むということには当然、生まれながらにして病気をもった子供や、障害児、奇形の子供が生まれる可能性というものが付き纏っているんだ。確率が低いから、皆、そこまでナイーブになっていないだけでな。むしろ、そんなの気にしていたら、ストレスで妊婦の方が参ってしまうだろうし。

 で、その十万分の一の確率で現れる病気が、二重いとこカップルの間の子供ではどれほどになると思う?

「え、まさか一気に百分の一くらいにはならないわよね……?普通のいとこ同士で、あんまり気にしないでいいって言われるくらいなんだし、まあ、一万分の一くらいにはなるかもしれないけれども……」

 もうちょっと高い。発病の確率は、一般人に比べて約四三倍にもなる。つまり、二千三百人に一人くらいの割合になったはずだ。

「……ねえ、その数値って全部覚えてるの?」

 ああ。何せ、その時に嫌というほど計算したからな。

「でも、二千三百分の一って、そんなに気を遣わなければいけない数とも思えないけど? 一から二千三百までの好きな数字を二人で選んで、それが偶然当たる確率ってことでしょ?はっきりいって、ほとんどゼロに近いわよ?」

 それだけでは、確かにそうかもしれない。だが、そういう劣性遺伝子由来の遺伝病は、二〇〇種類とも三〇〇種類とも言われている。そこで、二〇〇種類の遺伝病のうちの少なくとも一つが発病する確率を考えると、どうなると思う?

「いや、そんなのわかるわけないでしょ……」

 一般人の場合、約五〇〇人に一人。遺伝病といっても、軽度なものから重篤なものがあるから何とも言いがたいが、とりあえず地球人の五〇〇人に一人は遺伝子由来の何らかの疾患に罹っていると思っていいわけだ。予想よりも多いだろう?

「まあ、五〇〇人に一人ってのもかなりの低確率だから、おかしくはないけど」

 そして二重いとこの場合、その確率は、約一二人に一人。つまり、八パーセント強。

「う、かなり高確率ね」

 さらに進んで、遺伝病の種類を三〇〇種類として計算すると、一般人が三三三人に一人なのに対して、二重いとこの場合、約八人に一人。実際には、こんなに単純な計算じゃ駄目で、その家系がどれくらい劣性有害遺伝子を保有しているか、とか様々な要素が関わってくるんだが、概算でこんな数字が出たことは事実だ。ここまで来ると、俺はさすがに楽観視出来なかった。

 まだ見ぬ子供に対して、無責任になるべきではない。どんな障害をもって生まれようとも、俺は自分の子を見捨てる気などないが、世間の風当たりは強いだろうし、何より子供が可哀想だ。念のために言っておくが、これは障害者や遺伝病の患者を差別してるわけじゃない。俺が彼らに憐れみの視線を向けているとか、そういう部分を責められたら反論は出来ないかもしれないが。人間は誰にでも幸せになる権利がある。障害者や遺伝病の患者にだって当然ある。だが、その一方で、健常な身体をもって生まれてきて欲しかった、生まれたかった、という願いも絶対にある。どうして自分だけが、という不条理な思いに駆られることもあるだろう。それはもっともなことで、誰にも罪は無い。ただ、俺のケースは、そういう生まれながらにして障害を背負ってしまった人とは似て非なるものなんだ。俺は、そうやって生まれながらに子供に背負わせた何らかの障害を、個性だと言って割り切ることなど出来ない。してはいけない。なぜならば、これを知ってしまったからだ。八分の一という数字が、目の前に既に提示されているからだ。病気になりたくてなったわけじゃない、病気の子供を産みたくて産んだわけじゃない、という下地が、俺の場合は最初から崩れている。八分の一。俺たちには、それを背負うだけの覚悟が足りなかった。別に、何が正しいとか、そういうことが言いたいわけじゃない。どれだけ障害児が生まれて来る確率が高かろうと、それとしっかり向かい合って、ずっと支えていく覚悟さえあるのならば、自分の子供が欲しいと思うのは当然の心理だ。それを否定する気はない。むしろ、その覚悟があれば、俺だってこんなことにはならなかった。ただ、俺には無理だった。子供が障害を背負って生まれて来るのが怖いと思った。可哀想だと思ってしまった。どんな子供でもしっかりと支えてやろうと思っていたが、出来ることなら健常者が良いに決まっていて、その可能性「八分の七」という数字を意識してしまった。

