第2話 彼女がバットを振ったわけ

 カタカタと。

 自転車の車輪の回転する音が夜の通学路に広がる。

 住宅街の下り坂。

 六月。今年は雨が少ない空梅雨だ。

 十九時の薄暗い夜空。高温多湿で連日記録的な不快指数を示している。


「いや~まだ暑いね」


「そうだね」


 寝苦しい。暑苦しい。汗をかく。

 子供の頃は外を遊び回っても気にしなかった。

 最近は異なる気持ち悪さで気にしていられなかった。

 夏はこんなにも不快だったんだ。

 懐かしい幼馴染との下校が、正常な感覚を呼び起こしてしまった。


 自転車を押しながら横目で伸びをするナツメちゃんを見る。

 通学カバンからはみ出している金属バットのグリップ。

 人殺しの凶器だ。

 タオルで拭われているがカバンの中の部分にはまだ血液が付着している。


 周りに人が全くいないわけではない。

 他の人から私達はどう見えるのだろう?

 女子野球部。それともソフトボール部員とそのマネージャーだろうか。

 正解がわかる人なんていない。

 人殺しと性的犯罪被害者なんて思いつきもしない。

 放課後一緒に下校するただの女子高生二人。あり得たかもしれない当たり前の日常の風景。どこで間違えたのだろう。


「そういえばあれはあのままでよかったの?」


「放置したままだね。この暑さだと明日には腐って異臭がしているかも」


「そうだけどそうじゃなくて!」


「どしたメグミちゃん? 急に大きな声を出して」


 周りを見回して注目されていないか確認する。

 騒ぐ女子高生なんて珍しくない。誰からも不審に見られなかったが、念のために声のトーンを下げる。


「……あのまま放置したらナツメちゃんが逮捕されちゃう」


「いいよ別に。発見されるところまで計画のうちだから」


 計画。

 その言葉で衝動的な犯行ではないことがわかる。たまたま通りかかって幼馴染を助けたわけではない。迷うことなく遺体からスマートフォンと財布を探ったことからもわかっていた。

 今日。あの場所。あの時間に行われることをナツメちゃんは知っていた。


 私にとってナツメちゃんは懐かしい幼馴染だ。

 しかし中学時代は疎遠になった。クラスが分かれて、色々な人から警告された。私から距離を取ったし、ナツメちゃんは空気を読んだ。

 ナツメちゃんは荒れていた。中学三年生のときには学校に来なかった。理由は家庭の事情。深くは踏み込めない。小学校時代からナツメちゃんが自分の家を嫌っていたことを知っていたのに。


 実は再会したのは今日ではない。

 二か月前の校内ですれ違った。目が合ったが話しかけられない。挨拶すらできない。ナツメちゃんは後輩になっていた。苗字も変わっていた。否応なく色々と複雑な事情を察してしまう。なにより私もそれどころではなかった。

 すでに鳩阪に脅されていて他人を避けていたから。

 互いに闇を抱えて、もう交わらないと勝手に思っていた。

 それなのにナツメちゃんは計画的な犯行だった。嫌な予感がして心が急に冷たくなる。

 ナツメちゃんはニコニコ笑っている。

 そして語りだした。


「鳩阪ってクズはね。前の学校でも教え子に手を出して孕ませた。そしてその教え子を罵倒して中絶を強要したの。さすがに醜聞は隠しきれなくてその学校は辞めたみたいだけどね」


「え……?」


 かすれた声が漏れる。最悪だ。私の想い出さえも鳩阪に穢されていた。

 ナツメちゃんの過去に鳩阪がいるのか。

 思わずナツメちゃんの下腹部に視線が行く。

 けれどそれは否定された。


「私じゃなくてお姉ちゃんの話」


「お姉ちゃんって……あのお姉ちゃん?」


「そう。メグミちゃんは会ったことあったよね」


「……うん」


 ナツメちゃんは被害者じゃなかった。でも私の想定していた最悪よりもさらに下かもしれない。

 優しそうなナツメちゃんのお姉ちゃん。私にも優しかった。家庭環境が複雑なナツメちゃんが唯一認めていた家族だ。そのお姉ちゃんが穢された。

 私と同じ目に遭い、私よりも酷い結末を迎えた。


「私が中学生のときの話だよ。お姉ちゃんは夜中に泣くようになった。お風呂が長くなった。必死に身体を洗うようになった。でもお風呂は嫌いだった。身体を隠すようになった。トイレで吐いているのも見た。話しかけると怒るようになった。暴力を振るうようになった。殴ったあと泣いて抱きしめてくれた。支離滅裂だった。助けを求めているようだった。私にはなにもできなかった。誰にも救いの手を差し伸べられることなく生命を宿した。すぐにバレて堕胎を強要された。そしてそのまま心も身体も壊した」


