落ち行く一月一日

 いつだったか、綱渡りに失敗して上空から墜落する人の映像を見た。映像は途中でカットされて、ナレーションだけがその人の死を伝えていたが、それは非常に衝撃的だった。九死に一生を得る、みたいに大事故で奇跡的に助かる人の話を伝える番組は多いけれど、実際には地震やら飛行機事故やら大火事やらで、レスキュー隊が助けられずに散って行った命の方が多いはずだ。それを痛感させられた気がした。危険と隣り合わせのエンターテインメントが本性を現してまさに牙を剥いた瞬間、というのはひどくリアルで、TVの向こうに全くの他人事で死を体験できているはずの俺にまで、その恐怖は伝わってきた。綱の上で平衡を保つために持つ長いバランス棒が強風に煽られてぐらりと傾いて、そのまま斜めに落ちて行き、つられる様に本人も綱から足を踏み外す。その、一歩。まさに道を踏み外した瞬間の、その映像。何よりも見事に、視覚的に分かり易い、死へと繋がる一歩。喫煙のせいで真っ黒になった肺の写真を見た瞬間に、煙草を吸うのは絶対に止めようと決意したくなるように、それは、こんなところから落ちて死にたくないと見る者に強く思わせる、墜落への恐怖を凝縮した映像だった。

 何故かその瞬間、俺はそれを思い出した。

「にゃー、始めましてにゃー」

 俺はバランス棒を取り落とし、そのまま墜落した。

 時刻は午後十時を過ぎたあたりだった。風花が友人とスキーに出かけてしまったため一人で適当に食べた夕食の後、新年のバラエティ特別番組を見終わって、クリスマス商戦で売り出された人気タイトルの新作ゲームの続きでもやろうかと部屋に戻ってきたところだった。俺は、ドアを開けて面食らい、自分の目を疑った。最初に目に入るゲーム専用の一六インチテレビの上に、人形とぬいぐるみの中間くらいの何かが乗っかっていたからである。一目見た瞬間、どこかで見たことがある、と思い、記憶の中を探ったら美少女ゲームの登場人物と一致した。それは、衣装と猫耳と猫の尻尾、それから取っていたポーズがそのキャラクターと一致していたからであり、髪の色や瞳の色、さらには顔立ちが一致していなかったが、そんなことまで気が回るわけは無かった。

 「どうしてこんなところにこんなものが」「俺にはフィギュアを集める趣味なんて一切無いのに」と心の中の俺はその存在を受け入れようとせず、とりあえず手を伸ばそうとした。そいつが動いた。前かがみになって、片方の手は腰に、もう片方は顔の横で一本指を立てているという、何のジェスチャーか傍目にはわかりにくいアピール体勢が解かれ、手を前で揃えた『気をつけ』の姿勢に変わった。入れ違いになるように、俺の動きが止まった。だるまさんがころんだ、で鬼にタッチしようとしていた直前に振り向かれた子供のような、まさにそんな格好だった。ここまでなら現実から目を逸らし、よく動く人形だな、最近のフィギュアは凄いな、で片付けても良かったのだが、それは瞬きをした。ごく自然に。そして、口を開いた。ごく自然に。とんでもなく高性能なギミックだった。

 ここで俺の脳は現実に耐えられず、綱渡り失敗映像との二元中継に切り替わった。

 そこへ、

「にゃー、始めましてにゃー」

 である。気を失わなかった自分を褒めてやりたい。初めて自分で自分を褒めたい、である。その声は、何となくアニメのアテレコをやる声優みたいな、地声ではなく可愛く作りこんだ嘘臭いものに感じられた。深々と頭を下げる謎のフィギュア。フリフリのスカートの裾から、赤いリボンの巻かれた長い尻尾が伸び上がった。トラ猫の尻尾に似ていた。

 俺は弾かれるようにその場から逃げ出した。本当に弾かれたことは無いが、たぶんこれをそういうのだと思う。一瞬で、静から動へ。もしも一メートル走という競技がこの世にあったならば、この瞬間の日本チャンピオンはまず間違いなく俺だったと思う。さすがに世界には通用しないだろうが。部屋のドアを後ろ手で閉め、そのままリビングへと駆け込むと、空のグラスに浄水器から真水を注いで一気飲みした。せっかく浄水器を通したのに、スイッチの切り替えを忘れて原水のまま飲んでいたので、錆のような味がした。頭を冷やすのにはそれで十分だと思った。

 幻覚、という言葉が最初に頭をよぎった。何か悪いものを食べてはいないか、と考えを巡らす。朝昼はおせち料理で、両親たちも一緒に食べていたから却下する。晩御飯は有名企業のインスタント食品だったが、もしや消費期限が切れていたのではあるまいか、と破り捨てた包装をゴミ箱から漁って見るが、まだまだ二年以上は持つ代物らしかった。確かに、味は問題なかった。だとすれば、一緒に飲んだ我が家のお茶に一服盛られている可能性があるのでは、とポットの中身を確認してみるが、目で見てわかるほどの変化はさすがに無かったので、これ以上は確かめようがない。随分気が動転していたが、鑑識でも無ければ何の知識もない一介の大学生風情の俺には、幻覚の原因物質の解明なぞ到底不可能だ。では、どの局の情報番組に電話すれば答えてくれるだろうか。

 テレビ局の番号がわからず、電話番号台帳の所在を探そうとしていた俺に、ふとした疑問が湧き上がった。我が家の電話番号台帳が見つかりにくくて良かった。おかげで、無駄な電話代を払わずに済んだ。閃きは突然降ってくる、というが、どうやら本当らしい。

 もしかして、誰かの悪戯なんじゃなかろうか。誰かが、あんなふうに良く動くフィギュアか何かを俺の部屋に置いておき、俺の反応を見て楽しんでいるんじゃなかろうか。よし、考えろ。自分の部屋を最後に出たのは、食事とテレビ番組観覧のためにゲームを止めた午後七時。あの時点では確かにあんなフィギュアまたは人形またはぬいぐるみまたは何かなんて無かった。リビングの位置は、俺の部屋より随分奥にある。何者かが玄関から侵入し、こっそり俺の部屋にあのフィギュアまたは人形またはぬいぐるみまたは何かを放り込み、こっそりと出て行ったとは考えられないだろうか。最新鋭防犯対策としてオートロックのかかるこのマンションだが、様々な都合上、風花の家の人はこの家の鍵も持っている。つまりは当然風花も。

 待て待て、名探偵。風花は今日、初滑りツアーに出掛けた訳だが、その正確な時刻は? 何か言っていなかったか? 確か、東京駅から午後九時に出発する夜行バス的な何かに乗って日本列島を北上し、積雪の多い地方へと旅立つはず。風花の性格から考えて、最低でも三〇分前には待ち合わせ場所に辿り着いておこうとするから、逆算して、うちを出ているはずの時刻は……丁度七時頃。おお、犯行時刻ぎりぎりだ。つまり、犯行は可能!