 風花は泣いていた。泣きじゃくった。風花は、俺のことが凄く凄く好きで、俺もおんなじで、だからこそ、一緒に幸せになりたかった。だが、風花はリアリストで、どんな子供が生まれても幸せだ、と言い切れない、一方で優しく、一方で残酷な性格だった。そんなの、考えるまでもない。子供が障害を持って生まれたがためにノイローゼになってしまう親や、離婚してしまう親だって少なくなくて、そんな親を無責任だと一方的に罵ってしまえないだけの重さが、この問題にはのしかかっているんだ。綺麗事なら、いくらでも言える。だが、問題の本質は、そこに無い。

 風花が産婦人科に行って、妊娠が勘違いだったことがわかった。俺は安心した。風花も安堵していた。だがそれは、一般のカップルと質を違えたものだった。子供が生まれて来ることを素直に望めない間柄。いくら愛し合っていても、いや、愛し合っているからこそ、幸せになどなれそうになかった。精神を病みそうだった。これまで通りの付き合い方が出来るはずなかった。風花は離れていった。俺はそれを引きずったまま抜け殻のように日々を過ごし、受験に失敗した。誰のせいにすることも出来ない。風花は、何も気にしていないかのように振る舞い、そのまま志望校に合格した。両親は、俺が突然鬱になったのを、受験のプレッシャーに負けたのだと思い込んでいたようだ。何もかもが腹立たしかった。希望通り医者になっても、俺は幸せが掴めそうにない。風花との間に、健康な子供が欲しい。家庭を築きたい。それだけのことに、手が届かない。着床前診断だの何だので、健康な子供を産む技術はある程度確立している。だが、それは生命の選別に当たると言われて、論争の真っ只中にある。生殖医療は、生命倫理とぶつかる時代に来ている。技術があろうと何だろうと、俺の真の幸せには簡単に到達出来ない。皆が幸せになる権利があるはずなのに、俺の幸せは倫理的に問題視されるという。法律的に許される相手との結婚なのに、どうしてこんな目に合わねばならないのだ。俺はどうすればいい? 何を成せばいい?

 投げやりになった俺は医学部進学をあっさり諦めた。親も、風花も何も言わなかった。翌年、風花と同じ大学の農学部に合格した。

 風花と別れた理由は妊娠騒動。そう言ってしまう方が、むしろ楽だ。スキャンダラスで盛り上がるけれど、本質をぼかしてくれる。風花の笑顔には、あれ以来どこか翳があるが、誰も何も言わない。俺しか気付けない。

「……ごめんね」

 何が。

「……聞いちゃ駄目だった。ツキトの中に、好奇心だけで踏み込んじゃった。ごめん」

 気にするな。今はもう、吹っ切れた。吹っ切ったことにしている。血縁を理由に風花を支えてやれなかった、呼び止められなかったのは結局俺の責任だ。どれだけの逆境だろうと、極端な話、風花が実の妹だろうと、愛を貫けるだけの覚悟があれば、それはそれで幸せになれたんだろうと思う。出来なかったのは、所詮それくらいの関係だったってことだ。ただの幼馴染のいとこだったってだけの話だ。

「そんなの……」

 わかってるよ。負け惜しみみたいなもんだ。でも、そうとでも考えないと、やってられなかった。運命というか、血というか、俺の愛がそんなものに負けたとは、あんまり思いたくなかった。

「ツキト……。なんで、そんな――」

 俺は風花と、約束をした。三〇歳まで、お互いただのいとこ同士に戻る。それまで、二人とも人並みに異性と付き合って、恋愛をする。この人だ、と思った相手と結婚する。もしも、三〇歳まで二人とも結婚していなくて、全てを受け入れる覚悟を決められたなら、結婚して、また二人一緒に暮らす。もしも、どちらかあるいは両方が結婚していれば、いとことしての関係を続ける。それだけの約束だ。

