ハンプバックをよろしく!

今迫直弥

プロローグ代わりの一月三日

 物語の始まりなんてものはいつも突然で、登場人物の都合を全く考えずに唐突にスタートする。それまで何を築き上げてきたのか全くわからないどこかの世界の誰かさんがこれこれこんな出来事に巻き込まれるんですよ、と暗に示しながら、切り取られた一日が無造作に幕を開け、読み手を新たな世界へと引き込んで行く。どんな物語の中でも人間の歴史は連綿と続いているのに、登場人物に関わってくる部分だけが『設定』と称して登場し、他で生きる大多数の人間のことや、死んでいった過去の人間達のことなど一切触れたりしない。尤も、それは俺たちの生きる世界だって、同じことなのかもしれないけども。

 そして、物語の終わりなんてものはいつも突然で、読み手の都合を全く考えずに唐突に終焉を迎える。それまで散々ストーリーを見せ付けられていたその世界の誰かさんが、これこれこんな結論を出してこんな風になりましたよ、と明言しながら、不条理に幕を下ろし、登場人物と読み手の繋がりを完全に絶つ。その誰かさんがその後どうなったのか、人生が終わるまでは物語が続いて行くのだろうし、その誰かさんが死んだとしてもその世界が滅んだわけでもあるまい、まだまだいくらでも語るべきことはあるはずなのに、読み手はそれを知る機会を永久に失し、ハッピーエンドとかバッドエンドとか、あるいは消化不良だとか、名前を付けてその『勝手な終わり』を吟味する。

 つまりは、全て作り手の匙加減なのだ、と俺は思う。思うも何も、全くその通りであるのだが、要は、物語が生まれた瞬間からそれが終わるまで、その全責任は作り手が負わなければならず、設定だけ考えて、後は登場人物たちが勝手に動いてくれたよ、みたいなことを言うのは、それがたとえ事実であっても、あんまり芳しくないのではないのか、ということだ。その登場人物を作り出したのは作り手なのだし、どうしてその登場人物が出てきたのか、そして、各人どういうタイミングで終わりを迎えるのか、その辺りを決めているのも作り手であるのだから。

 最終回や終わり方の点で評判を落とす物語が多いのは、こういうところに問題があるのではなかろうか。最終的に収拾がつかなくなって纏められなくなるのは作り手側の姿勢の問題であって、全てに決着をつけて初めて作り手は自分が作り手だと胸を張れると言えよう。平易な言葉で言えば、投げっ放しは良くない、のだ。

「そうは思わないか、ハンプバック」

 そこだけ、わざわざ口に出してやった。俺の肩の上にちょこんと乗っかって、一緒に二時間ものの推理ドラマを見ていたハンプバックは、大きく頷きながら、

「犯人をあんな断崖絶壁の上で追い詰めようとするから大惨事になるのにね」

 と、半分くらい的を射た発言を返してくれた。頭の中で俺が考えたことは、大雑把に彼女に伝わるそうだ。頭の中を覗き見られているようで落ち着かないが、何が伝わってきても知らぬ風を装ってくれと土下座して頼んだので、今はだいぶ平気になってきている。俺は、積んである蜜柑の山に手を伸ばし、皮を剥きつつエンドロールを眺める。薄皮に付いた白い筋を綺麗に剥がしながら、

「登場人物全員海に落ちるのは初めて見たけどな」

「落ちる時は全員マネキンだったね」

「あれは滑稽だった」

 丁度、高速で流れるエンドロールに、協力:森崎人形店という文字を見つけて苦笑する。ハンプバックはしなやかな動きでこたつ机の上に跳び下りて、リモコンのボタンを両手で押してチャンネルを変えようとしていた。

「待て待て。エンディングの後にもう一回どんでん返しがあるのが、この局の新春サスペンス劇場の特長だ。最後まで目を離さないように。もしかしたら、あっと驚く素晴らしいエピローグか何かで上手く纏めるかもしれんぞ」