 口調は淡々と。

 それなのに言葉は堰を切ったように流れていく。とても激しい濁りきった濁流だ。もういいよ。なんて止める気も起きない。そのまま全てを押し流してくれればいい。

 けれど災害は終わらない。悲劇は連鎖する。


「さすがに両親も気づいた。相手は担任教諭。しかも脅されて強要された。まともな親なら憤り、娘を庇って戦う道を選ぶ。私はあのときまでまだ両親を信じていた。困難を前にバラバラの家族が一つにまとまる。そんな甘い幻想を抱きたかった。でもあいつらはお姉ちゃんを罵倒した。お前の育て方が悪いと互いを罵倒した。そして鳩阪の口止め料を喜んで受け取って離婚した。私達を捨ててね。お姉ちゃんがどこに消えたか知らないけど、たぶん水商売か風俗に流れたと思う。……生きていればだけど」


 濁流に堤防が決壊したのだ。

 元々壊れかけだったナツメちゃんの家。濁流に耐えられない。壊れるきっかけを待っていたのかもしれない。全てが濁流に蹂躙されて悪臭と漂流ゴミが散乱してどうしようもなくなった。

 私は知らなかった。ナツメちゃんがどんな目に遭っていたなんて想像していなかった。ごく普通の中学時代だった。当時は親しかった幼馴染が荒れて一方的に裏切られた気持ちになっていたぐらいだ。なにも知らず、知ろうともしなかった。


 ナツメちゃんの甘い幻想。

 それは私の家族だ。うちの両親は怒ってくれる。慰めてくれる。戦ってくれる。私が相談できなかっただけ。それが普通の家族の反応だと思っていた。

 私にはまだ家族がいる。

 ナツメちゃんはよく私の家に来ていた。もしかするとうちで理想の家族像を見たのかもしれない。その理想も最悪の形で裏切られた。幻想と言い切れるほど理想が汚されてしまった。

 全ては過去の話。私の知らなかったナツメちゃんの中学時代の話だ。


「私は家を出てバイトすることにした。鳩阪の口止め料で養育費だけはもらえたけど、使いたくなかったから。家族と縁が切れたことで自由になれた気さえした。でも去年の秋に……鳩阪が別の学校で教師をしていることがわかった。心が冷たくなった。そして血の気が引いた。また鳩阪が同じことを繰り返せば、うちの両親の責任だと気づいたから」


 自分の家族について淡々としていたナツメちゃんの口調が乱れる。

 語気が荒くなる。

 感情が乱れて、ようやく本当の表情が見えてきた。

 ずっと泣いていたんだ。涙は流れていない。でもナツメちゃんは泣いている。泣いて絶望している。私よりも深く世界を憎んでいる。


「だってそうでしょ。あの人たちが問題にしていれば鳩阪は教師を続けられるはずがない! 教え子に手を出した淫行教師だよ! でもまた教師になっていた。どうしてあいつだけ日常に戻っているの! 私の家は壊れたのに! 私の心はグチャグチャになった。それから鳩阪のことを調べ上げた。住所。勤め先の学校。そして再就職できた理由。口止め料の理由。鳩阪の親は県議会議員をやっているの。しかも教育問題に熱心な議員先生ね。表ざたにできるわけがないわけ。うちの両親があっさりお金をもらったのも知っていたからだろうね」


「……県議会議員」


「この世界はまともじゃない。腐りきっている。私が一人声を上げたところでなにも変わらないし、なにもできない! でも……もしかしたら次の悲劇を防げるかもしれない。そう思って鳩阪のいる高校に入学した。勉強を頑張って。複雑な家庭からのリスタートを装って。口止め料にも手を付けて。その学校でメグミちゃんと再会した。懐かしかった。嬉しかった。私が一番幸せな頃のお友達だから。それなのにメグミちゃんのそばには鳩阪がいた。メグミちゃんからお姉ちゃんと同じ臭いがした。……私はこの世界に絶望した」


「ナツメちゃん! 私はナツメちゃんと会えたことが――」


「――着いたよ。ここが目的地。鳩阪の住んでいるマンション」


 遮られた。言わせてもらえなかった。

 どんな形であっても今こうしてナツメちゃんと話せていることが嬉しい。あなたと会えてよかった。その言葉は拒絶された。

 地続きなのだ。

 ナツメちゃんの中では全てが続いている。お姉さんのことも。崩壊した家族のことも。鳩阪のことも。一人で耐えていた中学時代のことも。

 一番つらかった中学生のときに、一緒にいなかった私には口を挟む権利がないのかもしれない。


 高層マンションを見上げる。

 ナツメちゃんはここでなにをするつもりだろう。


『この腐った世界を燃やし尽くしに』


 悪い予感しかしない。でも止める気にはならない。離れることもできない。一緒に破滅したい。今度はナツメちゃんの傍にいたい。

 生臭い絶望を燃やし尽くして、甘い匂いに変えて欲しい。

 少し前まで自分が世界で一番不幸だなんて思い込んでいたのに。

 この結末がナツメちゃんにとっての幸福であるように。


 今は心の底からそう祈っている。

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