「……ツキト、まだ、フウカさんのこと好きなんでしょ?」

 ……ま、それはあえて明言しないでおこうか。とりあえず、その約束があるから、今はただのいとこ同士。獣医の卵であることの方が、ハンプバックにとってはよっぽど関心ごとだろうさ。

 気付けば、電車は東京駅に到着しかけている。我ながら惚れ惚れするようなタイミングであった。話し終わると同時に目的地に着くとは。ご都合主義のドラマみたいだ。

「私の悲惨な恋愛の話もした方が良い?」

 別に俺は、不幸自慢のつもりでこんな話をしたつもりではなかったのだが。

「でも、何か不公平な気がするし。踏み込まれたくないだろう領域に踏み込んじゃったし、逆にツキトにも踏み込ませてあげようかな、という宿主想いの寄生体なわけよ」

 そんな、傷の舐め合いみたいなこと、あまりしたくないな。

 さすがに東京駅のホームは、雑踏でごった返していた。案内板の矢印を追って八重洲南口を目指す。何も考えずに乗っただけあって、ホームでかなり歩かされる羽目になるようだ。最寄りの出口に向かう人が多数のため、流れに逆らう形となり、苦戦を強いられる。

「まあ、長い話じゃないから、バスの到着までの暇つぶしくらいに考えて、聞いて頂戴な。あのね、私が滝の下の国で暮らしてた時、一人の格好いい小人に出会ったわけ」

 ちょっと待て、電話だ。

 ズボンのポケットに入れてある携帯電話が震えている。歩いている途中など、気付かないこともよくあるのだが、今日は運が良かった。液晶画面を見ると、水城さんの名前がそこにあった。通話ボタンを押す。

「もしもし」

『もしもし、守矢君? あのさ、今どこまで来てる?』

「丁度、東京駅に着いたところです」

「滝の下の国ってのは、何度も言った通り、死ぬか生きるかの戦いが繰り広げられている殺伐とした世界なわけ。だから、そんなところで格好良い人に会ったからって喜んでられないのよ、大抵は。殺されたりする可能性もあるしね」

 うわ、混乱するからハンプバックは黙ってろ。

『あ、良かった良かった。思ったよりも道が混んでいなくて、バス、もうすぐ着いちゃうんだ、東京駅に。丁度合流できそうだね』

「でも、その人は別でさ。迷路みたいな裏路地に入り込んで道に迷って倒れてたところを私が拾って看病してあげるという恩の売り方で信頼を勝ち取ったわけよ。裏切られる可能性もまあ、あったけど、見た感じ誠実そうだったし」

「そうですか、わかりました。風花は大丈夫そうですか?」

『さっきから、ずっと寝てる。たぶん大丈夫だと思うけど、帰る途中とか、本当にやばそうだったら救急車呼んだりしてね。お願いね』

「で、しばらく家に置いてあげてたんだけど、どうやらその人は地獄送りで前の年にこっち側から落ちてきた人だったらしくて、常に誰かに狙われてるような状況だったみたい。私にしてみれば、もう、渡りに船みたいなもんよ。こちらの世界の様子を聞くことも出来たし、心強い味方が手に入ったし、何より恋人になりたいと思ったわけ」

「ああ、えーと、わかりました。とにかくバスターミナルに向かいます」

『うん、それじゃ、一旦切るね』

「はい、また後ほど」

 電源ボタンを押す。フードの中から聞こえる声と合わせた謎のステレオ放送を堪能させられたが、聖徳太子の七分の二ほどの力を発揮し、どうにかこうにか切り抜けられた。

「でね、そこそこ良い関係が構築できたなあと思ったある日、いきなりその人がいなくなったのよ。何の痕跡も残さずに。私は慌てて家の周りを探し回ったけど、見つかるわけもなく、諦めるしかなかったわ」