「まあ、終わり方として、これ以上悪くなりようがないけどね」

 一言で言えば、このドラマの内容は酷いものだった。各局とも凌ぎを削っているはずの年末年始の視聴率獲得戦線において、この局は一体何を考えていたのか、上層部を問い詰めたくなる。新聞のラテ欄だけを見れば、午後九時から一一時までの二時間、超豪華キャストでお送りする有名脚本家によるありがちなサスペンスドラマであるのだが、如何せん放送時間が短すぎた。一一時から始まる人気深夜番組のスペシャルをもっと後ろに回し、六時から九時までのグルメ番組をもっと短くして、もう二時間くらいこのドラマの枠を延ばせばまだ良かったのに、と視聴者の半分は思っただろう。冒頭のシーンで、いきなり人が死んでいた。目を疑うばかりの豪華なキャストが一同勢ぞろいしており、その一〇〇人を超える芸能人が、自分の役名とアリバイを一人ずつ説明して行き、徐々に事件の概要が明らかになっていく。そして最後の一人の紹介が終わると同時に第二の殺人。だが、この辺りになると、もはや誰が死んだとか誰が殺したとかはどうでもよくなっていて、不仲と噂された大物芸能人同士がお互いに平手打ちをしたり、交際の噂される若手ナンバーワンアイドルと二枚目俳優がツーショットで映ったり、ドラマというよりむしろ芸能ゴシップの話題で盛り上がれる。ハンプバックは、お気に入りらしい若手お笑い芸人の一発ギャグが何の脈絡もなく登場して大層ご機嫌だった。そして終盤に差し掛かり、何故か五分間に渡ってインスタントカメラのCMが続いた後、それが開けると出演者全員が断崖絶壁に集められていた。そこで初めて主役だったとわかる二時間ドラマの大御所が謎解きを始めるのだが、百余人の他の登場人物は明らかにその話を聞いていなかったし、カメラワークや音楽も適当極まりなく、時折スタッフの笑い声が混じっていた。で、犯人は結局歌手上がりの人気女優だったらしいのだが、「私はやってない」の一点張りで、どんな証拠を突きつけられても「他の証拠も見せなさいよ」しか言わなくなった。埒があかなくなった辺りで、テレビ初出演のフォーピースバンド(ちなみに、俺がこの番組を見ていたのは彼らが目当てだ)が脈絡なく演奏を開始し、鳴り響くハードロック系ミュージックの中、登場人物全員が涙を流しながら、「自分が間違っていた」と合唱し、モッシュアンドダイヴの要領で客席に飛び込むように次々と崖から落ちて行った。そして、誰もいなくなった崖と、それに打ち寄せる荒波をバックにおもむろにエンディングが始まった、という次第である。

 正直、物語性は薄い。というか、意味がわからない。登場人物の数に対して時間が足りなかったためにあんなぶっ飛んだ内容になったのだろう、と考えるのが最も好意的なのでそうすることにしている。

 エンドロールが終わり、黒地に『二〇〇年後、ニュージーランド』という白字幕が出た時点でテレビを消す。

「ああん、目を離すなって言ったのツキトじゃん」

「いや、もうどんでん返しとか話を纏めるとかの問題じゃなかったから、つい」

 ハンプバックがリモコンに両手をついて体重をかけ、電源ボタンを押した。縞々模様の尻尾がピンと伸び上がり、不覚にも一瞬だけ可愛いと思ってしまう。一瞬だけだ。勘違いするな。有名な海外の映画俳優が「二〇〇年前のあの事件の犯人は不老不死でかつ透明人間にもなれる私だったのさ」と渋い声優の声で真面目に喋っているのを極力無視しながら、蜜柑を一房ずつ割って食べる。俺は、甘味の強い蜜柑の方が好きだが、これは合格点と言えよう。一房一房が大粒なのも好感度大だ。

「おー、エピローグでうまくまとめたね」

「……どこが?」

「結局全部、今年の春に封切られる映画の宣伝だったってことでしょ」

 それをうまくまとめたと言えるほど幸せな脳を、あいにく俺は持っていなかった。小人の考えることはよくわからない。この辺りの認識の違いが、空想生物と現実を生きる社会的知性の埋められないギャップなのだろうか。たぶん違うだろうが。

 ハンプバックは、新聞と睨めっこしながらチャンネルを何度か変え、粉だらけになった男が何やら騒いでいるバラエティ番組を入れると、左腕を伝って俺の肩に戻ってきた。ちょこんと小さく腰掛け、足をぶらぶらさせながら、他愛のないその番組を見始める。

