きょうめん

ヤチヨリコ

きょうめん

 冬という季節はどうもいけない。曇天ばかりで気が滅入るのか、あるいは、厳しい寒さゆえ人恋しくなるのか、思いもよらぬ人からの便りがよく届く。とはいえ、待ち人であればそれでよい。しかし、顔も忘れた頃になって届く大して親しくもない人からの便りはなんともはた迷惑なものである。


 岡本という男はそのような手紙をよく送りつけてくる人である。徒然を慰めるかのように、些末な日常のことやふと思い至ったこと、それから誰それが誰とどういう付き合いをしているか、というような噂話を書き連ねてそれが何枚か集まったら、私の意思など無視してある日突然送りつけてくるのであった。


 相変わらず今冬も他の人の寄越したのに混じって岡本のもあった。最初の二、三枚は例年通り田舎の方に行くだとかそんな当たり障りのない事柄が書かれていたのだが、ある女についての記述が増えてくると様子が変わってくる。


 まず、私は、どうもこの女はかなりの世間知らずらしいぞ、と思った。


 女、清女は生まれが山間の辺鄙なところにある村だとかで、時計や万年筆だのを指さして、「これはなんですか?」とたずねたのだそうだ。岡本は笑って、「これは時計ですよ」「これは万年筆ですよ」と教えるのだが、清女は首をかしげて「時計とはなんですか」「万年筆とはなんですか」と聞き返してくる。

 岡本もこれはおかしいと思ったらしい。村中の人に時計を見せて回ってみたのだそうだ。しかし、時計の名前を言える人はいなかった。同じようにして万年筆を見せて回ったものの、やはり名前を答えられる人はいない。その上、今の総理大臣は誰かとたずねても、総理大臣とは何かすら知らない者ばかり。


 やがて、岡本はこの村にはおかしな風習があるのに気づいた。老人も子供も、男も女も、みんな揃って面をつけているのである。


 ある時、岡本が清女に「何故、顔を隠すのですか」とたずねた。

 清女は「知りません」と一言だけ言うと、何かを隠すように口ごもった。岡本が顔を近づけて清女の面を剥ごうとすると、清女はその手をぴしゃりと払って、さめざめと泣き出した。

「あなたはわたくしが憎いのですか」

 岡本は「いいえ、いいえ」と繰り返した。面から覗くのは赤く泣き腫らした目元。嗚呼、顔が見たい。その面を外せば、さぞかし美しい顔が待っているのだろう。岡本は思う。

 しかし、岡本が清女の面を外すことはなかった。


 岡本は道の途中で清女と別れると、冬が近づいているのに気づいた。この村を訪れたのは真っ赤な紅葉が山を染める頃だったというのに、今となっては日がすぐ暮れて、木には枯れ葉が目立ち、枯れ草や落ち葉が道を埋め、冷たい空気が岡本の肌を刺した。


 そんな時、清女の姿が岡本の頭に思い浮かんだ。いつかは帰らなければならない。いや、清女を置いていくことができるのか。あんな、ものを知らない娘を。いや、あの程度の女くらい世間にいくらでもいるじゃないか。いや、いや、いや、考えが浮かぶたび何度も何度も否定した。


 ついには世間にはとてもじゃないが口外できない、そんな非常識な考えばかりが浮かぶ。攫ってしまえ。二人で逃げてしまえ。岡本は清女の寝床に忍び込み、それを決行した。

 もとより手に触れることすら許されぬひと。手に入れることすら夢のまた夢。恋することすら、嗚呼、嗚呼……。


 岡本はどうにも自己陶酔が過ぎるきらいがあり、また、妄想癖もあった。だが、その女々しさというか弱さがどうにも女を惹きつけるようで、その上、岡本は一度見たら忘れられぬ、蠱惑的な美貌の持ち主であった。故に、清女とやらもそれにやられたのであろうと、私は推測する。

 ともかく、私にとっては過ぎたことである。


 岡本と清女は逃げた。互いの顔すらわからぬ暗闇を、吐く息も白い冷たさの中、逃げた。逃げ続けた。着物の裾は土で汚れ、清女の傷一つなかった柔らかな手は、慣れない水仕事で町娘の手のように傷ついた。

 はじめは慣れない仕事ばかりで消沈していた清女も、岡本が何度か叱責するうちに妻としての自覚が芽生えたらしい、と続く。


 逃避行は雪が降る頃まで続いた。深々と降り積もる新雪。吐く息すら冷たく凍る、冬だ。


 パチ、パチと囲炉裏の中に埃が落ちて、燃える。

 清女がもう眠ると言うから、岡本は火の番をしていた。このような仕事を男にやらせるとは何たる役立たずか。嗚呼、僕はなんてことをしてしまったのだろう。こんな娘を世間様に顔向けできないようなことを、何故。

 清女程度女なぞいくらでもいるじゃないか。それに何だ。その汚らしい面は。醜い。醜い。醜い。嗚呼、こんな醜い女なんて……。


「わたくしはもう嫌です」

 清女はさめざめと泣くばかりで事情も話さない。これは都合がいい。いや、待てよ。清女の顔も見ないうちに別れていいものか。いや、夫婦なのだ、勝手に見たっていいだろう。寝所で夫に顔も見せぬ妻なぞいるものか。


 清女のすすり泣く声がやんだ後、岡本は清女のそばに寄って行って、清女の顔を見た。紐を解く。面を剥ぐ。嗚呼、これは損をした。こんな女のために僕は法を犯したのか。これじゃそこらにいる女を妻にしたほうがよっぽど良い……。


 夜明け前、清女は目を覚ますと、「面はどこですか」と尋常でない様子で周りを見渡した。

 岡本は「鬼が来て君を攫おうとしたから、面をとって、それを君だと言ったんだ」と嘘をついた。面なら捨てた。ものを知らない、世間知らずの小娘だ。この嘘を暴き立てるほどの頭はない。岡本は思った。

 清女は「そうですか」と呟いて、それっきり黙り込んだ。


 岡本は日が昇る前にこの峠を抜けようと言って、黙り込んだままの清女を背負って歩いた。川に差し掛かると、舟が一艘船着き場に繋ぎっぱなしになっていた。これはいい。これに乗って、川を渡ろう。清女を舟に乗せると、岡本も乗り込み、こそこそと漕ぎ出した。


 半ばに差し掛かった頃だった。岸にぼんやりと松明が燃えている。

 清女が「鬼です」と騒ぎ始めた。あまりにも騒ぐので、「魚でも見ていなさい」と岡本が言うと、今度は「この女は誰ですか」と騒ぐ。

 遠くから「おういおうい」と低い声がする。

 これは清女の言う通り鬼なのかもしれないと岡本は思った。

 清女を囮にしよう。鬼とやらは女の死肉を好むらしい。清女を殺してしまえば、これで事が済む。

 岡本は清女の腹を小刀で刺すと、一目散に川に飛び込んだ。一息遅れて、清女もぼちゃんと落ちてきた。


 岡本は清女を見て、嗚呼、鬼だ。と思った。血の気の失せた顔は僕を見つめ、僕は、嗚呼、嗚呼、僕は。鬼だ。歪んだ顔の、鬼が僕を見ている。

 と、岡本が語る。


 私が返事を書こうと迷っているうちに、本人が私を訪ねてきた。あの美貌は失われ、顔は恐怖に歪んでいる。


「筒井筒の女を訪ねてきてはいけないかい」

「清女を忘れたのかい」

 私がたずねると、岡本は答えた。

「今も夢で見ているよ」

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