 東京駅は広い。右往左往しながら、人ごみの中、何とか八重洲南口の自動改札を見つけ出し、そこから再び矢印を追ってバスターミナルに向かう。

「それでさ、そいつのことを忘れた頃になって、意外なところで再会したのよ。どこだと思う?」

 知るか、とだけ答えておこうか。

 さすがに正月だけあって、浮ついた妙な雰囲気が漂っている駅構内を出て、パン屋の傍を抜けて進む。何台もバスが停まっているターミナルを簡単に発見できたが、どのバスなのかわからない。いや、むしろもうすぐ到着する、と言っていたから、次に来るバスが風花達の乗るバスなのかもしれない。

「なんと、七代表決定統一競技会の予選でさ、私の対戦相手として出てきてんの」

 本当に都合の良いことに、五〇メートルほど向こうの交差点で停まっているバスが、そのロゴから風花達のツアーバスであると判明した。タイミングが良過ぎである。信号が、まさしく赤から青に変わった。巨体を揺らしながら、都会の片側三車線の道路を爆走横断してくる。ターミナルのどの辺りで停まるつもりなのだろうか。

「しかもさ、お久しぶり、って言ったら、全然覚えてなくて、そなたは何奴か、みたいな古風な口調で誰何してきてさ。ぶっ飛ばしてやろうと思ったけど、そいつがまた強いんだ。あれはもう、本当に危なかったのよ。心臓の少し横をさ、素手の手刀で貫かれてね。泣いた泣いた。痛いのなんのって。抵抗しないなら命は取らない、降参しろって言うんだけど、声なんて出なくてね。酷い話だよ、ほんとに。あの時、白旗持ってなかったら、今頃死んでたね」

 そんなもん持ってるお前もお前だと思うが。しかも、その話は非常に大変そうではあるが、いまいち悲惨な恋愛話というようには聞こえんぞ。自分より強い奴に会いに行きたがるタイプの人間が楽しそうに喋る類の物語だ。

「えー、だって、好きになりそうだった人に、忘れられてたんだよ? 悲惨じゃない?」

 あれだろ、属性が忘却とか阿呆とか、そんなだったんじゃないのか?

「違うよ。だって、彼は今人格基礎一〇八属性にも名を連ねてる――」

 急に黙り込んだハンプバックに、俺ははっとなった。見れば、風花の乗っているであろうバスが、こちらの目の前を通過し、一番駅寄りのスペースに向かっていた。

 半径数メートル。上級小人同士が、お互いの存在を感知できる距離である。

 まさかとは思うが、お約束と言えばお約束だった。

 都合の良い時に都合の良い思い出話をすると、大体においてその思い出話の登場人物が現実にも現れるのである。噂をすればなんとやら。こんなところでもそれが発揮されることになるとは。つくづく今日は小説より奇なことばかりが起こる日だ。

 おい、ハンプバック、誰だ。何ていう属性の小人がいるんだ。

「ああああああああああああああああ」

 おい、どうした、ハンプバック。掴み上げるぞ。

 俺は、一応言われたとおり身体に触れることを断ってから、フードの中に手を突っ込み、中から寄生体である小人を取り出した。胸を押さえながら苦しそうにうめくハンプバックが、身体を丸めて掌の上に転がった。

 もしかして、古傷が痛むとか、あるいは心的外傷みたいな痛みか。

 こくこくと、必死に頷く猫背の小人。こいつの精神は、随分とデリケートなつくりをしているらしい。小動物を扱うように、優しく背を撫でてやろうと思ったが、嫌がるかもしれないし、何より手袋でそんなことをするのは気が引けた。相手はもこもこのコートを着ているし。

 バスは既に停車しており、中からは、続々と乗客が降りてきていた。まだ水城さんと風花の姿はないが、行かないわけにもいくまい。ハンプバックの様子も気になったが、ここにつっ立っていても仕方がない。俺は小人をそっとフードの中に仕舞いこみ、それから走って旅行バスの降車口に近付いた。バスガイドが、ありがとうございましたー、と言いながら客を見送っている。スキーに行ったと一目でわかる大荷物を抱えた者たちが、軽く会釈をしながら通り過ぎていく。