 だが、動機がわからん。あまり、悪戯なんてするようなタイプじゃないし、そもそもあんなきゃぴきゃぴしたものをあの風花が持っているだろうか。というか、あれは現代の科学水準から考えて実在し得るレベルの代物だったのか。悪戯で他人をびっくりさせるためだけにあれだけの技術を費やせる企業が存在するのなら、世界はもっと平和なのではなかろうか。もう一度確認する必要がありそうだった。

 腕を前から上げて大きく背伸びの運動をしながら深呼吸をした。リズムも取った。呼吸は落ち着いた。鼓動も落ち着いた。喉に絡みつく錆の味だけが気にかかり、一度うがいした。そして自分の部屋に向かう。部屋の壁にゴキブリがいて殺虫剤を取りにリビングへ向かったその帰り以来の気の進まなさだった。あの時は数十分に渡る死闘の末、我がライバルはティッシュに包まれて下水道へと流された。遺言は、我が人生に一片の悔いなし、だったらゴキブリながらも天晴れだなあ、と勝手に思っている。

 部屋のドアが重々しく俺の前に立ち塞がる。ノブと言って良いのかどうか、レバーを押し下げるようになったタイプのドアノブを回して、恐る恐る部屋の扉を開く。まだあの人形か何かがそこにいることを願う気持ちが半分、いなくなっていることを願う気持ちが半分ずつだった。いなくなっていたら、それの正体が全く判明しないまま悶々とした思いを抱えることになる気もしたが、目の錯覚だったのだと自分で自分を誤魔化せば良いので、そういう意味では楽だった。

 果たして、それは、居た。

 着替え中だった。

 ドアノブに手をかけて半開きのドアを支えたまま、俺は石像のように微動だにしなかった。日本石像選手権がもしもこの瞬間開かれていれば、たぶんメダルを狙えたと思う。パントマイムの達人には敵わないだろうから、控え目にそう言っておく。

 人形めいたその相手も、こちらに負けず劣らず石像のような状態になっていた。まず、目が合った。黒目がちで円らなそれは、状況を飲み込めずに困惑の色を湛えていた。そして、悪いが、全部見た。隈なく見た。俺も所詮は男だった。彼女は、色白だった。ワンピースのドレスを上半身だけ下ろして、フリフリしたスカートのお尻の部分にある尻尾用の穴からそれを抜いている途中だったようだ。やけにスポーティな、タンクトップのような下着を着けた細い上半身を捻り、尻尾に手を伸ばしている。思ったより、胸はあった。思ったより、だ。勘違いするな。ずり落ちそうになったワンピースの陰から、ボクサーパンツのような下着がちらりと見える。正直、その容姿と服装に、その下着は全く似合っていなかった。その辺のコーディネートも考えるべきだと個人的には思うが、そんなことはどうでも良かった。「きゃああ、エッチー、早く出て行きなさいよ」みたいな言葉が聞こえてくる前に、全ての問題を棚上げにして部屋から退散しようと思い、思考を再開した俺は何も言わずにドアを引き戻した。

「な、何なら着替えるの見ててくれても――」

 ばたん。閉まる直前に何かが聞こえた気がしたが、空耳であると信じることにした。

 もう一度、深呼吸だ。腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動だ。

 こんな風な、ドキドキハプニング系の体験は随分と久しぶりだった。まだ風花が今より明るく笑っていたあの頃は、時折これに近いことがあった。とはいえ、そもそも一緒にお風呂に入って育った間柄であり、あいつの裸など見慣れているし、風花も見られ慣れている。お互いにドキドキしながら、「早く出て行きなさいよ!」「ごごごごご、ごめん、すぐ出て行く!」などのような初々しい会話をしたのは思春期に入ってすぐの頃だけだ。あとは、高校一年の夏祭りの時に風花の部屋を訪ねたら、丁度浴衣に着替える途中だった時か。まあ、特にそんな初々しい会話があったわけではないのだが、あの時は、何というか、色んな意味で良かった。説明しにくいが、とにかく良かった。あんなに顔を赤くする風花は、金輪際見ることは出来ないだろうと思う。魅力的だとか何とか、それ以前の問題だった。枕をぶつけられても居座って見惚れ続け、風花が必死に前を隠しながら目覚し時計に手を伸ばして投擲のモーションに入ったところでようやく、慌てて部屋を出た。早鐘のように鳴る心臓を押さえ、ドラマのワンシーンを気取って、ドアを背に体重をかけ、ずるずると滑り落ちるようにその場に座り込んだ。あの時の俺は、完全に役者だった。色んな意味で、カメラがあればよかった、と思った。

 そして、今の俺。女の裸ごときで大騒ぎをするようなことは無い。いわんや人形の下着姿をや。着せ替え人形だって服を着替えるのだ。さほど珍しい光景ではなかったはず。人形とは思えないほど滑らかな女性の肌の質感が遠めに見てもわかったが、だからどうしたというのか。頭身の関係で、やけに現実離れして見える女性型の愛らしい何かが半裸で俺を待っていたからと言って、俺は一体どうするのが正しかったというのか。英国紳士ならば一体どうしたというのか。寒いだろうから、優しく自分の着ていたコートを脱いで肩からかけてやればいいのか。だが俺はコートなぞ着ていない。誰か簡潔に説明してくれ。

 いや。そもそも。

 人間以外の知的生命体だと思われる何かとのファーストコンタクトが、つまり俺にとっての未知との遭遇が、「にゃー、はじめましてにゃー」という一〇音から開始するということ自体、一体どういう了見なのか。これは、多少の訛りはあるが、完璧に意味の通る日本語の挨拶である。とりあえず最初は片言で、ワレワレハウチュウジンダみたいな、自己の何たるかを一切説明する気のない紹介文から入るのがセオリーなのではあるまいか。しかも、その場所というのも、山奥かどこかに未確認飛行物体が不時着したのを目撃して、車で山林を分け入り、獣道を三時間走った末にようやく到着した、見たこともない円盤型の乗り物の前でなければならないのではないのか。こんな、東京都内の高級マンションの一室で、安物の小さなテレビの上からこんにちは、など誰が許したのか。しかもセカンドコンタクトで早くもお色気シーンである。構成作家は誰だ。

「あのー、もう大丈夫にゃ。入ってきてもいいにゃ」

 鈴の鳴るような声が聞こえたので、お言葉に甘えてドアを開ける。着替えの終わったその何かは、相変わらずテレビの上で、今度は最初から直立姿勢だった。先程よりもだいぶ落ち着いた着こなしである。白いチノパンを履いて、上は黒の長袖シャツに、カウボーイが着るような、袖の無い茶色のベストに似たものを羽織っている。頭の大きさから考えて、上から被るタイプのシャツは着られないのだろう。両方とも前でボタンを留めるタイプの服だった。服装が落ち着いた分、より一層その存在自体の異質さが際立った。

