第十九話 重圧

 師の元を足早に去ったセレスティーヌは、中央庭園の見えるバルコニーで火照った体に夜風を当てていた。湿り気を帯びた風に若草色のドレスをはためかせ、彼女は物思いに耽る様に庭を見下ろしている。


「セレス」


 不意に後ろから声を掛けられ、振り向く王女。その視線の先には、セレスティーヌとは対照的な茜色のドレスに身を包んだ娘が立っていた。


「姉様、先に休まれているかと思っていたわ」

「何だ? つまり、あたしが社交的じゃないって言いたいのか?」


 セレスティーヌの姉、つまりは第一王女フィオレンティーナは葡萄酒の入ったグラスを片手に妹の傍へと歩み寄る。

 そして、手にした赤紫色の液体を飲み下すと欄干にもたれ掛かった。


「……だいぶ酔っているわね」

「だから何だって言うんだ? 文句でもあるのか?」


 紅潮した顔で話すフィオレンティーナはその据わった瞳をセレスティーヌへと向けると、しばらくの間、姉妹は黙ったままお互いの蒼い瞳を見つめ合っていた。二人の沈黙に気圧されたのか、一時、風さえも止む。

 そして、汗の滴がセレスティーヌの首筋を伝うころ、ようやく彼女は視線を外して口を開いた。


「で、何の用なの?」

「随分と冷たいな。単に、おめでとうと言いに来ただけだよ」


 皮肉っぽく笑みを浮かべたフィオレンティーナは、空のグラスを持ったままバルコニーの外を向いた。


「無事に終わって良かったな」


 どこか含みのある姉の物言いに、セレスティーヌは僅かに眉をひそめた。そして隣に歩み寄ると、ため息の後に言葉を続ける。


「お母様の事、まだ引きずっているの? いい加減に前を向くべきですわ。お母様もそれを望んでいるんじゃないかしら」


 すると姉は直ぐに振り向き、顎を引き気味に口を開いた。


「そうか、お前も母様を忘れろって言うのか」

「そう言ってるんじゃないわ。死んだ人間をいつまでも想っていても何も変わらないと言いたいの」


 姉の言葉に反論するセレスティーヌ。するとフィオレンティーナは眉間に深いしわを刻むとおもむろに口を開いた。


「じゃあ、もしも死んだ人間が蘇るかもしれない、って言ったらどうする?」

「えっ?」


 あまりにも唐突な言葉に、セレスティーヌは返事もろくに出来ずに驚きの声を上げた。


「誕生日の贈り物にしちゃ悪趣味な物になりそうだが、ちょっと付き合ってもらうぞ」


 フィオレンティーナはグラスを欄干に放置し、自室へと歩き出す。

 姉の言葉の本意を知るべく、早鐘を打つ胸を押さえながらセレスティーヌはその後を追った。




 扉が閉まった後に鍵の掛かる音がする。

 窓は締め切られていたが、王族や貴族といった上流階級の者たちが愛用する、空気を操る術の仕掛けられた調度品のお陰で、部屋の内部は外よりも涼しく、過ごしやすい環境が保たれていた。

 飾り気の無い部屋、フィオレンティーナの自室に据え付けられた本棚には、手垢の付いていない小難しい本が隙間無く並んでいた。


「心の準備は良いか?」

「え、ええ……」


 棚の前に立つフィオレンティーナとセレスティーヌ。姉は勿体ぶるような台詞の後に、中段の分厚い本を三冊抜く。

 だが良く見れば、その本は背表紙だけの張りぼてで、その奥には小さな宝石箱のようなものが隠されていた。

 そして、その箱――簡素な宝石箱のようと形容出来る形状ではあったが、色は鈍色であった――を手にしたフィオレンティーナは書斎机にそれを置き、椅子に腰掛けた。傍らにはセレスティーヌが立ち、彼女の手元の箱に視線を向ける。