 一方俺は、初売りの広告を折って簡易ゴミ箱を作り、蜜柑の皮をその中に捨てる。そして、もう一つ蜜柑の山から取ってきて皮を剥き始める。

「ツキトのお父さん達って、いつもこんなに遅いの?」

「ああ」

「んじゃ、いつもこの時間一人?」

「いや、フウカが一緒」

「誰? 妄想上の妹?」

「殴ってひしゃげさせるぞ?」

 首を左に傾けると、肩口に掴まるように背中側に隠れるハンプバックの頭が見えた。正確には、セーターの横糸に掴まる小さな手と、栗色の髪から飛び出す二つの猫耳が見えた。

「ご、ごめん。前の宿主の時のくせで、つい……」

「お前の様子を見る限りそいつはまともな人間じゃあなさそうだが、宿主って呼び方はやめろ。寄生生物か、お前は。主人とかマスターとか、なんかあるだろ」

「うん。一昨日も言ったけど、前の宿主には、ご主人様って呼ばされてた」

「……一昨日も言ったけど、何でよりによってそんな奴をマスターに選んだんだ……」

「一昨日も言ったけど、時間が無かったから」

 さらりと答え、肩をよじ登ってハンプバックが戻って来る。吹けば飛びそうな距離で、ハンプバックが手の甲を使って顔を洗う。セーターを登坂する段階で細かい毛糸がいっぱいくっ付いたらしい。それは、どこからどう見ても猫の所作だった。

「で、フウカって誰?」

「……まだ会ってなかったっけ? 元旦の夜から友人と初滑りツアーとかいう受験生殺しの名を持つスキー旅行に出かけてるから……丁度ハンプバックと入れ違いか」

「実在の妹さん?」

「いや、お隣さん」

「…………」

 ぴたり、とハンプバックの動きが止まる。露骨に嫌そうな顔になって、

「妄想上の幼馴染?」

 と、言ったので、強く息を吹き付けてやった。にゃああ、とか叫びながら転倒し、肩から転げ落ちようとしているところに、腕を伸ばして助ける。

「妄想から離れろ。気色悪い」

「えー、だって、幼馴染は実在しないって前の宿主が」

 うつ伏せの姿勢で左腕の途中に引っ掛かりながら、ぶうぶうと頬を膨らませながら文句を言う。

「だから、偏りすぎなんだよ、お前の知識や考え方は。改め直した方がいいぜ」

「えー、でも、にゃうにゃう言ってれば大抵の男の人は喜んでくれるってのは当たってたじゃん」

「……喜んでたか、俺は?」

「そう見えたけど」

「真実ヲ見極メルチカラヲ持チナサイ」

 呆れてものも言えない。俺は、溜息をついてから、お留守になっていた蜜柑の筋取りを再開する。ハンプバックが再び左腕をよじ登っているのが視界の外れに映る。

「でさあ」

 登頂直前、両腕で身体を持ち上げながら、ハンプバックが尋ねて来た。

「結局フウカって何なのよ?」

 何だか、他の女友達についてを恋人に問い詰めるような言い方だったので、少し笑ってしまった。ハンプバックの幼い感じの声には全く似合っていなかった。

「別に、何だっていいじゃないか」

「何でもよくないよ。これから私は、最低でも一年間はツキトと寝食を共にするんだから。いつでもどこでも一緒なのよ? 感情も一部共有するんだから、これから一年、隠し事なんか一つたりとも出来ないの! 今だって、隠そうとしたって私が本気出せばツキトの頭の中深くまで覗けるんだから、無駄。ほら、白状しなさい」

「そんな能力まであるとは聞いてねえぞ……。契約が終わったらここぞとばかりに強気になりやがって……。要は、自分が楽をしながら楽しみたいってだけだろ……?」

 蜜柑を一房口に含みながら毒づく。左耳の近くで、きししし、というような笑い声が聞こえる。

「もちろん」

「……ったく、良い性格してるぜ」

「だってハンプバックだもん」

「いや、それは何の根拠にもなっとらん」

 ハンプバック。それは詰まるところ彼女の名前であり、それと同時に一つの身体的特徴を現す言葉でもある。日本語で言えば――

「で、フウカってのは?」

 興味津々、といった様子でさらに追い縋るハンプバックに、俺は根負けした。むしろ、別に秘密にしておくようなことでもない。放っておいても一両日中には露見したであろう事実だ。

「同い年の隣人。俺が浪人したから、今は向こうが一学年上だけどね。小中高と一緒だったし、幼馴染っつったらそうなるんだろうが、それ以前に親族だしなあ……」

「腹違いの妹?」

「ふざけろ。いとこだよ」

「……ふーん」

 急に、興味なさげになった彼女は、テレビへと視線を戻してしまった。上半身裸の芸人が熱々のおでんの汁をオーバーなリアクションとともに全身に浴びながら、『謹賀新年』と書かれた巨大なはんぺんを咥えている。正直どうでもいい。