 とはいえ、俺はもう逃げ出そうとはしていなかった。それが何故かと尋ねられれば、それはもう、そうするしかなかったからとしか言い様がない。混乱の極致にあると、人間は視野が狭くなり、まともな思考が働かなくなる。例えばこんな例がある。老婆がハンドバッグを持って道を歩いている時に、脇を通った二人乗りのバイクがそれをひったくろうとした事件があった。老婆はそれに気付き、慌ててハンドバッグを強く抱え込んだが、バイクの男もハンドバッグから手を離さない。結果として、老婆は助けを求めながらバイクに何十メートルも引きずられ続けて、その怪我が元で亡くなってしまったというのである。バイクの二人に殺傷の意図は無かったわけだから、老婆がハンドバッグから手を離せば命を失うことにはならなかったと容易に想像できる。では、彼女は何故そうしなかったのか。答えは先に言った通りで、咄嗟のことにその老婆は、ハンドバッグから手を離せば助かるということに気付かなかったのである。俺もそれと同じで、色々考え過ぎた結果混乱の極みに到達し、この人形もどきの話を聞くこと以外の全てを、完全に考慮の外に置いてしまったのだった。わかり易く言えば、俺に出来たのは、その老婆の冥福を祈ることと、とりあえずその小さな未確認知的生命体らしき何かの話を聞くことだけだったのだ。

 そいつは、一見コミカルに見えるが実はしなやかな動きで深々と辞儀をした。それに合わせるように、ほんの微かに、ちりん、と鈴の音が聞こえた。

「にゃう。はじめまして、モリヤツキトさん」

 驚愕の第一声だった。いや、正確には全く第一声ではないが。未知との遭遇としては、これ以上に無いほどの黄金パターンであった。これだ、これなのだ。『どうしてお前が俺の名前を知っているんだ』パターンだ。こちらは向こうを一切知らないのに、何故だか向こうはこちらの素性を知っている。何者だ、と謎は深まるが、だが相手はなかなか素性を明かしてくれない。ストーリーが進んでいくにつれて徐々に明らかになる、主人公との関係。その全てが明かされた時、主人公が選んだ選択は――?

 これだ! 来た! 俺の時代だ。導かれるように、台本をなぞるように、俺の口はそのセリフを朗々と読み上げる。

「どうしてお前が俺の名前を知っているんだ!」

 八畳の部屋にその声は響き渡り、窓ガラスにひびを入れるかと思ったが、さすがにそこまでの音波は発していなかった。相手はきょとんとした顔になった後、得心したように「ああ」と頷いて、ぴょんとテレビの上から飛び降りた。フローリングの床に膝を曲げて衝撃を殺し見事に着地すると、ラックに立てて並べられたゲームソフトのケースを指差す。

「わざわざ全部に名前が書いてあったにゃ」

 …………。

 氷解。

 ああ、そうさ。悪いか。自分の持ち物には大体全て油性マジックで記名するさ、俺は。教科書は勿論、鉛筆やシャープペンシルの一本一本、下着の一枚に至るまで名前を書くとも。家族に食べられたくないアイスクリームやプリンにだって書く。食べかけの好物を冷蔵庫で保存する時もラップに名前を書く。軽蔑したいならすればいいさ。

「ああ、でも、何かこのテレビの台の裏側に隠すように置いてあったパソコン用のソフトだけには何故か名前が書かれてな――」

「見たのか! それを見たのか!?」

「にゃ、いや、見てない。見てないにゃ。気のせいだったかも」

 俺の追及に、足元の方でぶんぶんと首を振っているその生物。そのたびに微かな鈴の音が聞こえるので、髪飾りにでも鈴が付いているのだろう。小さくて見当たらないが。

 唯一名前の書かれていないゲームソフトの話題は置いておいて、とりあえず俺はドアをしっかり閉め、クッションの上に座った。それでもだいぶ頭の高さに差があるが、先程よりは話しやすくなった。

「で、単刀直入に訊くけど、お前は何? 宇宙人? それともその他?」

「私は小人にゃ」

 小人、か。それはつまり丈の小さい人間ということだけしか表していない。動物園のチケット売り場では大人の対義語として使われているし、成長ホルモンの分泌異常で身長の伸びない病気を小人症と呼ぶ。外国の妖精の中で、背の低いホビット族の影響もあって、亜人という印象を抵抗無く受け入れてしまうことが出来るので、まあ、そういう認識でいいのかもしれない。と、思う。

「小人、ね。……日本語はどこで習った?」

「習うも何も、私は日本生まれだから、普通に生まれた時から喋れたにゃ」

「ええと、どっちにつっこめばいいんだ……?」

 日本生まれ、という方か。あるいは生まれた時から日本語が喋れたという方か。あるいはその両方か。いっそその存在自体を否定するか。

「どっちも本当にゃ」

「……よし、じゃあ、大きな声出すから覚悟しとけ」

 俺は大きく息を吸い込んだ。胡座をかいて前屈みの姿勢のまま、それを吐き出す。小人が両手を頭の上の猫耳に伸ばし、蓋をするように耳朶を折りたたむのが見えた。

「どこの日本に語尾に『にゃ』をつけて喋る地方があるんじゃぼけえええええ!!! 安易なキャラ付けしてんじゃねえぞ!!! 猫耳猫尻尾だから『にゃ』ってふざけんなあああ!」

「猫目、猫舌、あと当然猫背も加えておいてよ」

「だからって駄目だああ! 全身の猫率がどれだけ高かろうとも、『にゃ』なんて語尾が通常生活で出てくる奴など日本中どこを探しても居ない!」

 顔を顰めながら、必死で猫耳を抑え、その小人はさらに反駁を続けた。

「だからそれが、猫被り、なわけじゃん」

 すっと頭の中に、その言葉が浸透して行った。劇的だった。波が引くように、怒りが収まるのが自分でもわかった。逆転満塁ホームランを浴びたのにこんなにも清々しい気持ちになれるのならば、俺も甲子園球児を目指したかもしれないのに。

 猫被り。本性を隠して大人しそうに見せかけること。

 語尾に『にゃ』を付けていれば、どんなことを口にしたとしても可愛く見えて許されてしまう、という打算の元での行動だったというわけか。それならば全て合点がいくではないか。あれほど不自然であってもなお続けるその意味が。ここに!