「ちょっと、ほら、しっかりしてよ、風花」

 バスの中から、水城さんの声が聞こえ、タラップに姿が現れた。ぐたっと脱力している風花を肩で支えている。もう一人、俺が名前を知らない風花の友人が逆の肩を担いでいた。

「大丈夫ですかー?」

 とガイドさんにも心配、迷惑をかけつつ、どうにかこうにか降りてくる一行。関わりになりたくないのが本音だったが、一番厄介者扱いされているのが俺の血縁者であるからにはどうしようもない。

「水城さん」

 声をかけると、明らかに疲れの見える水城さんの顔が少しほころんだ。長い黒髪を、今日は後ろで一つに束ねている。そのため、片方の耳にだけつけられたピアスが常になく目立っていた。学科内で様々な噂の飛び交う、いわくありげなピアスである。

「守矢君、悪いわね。わざわざありがとう」

「いえ、とんでもない。こちらこそ、風花がご迷惑をおかけしまして」

 風花は、なんだかもう、酔っ払っているのかいないのか気にすること自体が馬鹿らしくなるほどの泥酔模様を晒していた。真っ赤な顔で、目が据わっており、足はふらついている。まるでコントだった。

「いやー、ごめん、ツキト。わざわざありがとう。本当に。誰かと一緒にいたところなのに、悪かったね」

 口を開けてみれば、それは電話口での風花と一緒だった。この泥酔状態から発せられたものだと考えれば、相当高度なセリフだと言えよう。意外と酔っても頭の働きが鈍らないタイプなのかもしれない。とりあえず風花は、母親である安茂里叔母さんの酔い方と似ていて、酔うとお喋りになる。

「ほら、フウカ、しっかり立てよ」

 水城さんから風花の肩を外して、もう一人の友人にも退いてもらい、一人の力だけで立たせる。意外とふらふらしながらも立っている。

「あの、これ、フウカの荷物、お願いします」

 バスの中から、風花の友人らしい女性が、とんでもない大荷物をこちらに寄越してきた。風花は身長一四八センチメートルとかなり小柄である。どうやってこんな荷物を運んだのかと不審に思ったが、ここで言っても愚痴っぽくなるだけなので、やめておいた。

 左肩から自分の鞄を下げ、さらに二つの旅行バッグを一つは右肩、もう一つは右手で支える。空いた左手でふらふらの風花の右手を握り、

「あー、えーと、お疲れ様でしたー」

「はーい、気をつけてねー。守矢君」

 早々にその場を退散し、人ごみの東京駅に向かって歩き出す。後ろでひそひそと、あれが風花の恋人、いや、いとこらしいわよ、へえ、でも絶対付き合ってるよねあれ、などとあらぬ噂を立てられているのを感覚だけで悟りながら、黙々と進む。改札口と切符売り場を横目にそのまま進み、一番人の少なそうな喫茶店に入って席に着いた。荷物は全部床に放り投げた。風花は何も言わずに向かいの席に腰掛ける。

 ウェイトレスが水とおしぼりを持ってやって来た。

「ご注文はお決まりですか?」

「アイスコーヒー二つ」

 テーブルに肘をつき、顎に手を乗せた不貞腐れ気味の風花が、勝手にそう頼んでウェイトレスを追い払った。この季節にアイスコーヒーもないだろうと思ったが、暖房の効いた暖かいこの場所なら、それもありかもしれない。

 ほぼ同じタイミングで、俺と風花が溜息をつく。座高の高さの問題で、自然と見下ろす位置にある風花の顔が、目に見えて変貌した。顔色が元に戻り、視線が安定する。酒気を一瞬で抜く、という小摩木の家に伝わる秘術である。うちの母がちょくちょく使うため存在こそ知っていたが、風花が使うのは初めて見た。たぶん使えるんだろうと予想はしていたが。