 スタッフの笑い声と、司会の中堅お笑い芸人の笑い声が響く中、暖房の効いた居間には妙な静けさがおとずれた。

「……急に静かになるなよ」

 話題を振るでもなくただ喋ることを強いるという、最も従い難い命令でハンプバックをたしなめつつ、俺には何となく彼女が黙った理由がわかっていた。

「だってさ」

 ハンプバックのぶらつかせる足が、肩にリズムを刻む。

「ツキトが、これ以上はあんまり触れるんじゃねえよって思ったのがわかったし」

 無意識に、やはり、そんなことを考えていたのか。

「いや、別に、一応は決着のついたことだし、俺としては言ってもいいんだけどな」

 結論は、出ているのだ。今更うだうだ言えないような、明確な結論が。にも関わらず、それについて大学受験に失敗するほど引きずり続けたことを、俺はきっとこれからもほんの少し後悔し続けるのだろうし、それを言い訳にして結局医学部志望を諦めたことも後悔し続けるだろう。だが、あれから三年近くが経った。もう、心の整理もついているつもりだった。

「いいよ、別に。私もそこまで鬼じゃない。出会って三日目にして宿主と確執作るのも寄生体としては問題あるわけで」

 少しだけ、ハンプバックの心遣いに感謝した。少しだけだ。勘違いするな。

「宿主と寄生体という認識を改める気はないのか……」

 げんなりしながら、寄生体である小人の横顔を見る。漫画のキャラクターが三次元に飛び出してきたかのようなデフォルメ具合で、三頭身に少し足りない。その道の人が大喜びしそうな外見ではあるが、俺はこいつ本体よりも、オプションのように巻き込まれた課題と、その成功報酬にこそ興味があるのだった。来月の今頃は、小さなことで一喜一憂する、胃に穴の開くような日々を送っていることだろう。

「にゃあああ!」

 突然ハンプバックが奇声をあげ、後ろ向きに引っくり返った。背中側で思うように手が届かず、救出は間に合わなかった。背中を転がり落ち、床にぼてっとそのまま腹から着陸する。左手を回してやると、這いずるように掌の上に乗ってきた。

 テレビを見てみると、相変わらずの爆笑の渦の中、画面全体にモザイクがかかっていた。カメラさんを褒め称える司会者の声と、スタッフの引き笑いの中、どうも芸人の一人が生放送にも関わらず下半身を露出させたらしいことが判明した。「これが俺のハッピーニューイヤーだ」と、わけのわからないことを叫ぶその声には聞き覚えがあり、ハンプバックの贔屓にしている芸人のものだった。

 ぐったりとなっているハンプバックをこたつ机の上に乗せてやると、腹ばいになったままとろけるような眼をして、

「ビデオに撮っておけばよかったにゃ」

「おい、我を失って語尾にまた変なの付いてるぞ」

「あああ、勿体無い……千載一遇のチャンスが……」

 顔を真っ赤に上気させながら、机の上をごろごろと転げ回る。そのまま広告で作ったゴミ箱に横合いから激突して、ようやく止まった。がばっと跳ねるように起き上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら興奮気味に喋る。

「すごかったにゃ! 一瞬だったけど、確かに見えたにゃ!」

「にゃ、やめろ。キモい。あと、普通に考えてそれは放送事故だ。若手芸人なら、その局に出入り禁止になったりするから、全然喜ぶべきことじゃない。極め付けに、そんなことで喜ぶこと自体、人間としてどうかと思う」

「小人だもの」

「うん、まあ、小人のスタンダードを俺は知らないけどね」

 嬉々としてその芸人の下半身の具合を語るハンプバックを意識の外に置き、とりあえず司会者が頭を下げながら謝っているテレビ番組を見ていると、携帯電話が震えた。ズボンのポケットに入っているカメラ付きでないタイプのそれを取り出すと、父親からの着信だった。興奮の収まらないハンプバックを出来る限り遠ざけて黙らせ、通話ボタンを押す。