「お前……落語家の卵か?」

「え、いや、なんでそんなことに……?」

「日本では、上手いこと言える人は落語家になる決まりなんだ」

「生まれてこのかた聞いたことないにゃ」

 戸惑いの顔を浮かべる小人に、だが俺は急速に親近感を覚えていた。こんなに巧みなトークを展開できる人間と、話しておいて損は無い。芸は盗め、という。この小人がどんな素性なのかは一切わかっていないが、色々と詳しく聞き出せば、今後の参考になる。上手いトークが出来れば、それの延長で弁論大会に出たり出来るかもしれないし、ひいては法廷に呼ばれた時も正々堂々相手方と戦うことが出来るだろう。良いこと尽くしではないか。

「お前、名前はあるのか……?」

「あるに決まってるにゃ。私の名前はハンプバック。仲の良いものは親しみを込めてハンプバックと呼ぶにゃ」

「そのままじゃん」

 驚愕の事態。流れるように、つっこみが口を付いて出てきた。つっこみを自然に引き出してしまうボケ。……すごい。これはすごい。こんなことが出来るのは、二種類の人間しかいない。つまり、お笑いのセンスのある者と、天然ボケの者だ。この辺りの見分け方は、とても難しいが、先ほどの上手い受け答えを考えるに、こいつは前者である可能性が高い。とはいえ、性急に決めてしまって判断を誤るのも愚の骨頂。ここはじっくり会話してみなければ。

「ハンプバック」

「何にゃ?」

「何で俺の部屋にいるの?」

 ハンプバックというらしいその小人の人柄を推定することと同時平行に、その正体をも見極めなければならない。未知との遭遇には、成すべきことが山積されているのだと初めて知った。

 今わかっていることは、小人を名乗りつつ小粋なトークを展開できる可愛い感じの小さな女性が、語尾に『にゃ』をつけて猫被りながら俺の部屋で話し相手になっている、という破天荒なことだけだ。あとは、知られたくない秘密を知られたようだ、とかその辺り。おいおい隠し場所を変えるか。

「君に頼み事があるのにゃ」

 出しっ放しのゲーム機のコントローラーを踏み越えて、ハンプバックはこちらに近付いて来た。手を伸ばせば届きそうな位置で、祈るように手を組んでこちらを見上げてくる。上目遣いがやけに上手い。この寒い中、何故かその足は素足だった。

「私と一緒に年間勝率七五パーセント以上を目指して戦って欲しいにゃ」

「うん、悪い。ぶっちゃけ全然意味がわからない。全然だ」

 さすがに未知との遭遇の未知具合はさすがだなあ、とやけに重複単語の多い感嘆を漏らしながら、俺は部屋の暖房をつけに歩いた。何だか、この未知具合からして、長話になりそうで、それならば暖かいに越したことはなかろうと思ったからだ。勉強机の上に置かれたリモコンを操作して設定温度を二〇度にし、スイッチを入れる。

「あと、にゃを語尾につけるのやめてくれないか?」

「ど、どうしてにゃ? 前の宿主は、こうすると悶えるほど喜んだのに……」

「いや、そんな奴がいるからこそ俺はやめて欲しいんだが……」

 語尾に『にゃ』をつけて喋るなんて、安易なキャラ設定にもほどがある。あざと過ぎる。そういうのをわざと狙ってやるアニメやらゲームならまだしも、もしそんな登場人物が出てくる小説があったならば、俺は間違いなく作者に生のタラバガニを送りつけてやるだろう。真意が測れないためやたらと不気味なのに、高級食材だから文句も言えないというこの周到な嫌がらせ。鍋にして喰うがいい。

「この喋り方完璧にマスターするのに三ヶ月かかったのになあ」

「意外と早く定着するんだな……」

「小人だもの」

「いや、小人の言語獲得能についてなど俺の知るところではないが」

 さばさばとした喋り方に変わると、ハンプバックの声はそこそこ普通に聞けた。外見があれなので、まだまだあれだが、まあそこまであれっぽくは無くなっている。

 地べたにクッションで座るのは個人的にあまり好きでないので、ベッドに腰掛けることにした。ゲーム機の辺りにいるハンプバックに手招きすると、ちょこまかと走って近寄って来る。ベッドとテレビは部屋のほぼ対角にある。そんな間取りの関係で、ベッドに寝転びながらゲームをするという自堕落な感じの行為が出来ないのが、この部屋の唯一にして最大の弱点だ。そのため普段は、床に直接寝転びながらやっている。ハンプバックは、部屋の中央のノートパソコンが置いてある座卓によじ登り、そこから助走をつけ、一気にベッドの枕元まで跳躍しようとした。身長に対しての跳躍距離を人間に換算するとすごいことになりそうだったが、如何せん元々の大きさが小さ過ぎた。目を見張るほどの大跳躍なのに距離が僅かに足りず、ベッドの脇に顔面から激突する。どうにか四肢で布に掴まり、身体を持ち上げて生還を果たした。仰向けに倒れて、こちらを見上げてきた。

「室内大アスレチック大会の後で言うのも何だが、俺が運んでやればすぐ済む話だったな」

「いやあ、それは、無理」

 若干、息を切らしながらハンプバック。大の字になって、シーツの上でのびている。尻尾が腰から横に伸びているので、全然大の字には見えなかったが。

「君、まだ、契約してないから、私にさわれないにゃ……もとい、さわれないの」

「な、なんだって!?」

 契約とか、そんな話はよくわからないが、ここで来た。ありがち設定だ。見えているのに触れない。そこにいるのにそこにいない。お前は虚像、虚像なのか?

「試してみる?」

 挑戦的に言って、悪戯にこちらを誘惑するような視線を投げかけてくる。尻尾が、煽情的に揺れる。俺は思わず唾を飲み込んだ……りはしない。

「じゃ、お言葉に甘えて」

「にゃ!?」

 小人に欲情するほど飢えていない。照れる必要も何も無い。躊躇も無ければ容赦も無い。修羅だ。まさにそれだ。たぶん。触ることが出来ないと言うのだから、それはもう向こうを信じるのが一番だ。ここは、グーだろう。男ならグーだろう。俺は拳を握り締めて、ハンマーのように上から振り下ろした。ハンプバックが大きな瞳をぎゅっと瞑るのが見えて、「おいおい、さわれないって言った割りに普通に怖がってんじゃねえかよ、本当に当たらねえんだろうなあ、潰れて中から緑の液体はみだしてきたりしないだろうなあ」と急に不安になり、少し速度が鈍った。俺の中の天使に乾杯。

 一瞬だった。俺の拳はハンプバックのカウボーイ服を何事もなく通過し、そのままベッドの表面を叩いてスプリングに跳ね返されてバウンドした。その反動でハンプバックの身体も少し浮かび上がり、跳ねる。指で何度試してみても、間違いなく、ハンプバックの見える位置には何の感触も無い。ゲームのポリゴンで当たり判定のない場所同士が重なった時のような、そんな感じだった。

「……なんか、手つきがいやらしいんだけど」

「どうせさわれないんだから、気にするな」

「そっちには感触が無くても、こっちは少しくすぐったいの。それに、直接的な接触がなくてもセクハラは成立するはず」

「……そっちから誘ったくせに」

 渋々手を離す。ハンプバックは身体を掻き抱き、犯罪被害者のような目で俺を責めた。謂れの無い罪の意識を感じて、思わず目を逸らす。色んな意味で貴重な体験をありがとうよ。見えるのに触れない存在なんて、3D眼鏡をかけて飛び出してきた恐竜以来だった。あの、緑と赤のセロファンのやつだ。

