事故から一週間が経過した。変化のない日常。塾には通い続けている。学校にも行っている。誰にも不審には思われていない。公園での事故は三日もしないうちに、塾でも話題にも上がらなくなった。


 今日は由美に会いにいく。二週間くらいは会っていなかったので、少しだけ心が浮いている。日に日に元気になっていく由美を見ているのは、やはり嬉しくなる。病室に向かうべく、廊下を真っ直ぐに進んで、階段に向かった。内気な日向は使用率の低い階段を好んで使う。普段通り人がいない、と思ったら見知った顔があった。本を読みながら階段を降りる姿は、彼女のイメージ通りに思えたが、今日ばかりは嫌悪を抱いた。


「あら、日向くんじゃない」


「愛木……さん」


 愛木は読んでいた本を閉じると、「こんなところで会うなんて、偶然ね」


「そうだな」


「誰かのお見舞い?」


「まあ、そんなところだけど」


「そう。それじゃあ。また塾でね」


 愛木は早々に立ち去っていくが、日向の足取りは重くなった。病室に入ると由美はベッドから体を起こして、熱心にプリントを見ていた。おそらく愛木に渡されたものだろう。


「久しぶりだね。元気だった?」


「病人に心配される筋合いはないよ。それよりもそっちは元気か?」


 由美は微笑んだ。


「もうすぐ退院だし。めっちゃ元気だよ。早く学校に行きたい」


「元気なら何よりだよ」


「そう言えば、愛木さんと同じ塾に通ってるんだね。さっきまでいたんだよ」


「愛木さんか。そう言えばさっき見かけたよ」


 誰かのお見舞いなんてよく言ったものだ。愛木は特に何も言ってなかった。日向と由美の関係性には辿り着けなかったのだろう。


「そうなんだ。話しかけたの?」


「いいや。そんな気分じゃなかったから」


「日向ってそうよね。相変わらず自分からは心を開かない。肝心なことは何も話さないし、一人で抱え込む」


 由美の言葉が、心にのし掛かる感覚があった。日向は言葉を選んでいると、「それは、そうと」由美が続けた。


「愛木さんから聞いたんだけど、また事故があったんでしょ」


 由美は視線を逸らしながら言う。


「あったよ。けどもう解決したんじゃないか。話題にもならないよ」


「故意的な可能性があるみたいね」


「愛木が言ってたのか? 由美が思い悩むようなことじゃないよ」


 そんな余計なことを言うのは愛木しかいない。由美は知らなくていい。


「うん。それでどうなの?」


 問いの意味を考える。由美は勘繰っている。愛木に何か吹き込まれたのかも知れない。それならどうして愛木が、由美に余計な入れ知恵する必要があるのか。日向の中で到達する答えは単純であった。愛木は、日向が故意的に事故を起こしたと察している。だから由美に積極的な接触をしているのだ。そう思うと日向は、顎に力を入れいていた。


「事実だけど。由美が気にすることじゃないよ」


「そんなことはないよ。故意的に事故を起こすなんて最悪。もっと方法があると思う。やり返すようなやり方は違う」


 明言はしなかったが、由美は理解している。日向は億劫な足取りで帰路に向かった。


 

 翌日。早朝のバイトを終えた日向は、手に入れたばかりの原付に跨った。今日が最後の出勤だと思うと、少しだけ寂しい気持ちになるが、目標は既に達成された。このまま学校に向かう。原付登校はさすがに校則違反なので、マンションの駐輪場を無断使用している。誰かに見れないようにしたいので、普段は通らないルートを探すのも一苦労だった。上着を着ていても違和感がない季節であることも幸いして、この日まで誰にも気づかれなかった。こればっかりは運がいい。


 目的のマンションに到着すると日向は、原付を押して駐輪場に向かった。原付は盗品なので、このまま放置するつもりだ。駐輪場に背を向けると、目の前には見知った顔があった。冷たい目をした美女である。愛木だ。今日ほど彼女が冷たくて、怖い存在に思えた日はなかった。


「こんなに朝早くからご苦労ね」


「愛木さん。どうしてこんなところに」


「由美さんに頼まれたの。あの事故はもしかしたら日向くんの仕業ではないかと心配してから」


「由美が? どうして」

 

 心の声を口にしていた。日向には自信があったはず。あのトリックが暴かれるはずがない。何かミスがあったのか。ない。ないはずだ。それにどうして由美が?