「だいぶ参ってるみたいだな。目、真っ赤だぜ」

「コンタクトしたまま寝たふりしてたからね。でもまあ、こんな演技なんてする必要なかったみたいね。頑張って損したかな。小人のことを信じてもらうにはよっぽどのことがないと駄目だと思ってちょっと荒れてみたんだけど。まさかあんたが普通に持ってるとは思わなかった。あの電話口での声、小人だったわけだ」

 さすがに鋭い。一瞬で状況を把握してしまえるその洞察力は羨ましいほどだ。

「その通り。せっかくだからほら、そいつ紹介してくれよ」

 俺は、グラスに入った水を飲みながら、目線だけで風花のジャンパーの胸ポケットを指し示した。そこには、ハンプバックと同じくらいのサイズの小さな人の顔がひょっこり覗き出ている。尤も、ひょっこりと形容できるほど可愛らしい顔をしてはいない。銀髪と、白磁のような白い肌が目にも鮮やかな美青年だと思われるのだが、丁度目の位置を真っ赤な布で覆っていて、表情がわからない。

「あれ、聞いてないの? そっちの、何だっけ、猫背の小人に」

 どうやら、向こうはバスと俺がすれ違った段階で、こちらの小人の名前を把握したらしい。こっちだって、当のハンプバックがこの有り様でなかったら、すぐにでも聞きたいところなのだが。

「いや、それがさ、うちの小人さ――」

「お待たせしましたー。アイスコーヒー二つになります」

 ウェイトレスの声に黙り込む。こんなわけのわからない会話を聞かれるわけにはいかない。そんな俺を見て、風花がくすくすと小さく笑った。

「……なんだよ」

「いや、私達、馬鹿みたいだなって思ってさ」

「馬鹿とは何だ」

「そうよ、馬鹿はあんただけでしょ、この獣医の卵め」

 ……頭痛の種がしゃしゃり出てきた。声の出所を訝る風花の目の前で、フードの中からハンプバックが這いずって来る。そして、俺の右肩の上からテーブルへと跳び下り、風花を睨みつける。尻尾を立てて唸り声を上げ、威嚇している。

「……これが猫背の守護小人? ツキトが正式契約した?」

 訊きながら、こちらの顔とハンプバックを何度も何度も見比べて、最後に溜息。

「なんだよ、その態度は」

「いや、別に。ツキト、そういうの好きそうだな、と思って。実にツキトらしいよ、うん」

「勝手に納得するなよ」

「そうにゃ。人を見た目で判断しちゃいけないにゃ」

「お前、ここぞとばかりに俺を貶めにかかりやがったな。どっちの味方だよ。つうか、体調回復したなら、とっととあいつのことをお前が俺に説明しろや」

 未だに風花のポケットの中で微動だにしていない目隠しの顔を見つつ、俺はハンプバックを促した。だが、彼女が口を開くより前に、アイスコーヒーのストローに口をつけていた風花が胸ポケットからその小人を取り出した。ハンプバックと対峙させるように、テーブルの上に置く。

「彼は、人格基礎一〇八属性五〇番『自戒』担当上級守護小人アドモニッシュ、らしいわよ。この人滅多に喋らないから、まだあんまり馴染んでないんだけど」

 アドモニッシュと紹介された小人は、器用に黙礼した。全身現れてみれば、それは壮絶な格好だった。拘束衣としか思えない服で身体をすっぽり覆い、両手は長い袖の中に入ったまま、交差するように身体の周りに巻きつけられていた。さらに、ご丁寧に足には枷が嵌められていて、動きが制限されている。