「姉様、早く開けて欲しいのだけど」


 第二王女は、何かに躊躇っているかのようにも感じられるゆっくりとした姉の動きに、思わず催促の言葉を掛けた。

 けれども彼女は何を言うわけでも無く、自身の調子を保ったまま手元の箱をおもむろに開いた。固唾を飲んでセレスティーヌもそれを見守る。


「……宝石? それとも感応石の類かしら?」


 飾り気の無い蓋が開くと、血の様に紅い宝石が仕舞われていた。セレスティーヌは拍子抜けしたかのような声色で質問したが、フィオレンティーナは未だ沈黙を守ったまま、その宝石を手に取った。

 そしてようやく口を開くと、手にしたものを妹に手渡した。


「自分で確かめてみろ。これに意識を集中させれば全てが分かる」


 恐ろしいまでに落ち着き払った姉の様子は、普段の粗雑な振る舞いをする彼女からはとても想像が出来なかった。

 僅かに怖れを感じながらもセレスティーヌは言われた通り、ゆっくりと瞼を閉じると宝石に意識を向ける。


「っ! これは!?」


 手にした宝石をこぼれ落とした彼女は、肩を震わせながら姉に視線を向けた。


「何が見えた?」

「そんな……、まさか、お母様……」


 質問に答える事無く、というよりも答えられずに表情を強張らせるセレスティーヌ。

 長い毛足の絨毯に埋もれた宝石を拾いあげたフィオレンティーナは、それを持ったままおもむろにソファに腰掛けた。


「それは、一体何なの?」


 喉から絞り出すかのように言った声は震え、セレスティーヌの困惑は誰が見ても明らかだった。

 けれども、そんな妹の反応に驚きを見せる事無く、表情を変えずにフィオレンティーナは口を開く。


「その感応石を作ったのはジェラルドだ。そして、それを頼んだのはあたしだよ」

「……っ!」


 唐突に出された師の名を聞くと王女は言葉を詰まらせたが、姉は眉一つ動かさずに淡々と話を続けた。


「あの日、あたしの成人の日の事だ。母様は深い傷を負って、助からない事は明白だった。いくらこの国で最高の術士と言われるジェラルドの癒しの術を以ってしてもそれは覆せなかった……あの禁術を使わなければな」


 一度言葉を切ったフィオレンティーナは、小さく息を吐くと俯き加減になって話を再開する。


「恥ずかしい話だけど、あたしは泣いて奴に頼み続けた。母様を救って欲しい、あたしに出来る事なら何でもすると。そうしたら、奴は、ジェラルドは難しい表情で言ったんだ、――魂を他の器、例えば限りなく純度の高い感応石の様なものに一旦移す事で、取り敢えずは母様の命を、魂を留める事が出来る。けれども、その魂を肉体を伴って復活させるにはまだ研究が足りない。だが禁術の、魂そのものを扱うような術は、使う事も研究する事も公には御法度だ。だからこれから行う術についてはジェラルドとあたしだけの秘密にして欲しい――とね。そして……」


 今一度言葉を止めるフィオレンティーナは、ため息と共に顔を上げるとセレスティーヌの瞳を見つめる。その顔には後悔もしくは憤りにも似る、強張った表情だった。


「奴は、あたしが女王に即位したら禁術の研究を公式に認める事と、アルサーナの秘術に奴が触れる事を許可するよう事を求めて来たよ」

「そして姉様は先生と約束をしたのね」


 言葉を被せる様に口を開いたセレスティーヌ。その口調にはどこか侮蔑の念が込められていた。


「……そうだよ。だがお前が、あの時のあたしだったら断れるか!?」


 妹の言葉に苛立ちを覚えたのか、一瞬フィオレンティーナは語気を強める。

 けれども、直ぐ様に冷静さを取り戻すと、僅かに潤んだ瞳で手の平の上の宝玉を見遣った。


「いや、軽率な約束を自身の立場もわきまえずにした、あたしが悪かったんだ。いくら母様の為とは言え、一国の決まりを曲げるような約束をしたあたしが……」

「……それでお母様は、禁術はどうなりそうなの?」


 唇を噛む姉に、セレスティーヌは落ち着いた声色で言葉を返す。


「さあな、見当もつかないよ。あたしが即位しなけりゃ、奴は大手を振るって禁術の研究を出来ないしな。もっとも、ジェラルドの最大の関心は禁術の事ではなくて、自分が政局に大きく影響を与える事なんだろうが」