「ええと、とりあえず話を戻そうか」

 もう一度小人を見ると、彼女は正座してそこに居た。基本的に背筋が丸く、姿勢が悪いのであまり様になっていなかった。囲炉裏の前に座す老婆、がまさにそれだった。

「どこまで話したっけ?」

「ほとんど何も。年間勝率七五パーセント、みたいな奇妙奇天烈な発言しか聞いてない」

「ああ、ええと、どこから説明すればいいのかな」

「知るか」

「前の宿主は、私の姿を見た瞬間に狂喜乱舞して、何もわからず契約してくれたけど、今年はそんな安易なことするわけにはいかないからなあ」

「お前を見て狂喜乱舞する奴自体がどうかと思うけどな」

 もしかしたら、こいつは天然ボケサイドの人間……否、小人なのではなかろうか。少し話した限り、話の流れに一貫性が無く、よく考えてものを喋っているというより、その場の雰囲気で言いたいことを言っているだけのような気がする。まあ、別にいいんだけど。天然ボケならうちの父方の祖父母の子供、つまり俺の父親と風花の母親を長年見ているので、扱いには慣れているし。

 ハンプバックは、上着のポケットから小冊子を取り出し、その最初の方のページに目を通した後、

「ええと、まずあれよ、白雪姫って知ってる?」

 と、好きなアーティストの話をする若者風な口調で、童話のタイトルを口に出してきた。

「グリム童話の?」

「さあ、作者は知らないけど」

「いや、それくらい知っておこうや」

 白雪姫、か。昔、幼稚園の頃の学芸会で、狩人の役をやったなあ。白雪姫に狩人なんて出てきたっけ、と俺自身が後に悩むことになるのだが、毒林檎を食べさせる前に、お妃様が白雪姫を殺すために腕利きの狩人を森に派遣したんだそうだ。で、実際に白雪姫の前で猟銃を構えるんだけど、白雪姫のあまりの美しさに負けて、「こんな美しい人を殺すなんて俺には無理。お妃様はあんたを執拗に殺そうとしてるから、早く逃げろ」とか言い置いてどっかに行ってしまうという微妙な役どころ。白雪姫を連れて一緒に逃げるくらいの甲斐性があれば主役にもなれたのにね。ちなみに、当時白雪姫の役をやっていたのは何の因果か風花であり、つくづく身につまされる話だなあ、と今更思ってみる俺であることよ。

 そんな回想に浸っている暇もあればこそ、カンニングペーパーを見終えたハンプバックが、講談師のような体勢で話を続ける。

「でまあ、その白雪姫を森の中に匿ってくれたのが、何を隠そう誰だったか憶えてる?」

「何を隠そう、と言った意味はわからんが、憶えてるよ。七人の小人だろ?」

「そう。つまりはそういうことよ。人間の煩悩は一〇八つあると言われているのに、白雪姫の小人は七人、たったの七枠しかないわけ」

「待て、落ち着け、小さいの。話が飛躍しすぎだ。煩悩なんて何故急に出てきた?」

 話の纏め方が下手なのか、それとも元々纏めようのない話なのか。俺が完全なる未知領域に踏み込んでいるということを差し引いても、あまりにもあまりな話術ではある。全く参考にすべき論理展開ではない。がっかりだ。

「あれ? 煩悩が一〇八って、今の若者にはやっぱりわかんない?」

「いや、違う。そういう話をしているんじゃない」

「水滸伝の方が良かったかな? あれも一〇八だし」

「いや、おい、ええ? 一〇八であれば何でもいいのか?」

「人間にわかりやすいようにさりげなく一〇八って数字を出すコツだもの」

 わかり易くない。さりげなくもない。ますます混乱してきた。

「二言三言しか本筋に触れていないようだが、早くも内容を整理しようか」

「まず、君は指遣いがエロい」

「いや、そんなことはどうでもいい。本当にどうでもいい。まず、白雪姫には七人の小人が出てくる。これが肝だな?」

「……一応、それっぽいでしょ。ほら、私も、小人じゃん。ここから察してよ」

 七人の小人。本当のグリム童話では、実はこいつらは小人ではなく浮浪者で、白雪姫と明らかな肉体関係があったなどとする、あんまり子供の目に触れさせてはならない感じフルスロットルの内容だったので、徐々に子供向けに改められていったということだが。

「で、一〇八という数字。これを出さなければいけないということと、七枠しかないという表現から、一〇八というのは小人全体の数だと考えられる。あっているか?」

「うーん、そこは微妙に外れ。小人の属性だけ見てももっといっぱいあるし、純粋な人数になると、人間よりずっと多いよ」

「……属性?」

 また、わからない単語が出てきた。何なんだ、これは。正月早々、俺は一体何故こんな要領を得ない会話に悶々としなければならないんだ。初悶々か。うれしくねえ。

「いや、ほんとに説明しにくいんだけどね、これは。人格基礎一〇八属性、っていう概念があるんだわ、日本に」

「聞いたことねえぞ」

「いや、でもあるんだって。比較的最近生まれた概念らしいけど。それは全部、人間の性格とか特徴とか性質とかを表す漢字二文字の言葉なの。高慢とか温和とか慎重とか」

「ああ、キリスト教神学系の、七つの大罪とか美徳とか、そんな感じの?」

「ごめん、知らない」

 がっくりだ。とんだ肩透かしを食らう。丁度、七という数字も出てきたし、何だかぴったり当てはまる例なのかと思ったが……。

 七つの大罪。憤怒。嫉妬。高慢。肉欲。怠惰。強欲。大食。

 どれも、人間が陥りやすい甘い誘惑であり、捕らわれると駄目になるぞ、とそんなことを教えてくれる代物だ。思い当たるふしがありすぎて困るね。

 一方、七つの美徳。希望。貞節。知恵。愛。勇気。忠実。慎重。

 なるほど、素晴らしい言葉ばかりだ。注目すべきは、愛と勇気だけを友達にすれば、それだけで美徳のうち七分の二は達成できているという事実だろう。その効率の良さは、さすがとしか言いようがない。