「由美さんが日向くんの様子がおかしいと溢してから、私は君に着目するようになった。最初に変だと思ったのは公園で通り過ぎた原付に異常なくらいの敵意を見せたこと。あの目付き。まあ。いわゆる直感なんだけどね。それから事故が起こった日、普段はあんまり参加しない自習の時間に君はトイレに向かった。それはいいんだけど、枯れ葉をつけて戻ってきたの。変じゃない? その後に事故が起こっていることが判明する」


「ただの偶然だろ」


「そう。私も偶然だと思った。けど君についていた枯れ葉って、あの公園にしか植えられてないものなのよ」


「初めからついていたんじゃないのか。言いがかりだ」


「いいえ。はじめはついていなかった」


 揺るがない強い意志を感じた。愛木の瞳は冷たくて、強烈な自尊心を垣間見た。


「わかった。愛木さんの意見を聞こう。けど塾には監視カメラがあると思うんだが、僕は映ってないと思うがそれはどう説明付ける?」


「映像には残ってなかったわ。無理を言って映像を確認させてもらったけど。まあ、当然よね。君はトイレの窓から外に出てんだから」


 監視カメラがあることは事前に調査をしていた。映像と言う絶対的なものに映らなければ、アリバイは完璧だ。愛木の意見は正しいが、それを証明することはできない。日向は逃げ通せる自信があった。それに「トイレから出たとして、どうやって公園に行ってから、戻ってくるんだよ。不可能だろう」


「そうね。公園までは歩いて10分は掛かる。日向くんがいなかったのは僅か10分。どう考えても不可能なのよね。このアリバイを崩すにはどうすれば? 自転車なら行けるかもって思ったけど。とんでもない体力が必要になるからあんまり現実的じゃない。けど原付なら行けるでしょ」


 愛木は指を差した。先にあるのは日向が跨る原付であった。


「それに監視カメラは何も塾だけじゃない。例えばドライブレコーダーとか、コンビニのカメラとかね。実はあの時間に君が今着ている上着を着た人物が、その原付で走り去る姿を監視カメラでおさえることには成功しているのよ」


 日向は混乱していることを否めない。徹底的に監視カメラを調べたのか。そこまでする必要があるのだろうか。ない。どうして愛木がそこまでするのか。理解に苦しむ。フェイクの可能性の方が高い。これは願望かも知れない。冷静な判断力が失われていく。


「その原付はこのまま放置するんでしょ。その方がいいわ。警察が本気になったら、私以上に徹底的に調べ尽くすだろうから。けど安心してね。由美さんにはまだ断言はしてない。可能性を仄めかしてる段階だから」


「やめてくれ。由美の名前を出すのは」


 由美に知られるのは、日向のとって最も恐れることだった。不安と焦燥感が日向を弱気にさせた。


「その心の変化は認めたも同然よ」


「わかった。僕がやった。これで満足か」


 口にした瞬間に何かが弾けた。汚物を吐き出した気分だった。爽快感もある。


「素直に認めた君に免じて私も真実を話しましょう。公園の枯れ葉とか、監視カメラの映像はデタラメ」


「なんだよ。やっぱりそうなのか」


「けど。由美さんが君の両親から原付の免許を取ったことを聞いたみたいで、乗せてくれると楽しみにしてたわ。この話を聞けたからこそ、君のアリバイ工作を瓦解する方法を思いついたんだけどね」


「そうなのか」


「だからバイトのお金で自分の原付を買うことね。ぜひ由美さんを乗せてあげてね」


「それで由美には話すのか?」


「いいえ。こんな小さな事故に意味はないわ」


 日向は唖然として、言葉を失う。


「日向くん。君が犯した過ちなんて大したことないのよ」


「どうしてそんなことが言えるんだ。僕は人を殺していたかもしれない。何なら死んでもいいと思ってた」


「私もね。本気で殺意を抱いて、実行したことがあるのよ。結果も思惑通り、それに比べたら君の過ちは小さいことよ。だから私は今回の一件は見なかったことにするわ。だけど由美さんを悲しませるようなことは、今後絶対にはしないと約束して欲しい」


「わかった」


 日向は愛木の告白を簡単に信じることはできなかった。何を目的にする発言なのか。発言の意味。日向には理解ができなかった。だけど彼女の寛大な対応には感謝した。


「ただ、最後に聞きたいのだけどいいかしら」


「答えられる範囲でなら答える」


 愛木は振り返って、真剣な眼差しを向ける。これまでのやり取りが序章のようで、ここから本題と言わんばかりの表情だ。


「この原付は誰かが盗んだものを譲り受けたのよね?」


「短期間しか使わないからちょうど良かったんだ。まあ、新品同様の値段になったけど」


「その人の名前は覚えてる? もしかしてクス……」


「いいや。人伝に入手したからよくわからないんだ。何人も間に入っているみたいで」


「そう。ならいいわ」


 愛木は心残りを飲み込んだように、破顔する。忸怩たる思いを隠すようにも見えた。早朝の話し合いを終えると二人は、何事もなかったかのように学校に向かう。日向の足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。

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