「もしもし」

「ああ、もしもし、月鳥つきとか、私は守矢守だ」

「うん、父さん、一々本名名乗らなくても全く問題無いから大丈夫だよ」

「いや、父さん最近、月鳥と声が似てるらしくて、よく間違われるんだよ」

「俺が相手なら間違いようがないだろうが」

「……それも一理あるな」

 相変わらずの父親のペースに半ば呆れ、半ば諦めながら、

「それで、何の用? 今日帰れない、とか?」

「おお、その通り。あれ、もしかして父さん、知らないうちにお前に電話してたか?」

「いや、してない。頼むからそこくらいは認識していこうや。この時間にかかる電話って、大概帰れないって内容だから、俺が予想したの。自力で」

 会話を進めるにしたがって、脱力が進んでいく。ふと視線をずらすと、ハンプバックが興奮のあまりおかしくなったのか、蜜柑の山に登って遊び始めていた。

「ははは、そうか。自力でか。そんなわけで、父さんも守矢真樹も、小摩木こまきのところも今日は会社に泊まりになるから、戸締まりに気をつけて火の始末して、安らかに眠ってくれ」

「うん、どうして母さんの名前をフルネームで呼んだのか、その理由が訊きたいくらいで、あとは了解したよ」

「それは勿論、愛して、いるからさ」

 げし、と電話の向こうから誰かが殴打される音が聞こえてきたが、あえて気にしなかった。時を同じくしてハンプバックは蜜柑の山の頂上付近で転倒し、山崩れに巻き込まれた。

「よし、じゃあとりあえず月鳥、今年もよろしくな」

「あ、ああ……おやすみ、父さん」

「おやすみ、月鳥。そうだ、父さんたちがいない上に風花ちゃんもいないからって、寂しくて死んだりしないようにな。そう、あたかも兎のように、あの耳の長いラブリーな――」

 電話を切った。液晶表面に付いた脂を袖で拭ってから、ポケットに戻す。もがいているハンプバックの上の蜜柑を取り除いてやる。

 守矢守。もりやまもる。父親の名前。

 守矢真樹。もりやまき。母親の名前。

 少し名前の出ていた小摩木というのは、隣の、風花の家の苗字である。話せば長くなるが、うちの両親と風花の両親は、コンピューター関係の企業を四人で共同経営しているのだ。所謂ベンチャーという奴で、正月早々仕事に追われている辺りが、いかにもそれらしくて俺個人としては好感が持てる。毎日毎日遅くまで仕事をしていて、どんなに早く帰ってきたとしても十時は過ぎるのが日常だった。だからこそ、昔から隣の家の風花と一緒に食事をとっていたのだが。昨日今日は生憎と一人である。

 そして、守矢月鳥。もりやつきと。俺の名前である。月に鳥と書いて、つきと。正直、ふざけるな、と思う。何せこの名前、隣の家で先に生まれた風花とあわせたら『花鳥風月』になるように、『月鳥』という漢字が先に当てられ、読みをそれらしくつけただけらしいのだ。両親相手に訴訟を起こしたら本気で勝てるんじゃなかろうか。学校で先生にまともに読んでもらえない、というのはまだ良い方で、昔から俺のあだ名は名前の誤読から付けられると相場が決まっていた。つまりは、ゲッチョウ、あるいは、ゲットリ。『ゲットリ君』とあたかも忍者のような呼ばれようで過ごした小学校六年間を、俺は決して忘れないだろう。先生も俺のことをそう呼んだし。ちなみに今の大学の友人は、俺のことをゲットリから転じて『ゲット』と呼ぶ。これはちょっと格好いいので許す。

「ツキト、知り合いに電話して、今の番組撮ってる人いなかったか、聞いてみて」

「謹んで断る」

 そして、ハンプバック。はんぷばっく。俺に寄生している小人の名前である。契約したのは一月一日深夜、つまり正確な日付は一月二日だ。物語は突然始まり突然終わる。俺の物語はたぶん、その時から綴られて、ハンプバックとの契約が切れた時に終わるんだろう。それくらいの劇的な出会いだった。まだ、頭のどこか片隅では、自分の頭がおかしくなったのではないか、と疑っている自分がいる。別に、そうではないことを裏付ける証拠は未だに一つも無い。妄想上の妹、妄想上の幼馴染、そして妄想上の小人。存在なんて、疑い出したらきりがないのかもしれない。我思う、故に我あり、だったか。我だけじゃなくて、大抵のものは自分がその存在を信じているからこそ、そこにあるのだと思う。心霊写真と言われたら、何でもない場所に人の顔が見えてしまうように。この世界の全てが自分の妄想でしかないとしても、自分はその中で生きていくしかない。小人だって、これっぽっちも実在を信じていなかったが、いざ目の前に現れられたら、これはもう、受け入れるしかない。誰にも話せないが。