「で、各属性には各一人の守護小人ってのが居て、その内の一人が私というわけ」

「……ほお。お前は、何という属性の守護小人なんだ、おい、猫耳よ?」

 じとりと、その風変わりな全体像を眺める。猫耳猫尻尾。ゲームのキャラクターか。

「そんな目で見ないで。小人の外見は、名前にちなんだ姿になるように決まってるの。これは私の責任じゃないわ」

「そのやけにきらきらした上目遣いをやめろ、良心が軋む」

「これも前の宿主に教わったの」

「捨ててしまえ、そんな技術は」

 ハンプバックは、苦笑をこぼすように自然な笑みを浮かべた。その表情は、デフォルメ化されたような小人という非現実的な存在でありながら、やけにリアルだった。

「で、私の属性は、君もお察しの通り、猫背よ」

「いや、察してない察してない」

「そう? 全体的に猫っぽいでしょ、私」

「猫要素多すぎて逆に、そんな一番どうでもいい部分なんて誰も気にしないだろ」

 猫背。自慢ではないが、俺も昔から猫背と言われて育ってきた。身体測定で測る身長はかなり高いほうなのに、普段誰一人として俺の背が高いことに気付かないような、そんな感じだった。今でも、十センチ以上は低く見られる。成長期に姿勢が悪いと、たぶん骨が曲がって伸びてしまい、後から必死に背筋を真っ直ぐに直そうとしても、そう簡単にはいかないのだろう。昔から、下ばかり見て歩いていたからなあ。お金を探すために。

 しかし、よりによってこんな俺の元に来るのが猫背の小人だとは。必要ないじゃん、これ以上。幸福の小人とかもっと縁起の良いのが来てくれれば、俺も幸せになれたのに……。

 ああ、そうか、違う。逆なのか。俺は、はっとした。閃きが来た。

「さっきから出てる契約って言葉は、守護小人と、その小人と同じ属性を持つ人間との間で交わされる何らかの約束って意味だったんだな?」

 ぴょん、とハンプバックが跳ねるように立ち上がった。正座から直立姿勢に変わり、びしっとこちらに指を突きつけてくる。反対の手は腰に。

「ずばり、その通り!」

「そのポーズはいらん」

「私達人格基礎一〇八属性の守護小人一〇八人は、自分と同じ属性を持っている人を全世界から一人選び出して、その人に寄生させてもらうの。契約というのは、その許可みたいなもの」

「寄生って……嫌そうな響きしかないんだが」

 冬虫夏草という漢方にも使われる不気味な寄生植物の映像を頭から追い出し、まだポーズを続けているハンプバックを見る。俺に寄生するって言われても、具体的にどうなるんだ、それは。俺の中に卵を産みつけるのか? いや、そもそも卵生なのか、こいつらは。

「基本的には、四六時中近くにいさせてもらうだけよ。小人は、通常は正式契約者以外の人には姿が見えないから、実生活に支障はないはず。エネルギーを吸い取る、とかもないし、ただ一緒にいるだけ」

「え、いや、でも、四六時中って、トイレも?」

 ハンプバックが無言で頷く。

「風呂も?」

 ハンプバックが、大きく二度頷く。

「部屋であれこれやってる時も?」

「勿論。何も恥じることはないわ。だって、それがありのままの人間の姿なんでしょ?」

 真顔で言ってくるあたり、本気に違いない。ありのままの自分を曝け出して生きる、だと? 考えただけでも顔から火が出そうだ。人間にはどれだけの秘密があると思っているんだ。俺がどれだけ人前で自分を偽っていると思っているんだ。プライバシーという言葉の意味を何だと思っているんだ。

「ええと、悪いが、謹んでお断りさせていただく以外にない、という結論が出るわけだが」

「ちょ、なんでよ。猫耳メイドがご主人様にご奉仕するのよ? 健全な男の人はこの誘惑には耐えられないって前の宿主が――」

「待て待て待て待て。そんないかがわしい話を鵜呑みにするな。落ち着け。そもそもお前は猫耳メイドじゃないはずだ、猫背の守護小人だろ?」

「いや、一応前の宿主が作ってくれたから、メイド服は持ってるんだけどね」

「聞いてない聞いてない」

「その他全三六種類のコスチュームで君を楽しませることも可能だし」

「楽しまない楽しまない」

「どうしてもと言うなら出来る範囲で夜のご奉仕――」

「だああああ、その不健全でピンク一色な煩悩ワールドからいい加減足を洗ええええい!」

 卓袱台があったらひっくり返したい、という言葉通りの心持ちで、俺はベッドに拳を叩きつけた。ぼふっと衝撃がスプリングに吸収され、波打つシーツにバランスを崩してハンプバックが尻餅を付く。

「俺には、悪いが人形遊びの趣味は無い。一切無い。子供の頃興味本位で女性型人形のスカートの中を覗いてみたことはあるが、そんな興味も当然ながら今は無い。つまり、俺にはお前と契約するメリットが無い。プライベートが無くなって、常に監視されているというストレスのもと、胃に穴を開けるだけだ。その穴を、お前は、お前は、塞いでくれるというのか!」

 まあ何らかの手段で塞いでくれるとしても、差し引きゼロに過ぎないので、お断りだが。

 ハンプバックは、尻餅を付いた姿勢のまま、ふふん、と自信ありげに笑った。何やら含むところがありそうだ。許す。話してみよ。

「契約の最大のメリットは、私に萌え放題ってこと以外に、もう一つあるの」

「お前に萌えることと同列に並べられた時点で駄目そうな感じがひしひしとするんだが」

「ヒントは二つ。勝率七五パーセントと、七人の小人」

「いや、すっと答えを言ってくれ、答えを」

「いいの? ろくでもないことになるよ?」

「自覚してるんなら、頑張ろうとしろ」

 ハンプバックは困ったように眉をひそめ、くしゃくしゃと栗色の髪を掻く。りん、と小さく鈴の音が聞こえる。まだ、どこに付いているかよくわからない鈴。

「本当は、こういうつっこんだ話はちゃんと契約とってからにしたかったんだけど……。話、長くなるけどいい? それとも、話半分で契約不成立ってことにして、私を帰す?」

「ここまで聞かされたんだから、詳しいところまで聞きたいに決まっているだろうが。是が非でも聞かせてくれ。あと、その上目遣いはやめろ」

「うん。ええと、実は私の正式な肩書きは、人格基礎一〇八属性七七番『猫背』担当上級守護小人っていうんだけど、何か気付かない?」

 人格基礎一〇八属性七七番『猫背』担当上級守護小人、だと? 一度でその全てを把握した自分の潜在能力の高さに自分で驚きながら、即座に気付いたことを口に出す。

「……無駄に長い」

「半分正解。注目して欲しいのは、その原因の一端を担っている、上級、という言葉」

「……つまり、下級小人もいるってことか? 各属性に守護小人は一人ずつって言ってなかったか?」

「そこが、この概念の面白いところ、と言えるかもね」

 ハンプバックは立ち上がり、猫耳のすぐ下あたり、髪の毛の中を探り、何かを掴んだ。またあの鈴の音が微かに聞こえて、次の瞬間彼女は、あり得ない大きさの小槌を頭の中から引っ張り出した。勿論、頭が割れているということなど無く、どうも、都合の良い不思議空間がその辺りにあるらしい。木製と見られるその小槌の柄の先端部分に、紐で結わえられた二つの小さな鈴が付いていた。ハンプバックは、小槌を取り出しやすいようにその鈴の部分だけを髪の毛の間から外に出していたようだ。