「と言うと?」

「母様が死んだ後、親父は腑抜けになっちまった……、元から良い王だったとは思えないけどな。そこに付け込むかのようにジェラルドが取り入って、政権を動かしている話はお前も知ってるだろ」


 師を批判されるような発言を受けた姫は、眉をひそめて言葉を返した。


「一部の臣下はそう言っているわね。でも、それは父上を補佐する宮廷術士長という立場にある先生としては当然の行いでなくて? 付け込むという見方はあまりにも悪意のある穿った見方よ」

「あくまで奴を庇うか。じゃあこういう話はどうだ? ジェラルドには十五になる娘、ちょうどお前と同い年だな、が居る。その娘を親父の後妻にしようとしているという噂もあるぞ。娘が子を産めば、その子にも王位継承権は発生する。そしてあたしとお前が消えれば、子が赤ん坊だろうと王になれる。もちろん子供に政治は出来ないから、摂政が就くはずだが、その時には誰が就くんだろうな?」

「……何が言いたいのか分からないわ」


 語気を強めるフィオレンティーナに対して、セレスティーヌは上目遣いに口を開いた。


「結局の所、ジェラルド・アルフォン・ガルニエという男は自分が権力者になりたいだけの強欲な男なんだよ! 奴は自分が権力の頂点に立ちたいからと、あたしやお前や、自分の娘も利用するような奴だ! もしかすると母様を殺した刺客を送り込んだのだってジェラル……」

「やめて! 姉様の話はみんな推測じゃない! 先生はそんな邪な人間じゃないわ!」


 感情を爆発させるかの様にセレスティーヌは叫んだ。それは母の魂に触れた動揺からか、それとも師を、想い人を罪人の如く言われた怒りからか、彼女自身にも分からなかった。

 それでもフィオレンティーナの言葉は止まらなかった。自分よりも優れていると持て囃される妹への嫉妬からなのか、あるいは愛情からか、激しい言葉が彼女の口から次々と飛び出した。


「目を覚ませセレス! 自分が利用されている事に気付け! お前は確かに努力家で真面目で、皆からの評判だって良い! でもそれはお前の存在を利用しようとしているに過ぎない! 殊にジェラルドはお前の事を良い様に操って、国を私利私欲の為に扱おうとしているのが分からないのか!?」

「私は利用なんかされてない! それに先生は言ったわ、優れた為政者が国には必要で、それが民の為だと! 私も先生も自分の為でなく人の為に在りたいと願っているの! 姉様みたいに自分の事だけ考えて周囲を不幸にする人間とは違うのよ!」


 負けじと怒鳴り続ける妹に対し、フィオレンティーナは失望とも悲しみとも取れる表情を浮かべた。

 そして弱々しく開かれた口からこぼれた言葉は、いつの間にか降り始めていた雨音にかき消され、セレスティーヌの耳に入る事は無かった。

 それ以上、姉と言葉を交わす事無く、セレスティーヌは部屋を飛び出していた。




 雨音が響く王宮内をセレスティーヌは早足に抜けていく。その彼女の頬には涙の筋が幾重にも伝っていた。

 その涙は、過去に囚われ、妄想にも似た推測で師を貶めた姉への怒りか、それともそんな姉を支え、守るべく鍛錬を重ねた自分の馬鹿さ加減に対する自嘲か、はたまた両方か。

 時折、乱雑に涙を拭いながら廊下を進むセレスティーヌだったが、そんな彼女の瞳に二つの人影が映る。

 その人影の一つは自身の父、アルサーナ国王。そしてもう一つは、随分と華奢で小柄な輪郭の人物。

 咄嗟に柱の陰に身を潜め、セレスティーヌは目を凝らした。壁に掛けられた灯りに照らされ、ようやくその顔がはっきりと見える。国王の傍らでその肩を抱かれるのは、先の話にあったジェラルドの娘であった。