「どしたの? ぼーっとして」

 顔に対しての比率が大きい円らな瞳をぱちくりと動かして、ハンプバックが小首を傾げている。その動きの全てが、前のマスター……宿主に仕込まれたものらしい。他にも、婉曲に言えば、極めて内向的傾向を持ついい歳した人間が、熱く滾る欲望やら長年に渡る邪な思いの丈をぶつけて考え出した数々の技術や思想を、その小さな身体いっぱいに吸収しているようだ。憐れといえば実に憐れ。頭痛を隠しながら、俺は言葉を返す。

「いや、何。世界の広さを再確認していたところ」

「ツキトって時折、気持ち悪いよね」

「お前に言われるようになったら、俺も終わりだ」

 手の甲で猫耳を掻いているハンプバックの様を見つめ、溜息をつく。俺はもう駄目かもしれない。半年も経ったら、こいつに対して性的な興奮を覚えるような性癖の人間になってしまうかもしれない。三次元から二次元へと嗜好がシフトしていくかもしれない。一日中部屋から出ずにパソコンの前から離れない色白で細い人間になってしまうかもしれない。全国のそういう人間を敵に回してもいい。とにかく、俺は嫌だ! そんな風にはなりたくない。俺はただ、ただ、自分に分相応な幸せを手に入れられればそれでよかったんだ。どちらかといえば普通か特殊かと言われたら普通側の人間でありたかったんだ。『萌える』という単語を原義のままでしか使用しない人間でいたかったんだ。

 俺のせいではない。こんな、駄目主人公の元に可愛い女の子が転がり込んできてどたばた劇を展開するような、漫画みたいなことを望んだ覚えなど一度も無い。流れ星が降って来た時も、俺の願いはキャッシュで一千万、だけだったはずだ。初詣に行った時も、宝くじが当たれとしか願っていない。猫耳猫尻尾のついた小人が家にやって来るような宝くじを引いた覚えは無い。何の願いが叶った結果だというのか?

「ツキト、そろそろお風呂入ろうよ」

「……お前、基本的に男の裸とか好きだろ」

「小人だもの」

「だから知らねえって、そんなスタンダードは」

 新しい種類のペットを飼い始めた、くらいに思えばいいのだろう。都内の高級マンションである我が家では、本来ならペットは厳禁だ。だが、餌も要らず、トイレの世話も必要なく、やかましく吠える心配も無く、普通の人には姿が見えないらしい小人は、一切問題ない。ひと時も離れることなく一緒にいてくれる、癒し系の伴侶動物。達者に人語を喋ることが玉に疵。つまりは疵だらけだが。

 俺は、ハンプバックに促されるまま立ち上がった。彼女は素早く俺の右腕を駆け上り、定位置である肩の上を陣取った。こたつの中で長時間同じ体勢だったので、一度大きく伸びをする。と、長い爪で頬を引っ掛かれた。

「痛、何すんだよ」

「伸びちゃ駄目」

 思わず閉口する。そういえば忘れていた。こいつはハンプバックだった。はあ、といつも通り、力無くうな垂れる。身長一八三センチメートルでありながら、一七五センチメートルの高さの扉を難なくくぐれてしまう俺の、その丸い背中を眺めながらハンプバックは満足そうに頷いた。やれやれだ。

 ハンプバック――首が前方に屈み、背が丸くなっていること。

 日本語で言えば、つまり――猫背だ。

 屈託の無い笑顔で俺をバスルームに導こうとしている彼女こそ、人格基礎一〇八属性七七番『猫背』担当上級守護小人ハンプバック。そして俺は、猫背適格正式契約者、通称『猫背の主』あるいは『猫背王』守矢月鳥。

 実社会でこの通称を呼んだらまず間違いなく殴るだろうが、それが今、おそらく世界で最も困難な課題に立ち向かおうとしている俺達の正体だ。

 降って湧いたような災難で、普通側の人生から見事に滑落した憐れな男を笑ってくれ。静かに入浴出来ていたあの何でもないような日々が、今思えば幸せだったのかもしれない。来年の今頃も、俺は俺でありますように……。そして、笑っていられますように。……願うことしか今は出来ない。

 まあ、きっとどうにかなるさ。そうに違いない。そう信じたい。じゃないと終いには泣くぞ、ほんと。

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