「……えーと、これが自戒の守護小人? フウカが正式契約した?」

 言いながら、向こうの顔とアドモニッシュを何度も何度も見比べて、最後に溜息。

「何よ、その態度は」

「いや、意外だな、と思って。フウカがまさか、こんな拘束プレイが好きだったとは。そういやこんなん試してなかったなあ、うん」

「ば、馬鹿なこと言わないでよ。あんたみたいなエロの亡者と一緒にしないで」

「はあ? なんだよ、その言い草は。大体、いつもいつもやりたがってたのは風花の方じゃないか。俺がエロ呼ばわりされるのは心外だな」

「いや、でも、確かにツキトはエロいよ」

 反撃は、卓上から飛んできた。振り返りざまに、ハンプバックがにやにやと笑っている。

「おい、お前はこっちサイドの小人だろうが。何故敵に回る。こうなったらアドモニッシュ君、男同士、君が俺の援護をしてくれるんだよな?」

 駄目元で話をふってみると、少しの間があってから、形のよい唇が小さく動いた。

「……否……。我が主人は風花殿故」

「うわ、声渋いなあ、君は」

「ちょっと、店員に変な目で見られるからあんまりはしゃがないでよ。子供じゃあるまいし」

 確かに、小人たちの声が一般人には聞こえないのだということを失念して騒げば、ちょっと妙なことになりかねない。声のトーンを抑えていかねばなるまい。

「そういえば、ハンプバックがさっき言ってた、滝の下の国で心臓を抉られそうになったのって結局このアドモニッシュ君なわけ?」

「そう、そう、忘れてた! そうなのよ、こいつなの。こいつが、私が助けてやった恩も忘れて、七代表決定統一競技会予選で私を殺そうとしやがったのよ! この目隠し外してみ、物凄く格好いいんだから」

「ああ、確かにかっこよかった。だから契約したんだけどね」

「はあ? フウカお前、頭大丈夫か?」

「な、猫耳とか付いてるオタクっぽい小人と契約してるあんたにそんなこと言われる筋合いないでしょ。気持ち悪い」

「気持ち悪いって言うな。そっちの小人の方がよっぽど気持ち悪いだろうが。何だ、その拘束衣と足枷は? 自戒とマゾヒズムを誤解してるんじゃないのか?」

「そんなの、私が着せた服じゃないし、知らないわよ」

「ていうか、アドモニッシュ、あんた、また私のこと忘れたとは言わせないわよ」

「……申し訳ないが、そなたの声に覚えはない……」

「はあああ? 声が渋けりゃ何言っても許されると思ったら大間違いにゃ。あんた、声に聞き覚えがないんだったら、目隠し取ってちゃんとこっちを見るにゃ」

「おい、ハンプバック、落ち着け。語尾、語尾」

「何、ツキト、小人ににゃあにゃあ言わせて楽しんでるわけじゃないでしょうね?」

「するわけねえだろうが」

「どうだか。男ってそういう意味不明なキャラ付けに弱いからね。言っとくけど、あんたがもしもそんなことやってたら、絶交どころか、いとこの縁も切るからね」

「切れねえ縁を切ろうとすんな。むしろ、いとこの縁なんて、切れるもんなら切りたいわ」

「……何よ、それ、どういう意味?」

 思わず口を付いて出てきた言葉に、動揺が隠せない。風花の表情は変わっておらず、何を考えているのかよくわからない。少しの間、口ごもってから、俺は力なく答えた。

「え、あ、そのままの意味だよ」

「……私は、切りたくないからね」

 小さな声で、そっぽを向きながら、風花。

「……なんだよ、それ。それこそどういう意味だよ」

「…………。そのまんまの意味よ」

 何なんだよ、それ。

 風花は、俺といとこ同士のままで居たい、という。良い意味なのか、悪い意味なのか、それがよくわからない。そもそも、ただのいとこって何だ。幼馴染って何だ。こうやって、いきなり東京駅まで迎えに呼び出されて、酔った演技に付き合って、喫茶店で一緒にコーヒーを飲む関係は、何ていう名前なんだ。

 小人などという不可思議なものとエンカウントして混乱した風花が頼ったのは、いとことしての俺か、幼馴染としての俺か、元恋人としての俺か。

 何なんだよ、それ。

「もうさ、ツキトとフウカさん、付き合っちゃえばいいじゃん」

 全てをぶち壊す猫背小人のフォロー。当然、フォローになっていない。

「……そんな流れじゃなかっただろ、今」

 アイスコーヒーにシロップとミルクを注ぐ。渦になって溶けていくのはCMだけだ。汚らしく、氷の間を縫うようにうねりながら沈んでいく。ストローでかき混ぜて、ようやく完成するものだけは同じ。理想と現実のギャップは、最後にそうやって埋まる。氷がグラスにぶつかって立てるその涼やかな音色に、夢を見る。いつか自分の理想も現実に変わる日が来るのではないかと。