「これは、人格基礎一〇八属性の守護小人に与えられる不思議道具のうちの一つ。これを一度振ると一人、二度振ると六人、三度振ると一四人の下級小人を作ることが出来るの」

「一度振るたびに中途半端に増える謎の数列的な部分が気にかかるが、なるほど、下級小人は上級小人が勝手に好きなだけ作り出せるということはわかった」

「ちなみにこの小槌の名前は、『振ったら子分増やせるやつ』」

「それは断じて名前じゃねえな」

「下級小人は、上級小人の四分の一サイズと、非常にコンパクトに纏まっているわ。姿格好は上級小人と同じ。でも喋ることも出来ないし、ただ従順に自分と同じ属性の上級小人の命令に従うだけ。人間の目では、たとえ正式契約者であっても、見ることは出来ない」

「……そいつらは、何のために存在するんだ? 小間使いか?」

 猫背の上級小人は、ゆっくり首を振った。小槌を持った手をこちらに突きつけ、反対側の手は腰に当てる。

「ずばり、強制契約よ!」

「だから、そのポーズは何?」

「前の宿主によると――」

「いや、悪い。そっちはどうでもよかった」

 強制契約。普通に考えれば、無理矢理に契約を結ばせるという意味合いなのだろうが、小人よりもさらに小さく、挙句姿も見えない子分格に、人間の意志を翻意させるだけの力があるとは思えない。いや、だが、いくらでも増やせるのなら、数の暴力であるいは……?

 ハンプバックが、ポーズを解いて『振ったら子分増やせるやつ』をするりと髪の毛の中に仕舞い込む。今度は、鈴の部分までしっかり押し込んでいた。とんとん、と掌で何度か頭を叩いて感触を確かめている。一度、咳払いをしてから続ける。

「上級小人が寄生している宿主以外にも、その属性を持っている人っていっぱいいるでしょ? ほら、例えば私の場合、世界中に何人の猫背の人がいると思う? そういう人達の元に、許可もとらずに子分を送り込んで寄生させることを、強制契約というわけ」

「……え?」

「ちなみに君は、去年まで猫背の強制契約者。目には見えなかっただろうけど、私の子分がずっと見張ってたわけ。別にその情報を集めて解析してたとか、そんなことは無いから安心して」

 ……見られていた? 全てを? 全てか、全てなのか? あんなことも、こんなことも、全てこいつの子分に目撃されていたというのか? それは……良いのか? 倫理的に許されるのか? 紛れの無い覗き行為だぞ。警察は動かないのか? そうか、実害がなければ動けないのだな。もしくは管轄外の仕事には手を出さない、か。そんな古い体制は改めれば良いのに。

「深刻そうね。そんなに見られたくないことがあったの?」

「人間だもの」

「ま、急に教えられたら確かにそうなるかもね。でも、世界中のほとんどの人が見張られてるんだから、別に気にすることじゃないよ。人格基礎一〇八属性のどれ一つにも当てはまらない人なんていないから、最低一つくらいの下級小人と強制契約してるもん、みんな。特に、この概念の発祥地であり中心国でもある日本の人なら、間違いなく全員、何かしらの属性の強制契約者だと思うよ」

 ……確かに、実のところ何の害もないわけだから、気にしなければそれで暮らしていけるのだ。現に、これまで俺は普通に暮らしてきたわけだし。知らなければ良かった、と思うことが人生では多々出て来るが、それを昔の人は知らぬが仏という素晴らしい諺でまとめてくれている。これはその典型だろう。後はまあ、美味しいお肉だなあ、と満腹になるまで食べた肉がカエルの腿肉であることが明かされた瞬間とかか。別に、気にしなければあれも美味しいんだろうが、事実を知ってしまえば、もう以前と同じ味わいを堪能することは出来まい。個人差もあるのだろうが。

 けれども今更、過去のあれこれを後悔していても仕方ない。こうなったら開き直って胸を張り、恥じずに前へ進もうではないか。どう足掻いても、ここはそうするしかないのだから。……泣くぞ、ほんとに。

「ちょっと気になったこととして」

「うん」

「最低一つの下級小人と契約してるって言ってたが、つまりは重複も可能ということか?」

「勿論。石頭でかつ卑怯な人っているでしょ? そういう人には、両方の小人が寄生したり出来るわ。だから、たいていは一人の人間に何人もの下級小人が寄生している。下級小人が小さめに作られているのは、そういう理由かも。上級小人の正式契約者でも大抵の場合、他の属性の下級小人が何人か寄生しているの。でも、上級小人二人以上が一人の人間と契約するのはNG。逆に、一人の上級小人が二人以上の人間と正式契約するのもNG。下級小人についても、同じ属性の小人が複数で一人の人間に寄生するのは駄目。わかった?」

「……いや、正直混乱してきた」

「だから、本当はあんまり説明したくなかったんだけどね……」

 何かこう、すっきりと頭に入ってくるような例え話は無いだろうか。頭を捻る俺に、またも閃きは天啓のごとく降り注いだ。俺って、もしかして神に祝福されているんじゃなかろうか。

「アンケートで、一〇八種類の料理のうち好きなものに幾つでも丸をつけてください、っていう質問があったと考えればいいんだな」

「……君、たまにちょっと変になるよね」

「いや、これは間違ってないって。世界中の人にこれをやらせて、その人の名前と、丸を付けた料理についてを全てデータベース化して、その結果を両側から見ていくと理解すればいい」

「あ、かろうじて分かって来た予感……」

 俺は、不敵な笑みを浮かべて、二度鷹揚に頷いてみせる。

「例えば、ビーフストロガノフで検索をかけると、ビーフストロガノフに丸をつけた人全員の名前が表示される。その内の一人、仮にQさんとするが、その人をビーフストロガノフ組のリーダーに抜擢する。ビーフストロガノフ組とは、そのアンケートでビーフストロガノフに丸をつけた人全員の集合である。一方、同様に堅焼きそばで検索をかけた堅焼きそば組の中から、Zさんを堅焼きそば組のリーダーに大抜擢する。これはちなみに、誰も予想だにしなかった人選だったという設定だ」

「その設定は最後まで死んでると思う」

「そして今度は逆に、人間側、Qさんの名前で検索をかけてみる。すると、ビーフストロガノフ組のリーダーであるQさんが、アンケートで丸をつけた全料理名がリストアップされる。一〇八種類も名前があれば、どんなに偏食家でも、いくつか丸をつけることだろう。思った通り、Qさんも二〇種の料理に丸をつけていた。その中にはなんと、堅焼きそばの名前もあった。つまりQさんは、ビーフストロガノフ組のリーダーでありながら、堅焼きそば組の一員でもあったのだ!」