 そして二人は絢爛な細工の施された扉の向こう、国王の寝所へと姿を消した。

 セレスティーヌは全身に震えが走るのを感じた。姉の妄想は真実かもしれない。それと同時に父親への嫌悪の情が湧きあがる。

 しばしその場で立ち尽くす彼女だったが、やがておぼつかない足取りで歩みを進める。扉の前を通った時、降りしきる雨音が消しきれなかった若い娘の嬌声が聞こえたような気がしたが、もはやそんな事はどうでも良かった。




 眩暈と軽い吐き気に苛まれながらも姫は自室前までようやく辿り着き、飾り気の無い、暗い茶色の扉に手を掛けた。


「セレスティーヌ様、探しましたよ」


 その時、焦心の彼女に声が掛かる。声の主は渦中のジェラルド。

 普段のセレスティーヌであれば心の拠り所となる彼も、今の彼女にとっては疑心の対象にしかならなかった。


 ――早く一人になりたい、頭の中を整理したい、心を落ち着けたい。


 姫の願いと裏腹に、ジェラルドはその吐息が感じられる程に距離を詰めると、甘く囁くよう話し掛けた。


「改めておめでとうございます。本当に強く、賢く、そして美しく成長なさりましたね。まるでお母上の、アンジェリーヌ様の生き写しだ」


 今しがたの、彼に淡い恋心を寄せていた娘のままであれば、セレスティーヌはこの行為に頬を赤らめていただろう。

 だが今の彼女には、ジェラルドの言葉は自分の想いを見え透いた打算づくの言葉にしか思えないばかりか、彼自身の存在すらも、自分を利用し、権力欲と、あまつさえ肉欲をも満たそうとしている汚らわしい存在にしか思えなかった。


「もう休ませてもらいます、疲れていますので……」


 露骨な嫌悪を表に出さぬよう、顔を逸らすセレスティーヌ。その彼女の仕草を恥じらう乙女と思ったのか、ジェラルドは姫を抱き寄せるとその唇を奪おうとした。


「っ! やめて下さい!」


 半狂乱に師を突き飛ばしたセレスティーヌは、部屋へと逃げ込むと鍵を閉めた。

 そして、備え付けの洗面台で胃の内容物をぶちまけると、その場にへたり込む。あまりにも残酷で薄汚れた成人の儀に、少女の精神は崩壊寸前だった。

 母の死後、奔放で無責任に振舞ってきた姉から聞かされた、妄想と思いたくなるような言葉を証明するかのような出来事が続き、セレスティーヌの思考はこれ程なく混乱していた。


 ――辛い、逃げたい。


 姉が成人したあの日に眼前で起きた惨状。そんな残酷な現実に打ち勝つために、不幸から皆を守るために努力し、自身を高めてきた彼女。


 ――守るべきものなど本当にあったのか。

 

そんな想いが駆け巡った直後、娘の身体は頭で考えるよりも先に動いていた。換金出来そうな衣服や装飾品をまとめ上げると、ベッドのシーツにそれらをくるむ。

そして、戦闘訓練用の装束に着替えると愛用の長剣を腰から提げ、姫は土砂降りになった雨の中、宮廷を抜け出した。


もはや彼女に、王女として、人の為に生きるだけの気概など無くなっていた。

そこに居たのは、打ちのめされた少女だけだった。




 ――ひと通り話し終えたエリーはカップに唇をつけた。


 ミーナとジェフはそのあまりにも浮世離れした内容に言葉を発することが出来ずにいた。

 その時、不意に扉が開き、三人の元に公爵の従者が姿を現した。


「閣下がお呼びです」


 破られた沈黙はミーナとジェフにとって、もしくはエリーにとっても助け船だったのかもしれない。

 三人は従者に連れられ、オリヴィエ公の元へと足を運んだ。

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