 ふと見れば、風花はコーヒーをブラックで飲んでいる。それが、現実。

「ツキト、やっぱり女心がわかってないよ」

 猫背の小人に言われて納得出来るセリフでもない。

「ま、あんたが変に気の回る人間だったら、付き合ったりしなかったけどね。私も、人のこと言えた義理じゃないのかもしんないけど」

「……俺は、別に――」

「私ね、大学入ってから今まで、三人に告白されたんだ」

 風花はストローを咥えたまま、こちらを見ようとしない。じっと、テーブルの上のアドモニッシュに視線を向けている。

「でも、全部断った。理由は適当に答えた。人間関係に角が立たないように、適当に」

「……聞いてないな、そんな話」

「言ってないもん。当然でしょ」

 ハンプバックが、不安そうにこちらと向こうの表情を窺っている。そんなに心配されるような顔で話し込んでいるのだろうか、俺達は。

「私は、極限まで自分の感情を制御しようとしてる。だから、それゆえの自戒。自制っていう方が近いのかもしれないけど。たぶん、ツキトの正反対の位置に居るのよ」

「どういう意味だよ?」

「それを教えたら、私は自戒の正式契約者じゃなくなるでしょ。だから、口には出さない。気になるなら、あんたより余程心の機微に敏感な、そっちの小人さんにでも訊けばいいんじゃない? その勇気があるのなら」

 不機嫌なのか、それとも上機嫌なのか、それすらも良く分からなかった。何故か、俺ではなく、ハンプバックが泣きそうになっている。風花が指を伸ばして、躊躇いがちにハンプバックの頭に触れた。猫の耳を優しく撫でて、少しだけ口元を緩めた。

「思ったより、温かいね」

 毛布にくるまって、二人で遊んだことを思い出した。記憶の中でも、幼い風花がおんなじことを言った。触れ合った部分が溶けてしまいそうな、不思議な温もりに浸っていた。

 そして今。

 喫茶店の中は暖房が効いている。手袋を素通りする外の寒さのせいで冷え切っていた指先は、痺れと共に体温を取り戻していく。

 だが、アイスコーヒーのグラスに触れるたび、凍えは何度でも牙を剥く。

 二重いとこ。幼馴染。元恋人。小摩木風花。

 考えることは山のようにあった。伝えることも山のようにあった。訊きたいことも、勿論同じくらいに。その全てが、冷たい指先には重過ぎる。

 だから、告げる。目の前にいる一人の女と、二人の小人に向かって。

 吐き出してしまう。


「言っとくけど、俺は絶対に諦めないからな」


 初めて風花が、顔を上げた。久しぶりに、見た。疲れ気味の頬に浮かぶ、しかし翳のない本当の彼女の笑み。わけもなく、俺も笑う。

 宣戦布告だ。これは、戦いの合図だ。

 何が変わるわけでもない。猫背王と自戒王。人格基礎一〇八属性の上級守護小人との正式契約者が二人。今ここで相対したという、それだけの構図だったのだ。

 まだ、何も始まっていない。何も終わっていない。

 なあ、ハンプバック。もしもこのランキングバトルでベストセブンになれたら、俺はこういう願いを叶えることにする。



『俺と小摩木風花との間に生まれる子供が、血縁による障害を何一つ背負いませんように』



 現金なんかではなく、俺が本当に望んでいるもの。本当の、願いだ。

 ハンプバックが、こっちを見て微笑んだ。そして、

「今、初めてツキトが格好良く見えた。かろうじて格好良く見えた」

 優しい口調で馬鹿にしてきた。なるほど、ありがとう。これで決意は固まった。

 ……いつか絶対に捻り潰してやる。

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