 なんだってー、という驚きの声を期待したが、端から小人の概念を完全に理解している唯一の聴衆ハンプバックは、生欠伸を噛み殺しているところだった。

「同様に、堅焼きそば組のリーダーになってしまったZさんも、検索してみると、さつま揚げ組、タロイモ組、菜っ葉組、ハム組に所属していることが判明するわけだよ。そして当然ながら、その各組にはそれぞれ異なるリーダーがいる、と。ビーフストロガノフとか堅焼きそばとかの料理名が、お前ら小人の概念で言うところの属性って奴で、リーダーの肩書きが上級小人、一介の組員の肩書きが下級小人。こういう考え方でいいんだろう?」

 どうだ、とハンプバックを見ると、パチパチと等閑な拍手が返って来た。

「言ってることは間違ってないね。客観的に、契約者を数的集合として捉えるのなら、それで完璧に正解。ただ、私達が好物アンケートと違うのは、自分の組の組員を何人にするのか、完全にリーダーがコントロール出来る、ということよ」

 …………。

 正直に顔を強張らせて首を傾げる俺に、ハンプバックも口を尖らせる。

「わざわざ説明をするからには、ちゃんと理解して欲しいなあ」

「申し訳ない」

「……つまりね」

 腕を組んでうろうろとベッドの上を歩き回った後、ぴたりと立ち止まってからハンプバックは続けた。

「Zさんは、堅焼きそば組の組員名簿から、一介の組員の名前を勝手に消去させちゃうことが出来るの。というか、正確にはむしろ逆の感じね。堅焼きそば組のリーダーに抜擢されたZさんは、同じようにアンケートで堅焼きそばに丸をつけた自分以外の全員の名簿を渡されて、その中で誰を堅焼きそば組に採用するかを決めることが出来るわけ。つまり、アンケートで堅焼きそばに丸をつけていたビーフストロガノフ組リーダーQさんは、だからといってすぐに堅焼きそば組にも採用になるかはわからない、と」

「……あの内気なZさんがそんな権力を握るまでになるなんて」

「そんな設定は無い」

 何だかここに来て、この一〇八属性の概念が俄然面白くなってきたように感じる。今まで実体のはっきりしなかったものが、ビーフストロガノフや堅焼きそばの形を借りて具現化したためだろうか。あるいはZさんの活躍に胸を打たれたからだろうか。

「ハンプバックを例にとれば、お前が俺と契約したとして、その後、全世界にいるだろう多数の猫背の人間の内、どこの誰に子分を送りつけるかは完全にお前の気分次第、ということだな?」

「ずばり、その通り!」

「だからそれはもう良いって」

「基本的に、契約取得のために与えられる期間は毎年一月一日から三一日まで。一〇八属性の各守護小人は、この一ヶ月間に正式契約者を捜すの。見つけられないと即失格ね。去年は、断られに断られ続けて、丁度良い人が見つかったのがようやく一月三一日で、いやあ、焦ったのなんの」

「なるほど、それでそんな危険な香りのする人間と契約を……」

「そうなのよ。でまあ、子分をばら撒いて強制契約させるのは、基本的にはいつでもいいのよ。でも、ほら、世界って広いから、もしも世界中の適格者全員に寄生させようとすると、それなりに時間がかかるでしょ?だから、一月中にやっておいた方がいいってだけ」

 子分をばら撒いて、世界中の人間に寄生……?

 愛くるしい小人が、例の小槌からわらわらと生み出されてわらわらと街中を闊歩し、わらわらと人間に群がり、わらわらと自分と同じ属性を持つかどうか調べて、適性ありならば、わらわらの中の一人が寄生する。そしてわらわらと次の人間へ向かい、わらわらと同じように群がり、調べ、寄生し……。考えるだけでもぞっとする光景だ。

「ちょっと待て。一ヶ月で世界中の適格者に小人を張り付かせることなんて出来るのか? 世界は広いとかそんなレベル以前に、世界の人口がどれだけいると思ってるんだ?」

「余裕余裕。あなたの思っている以上に融通は効くもの。『振ったら子分増やせるやつ』は子分自身も持ってるから、ネズミ算式に増やせるの。一人の子分を誰かに寄生させて、『半径五メートル以内に入った人間が適格者だったら、子分を増やしてその人間に強制契約させ、その増やした子分にはこれと同じ命令を与えよ』って命令したらどうなると思う? 一ヶ月後には、全世界に広まると思わない?」

「まあ、確かに随分広がりそうな気もするが、その最初の一人が引きこもりがちな人間だったら、小人の輪は全く広がらずに朽ちるぞ。もしくは、そいつの行動圏内に同じ属性の人間がいなかったとしても、だ。大丈夫なのか?」

 俺の言葉に、あはは、と笑いながら頬を掻くハンプバック。

「……あー、君相手なら、かっこつけずにありのままを話す方が良かったね……。実際はそれよりもまださらに断然楽。ニュアンスだけでどうにかなっちゃう。例えば、『全世界中に均等な割合で五千人の強制契約者がいるようになって欲しい』って言えば、子分が一番効率の良いやり方考えて実行してくれる。移動手段とかも含めて」

「……明らかに上級小人より下級の方が賢いじゃないか」

「小人だもの」

「理由になっとらん」

 万能、という言葉が頭をちらついた。何でも出来る、ということ。話を聞く限り、小槌から生み出される下級小人は万能だ。だが、その実彼らは、上級小人の命令を最も素晴らしいやり方で必ず成功させることが出来る、というそれだけの存在でしかない。寄生相手を探すこと以外で用いられることの無い、極めて自由度の低い万能性。それは、ハンプバック達上級小人たちにも言えることだ。世界中の適格者の中から、正式契約者を抜擢して説得の末に契約を取り、残りの適格者の中から任意の数の人を選び出し、小人を向かわせる。たったそれだけのために、彼女らはひたむきに生きて――

 いや、落ち着け。全然違うよ。早計にも程がある。勝手にセンチメンタルに飲み込まれるな。それはまだまだこの概念の前段階でしかないじゃないか。勝率七五パーセントも七人の小人も出てきてないぞ。本質的な話は一切始まっていない。聞いたのは契約取得期間、つまり、一月のことだけだ。それ以外の一一ヶ月、小人との契約中に一体何があるんだ? 四六時中小人が一緒にいるということに何の意味があるのか、その一番重要なところが分かっていないではないか。プライベートを完全に失って、それでもなおメリットのあるらしいその実体が、全く見えていないのだ。

 話はまだまだ、これからだ。

「で、ハンプバック、結局のところ、その契約ってのは、一体何の役に立つんだ?」

 ふふふよくぞ訊いてくれました、という表情でこちらを見たハンプバックは、案の定というか何というか、お決まりのポーズでこちらを指差し、

「ずばり、その生活の全てにおいて、守護小人ランキング決定公認バトルが繰り広げられることになるのよ!」

 高らかに宣言した。

「うん、悪い。ぶっちゃけ全然意味がわからない。全然だ」

 父さん、未知との遭遇は、まだまだ奥が深そうです。

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