おやすみなさい

鞘村ちえ

おやすみなさい

「おやすみなさい」

 大切にしたい人との別れ際の言葉は、これにしようと決めていた。またね、でも、バイバイ、でもなく、おやすみなさい。




 秋の夜は優しい風が吹いている。髪や指の一本一本を撫でるように、金木犀の香りが月の光と混ざり合って流れる。吉祥寺駅の裏通りから少し離れた井の頭公園に向かう路地はとても静かで、私と彼の声だけが小さく響いていた。

「秋の星って綺麗だよね」

 私が空を見上げていると、隣を歩いていた彼はそう呟いた。うん、と返事をしてから彼の横顔に視線を落とすと視線が交わった。

 バイト先で知り合ってすぐに連絡先を交換した大学院生の彼は、さんという。ちゃんとご飯を食べて話したのは今日が初めてだ。それなのにもう、私は時折ぶつかり合う肩に愛おしさを覚えている。ふみさんはお酒に酔っていて、もう酔いは醒めているのかもしれないけれど、頬が少し火照っているように見えた。私も一緒に飲もうか悩んだけれど、まだ19歳だから断った。ふみさんは「全然いいよー。ハタチになったら一緒に飲もうね」と一杯だけ梅酒を頼んでいた。ふわりと酔いが回るふみさんは、目が合うとくしゃっとした笑顔を向けてくる。

 人気のない路地にひっそりと現れる公園の入り口は狭くて暗く、踏み入れてはいけない場所のような雰囲気を醸し出す。薄っすらとした灯りが、公園の中心にある池を囲むようにぼんやりと照らしている。足元気を付けてね、と右手をそっと差し出される。私は思わずふみさんの手に自分の手を重ね、深い段差になっている階段を降りていく。一段、また一段と降りるたびに優しく手を握りしめた。鈴虫の音色が絶え間なく聞こえる。私とふみさん以外誰もいない薄暗い小道を「怖いね」と言いながら降りていくと、途中で指を組み替えられた。

 久しぶりに繋いだ大人の男の人の手は、間接が太くて、包まれるような優しさがあった。ふみさんは私より4つも年上で、私より長く生きているからそのぶん手に厚みがあるのかもしれない。言葉を交わさなくても、手を繋ぐだけで私をそっと認めてくれるような心地よさがある。

 そのまま導かれるように池のほとりに置かれたベンチに座った。繋いでいた手がふと解けて、指の隙間を秋の冷たい風が通り抜けていく。目の前に広がる大きな池は月の明るさを奪うほどに暗く、私とふみさんを静かに見つめているようだった。足元には枯れた葉が積み重なるように落ちている。私たちが入ってきた公園の入り口とは別の方向から、ギターの音色と男の人の歌声が響いてきた。よく通る声。私はただ揺れる池の水面を眺める。するとふみさんはまた私の手をとった。視線が絡まる。

「嫌だったら殴っていいからね」

 そもそも嫌だったら一緒にご飯を食べたりしない、とゆっくり頷く。さっきと同じように恋人繋ぎをして、肩を寄せ合った。

「やっぱり価値観は変わらないですか?」

「変わることもあるとは思うけど、今は変われないかも」

 変われない。その瞬間、少し遠くの街灯が一瞬消えたように見えた。


 価値観、というのは居酒屋さんで喋り始めて一時間くらい経ったときに話した恋愛観のことだ。初恋はどんな感じだったかという話から始まり、今まで付き合った恋人の話に繋がった。それでふみさんはこう言ったのだ。

「俺は付き合う前に、身体を重ねてもいいと思うんだよね」

 付き合うときは「好きです、付き合って下さい」から始めたいと思っていた私にとって、その言葉は衝撃的だった。そして、とても魅惑的だった。恋愛には正解や不正解なんてなくて、どちらも間違いではない。だけど、この話を周りの友達にしたら確実に「その人やめときな」と言われることだけは容易に想像がついた。それでも自分と違う価値観の人と触れるのは心地がいい。まるで新しい自分になれたような気がする。

「むしろなんでダメだと思う?」

 ふみさんはこてんと首を傾げるように私にそう訊いた。お酒に酔っているらしい。私たちの卓に唐揚げが運ばれてくる。「なんでだろう」という呟きは元気な店員の声でかき消された。

 そういえば、ふみさんは私より4つも年上なのにそれを感じさせない柔らかさがある。初めて連絡先を交換したときも「敬語じゃなくていいよ?」と言ってくれた。すぐに敬語を外すのは照れ臭かったから、下の名前で呼ぶことにした。もっと仲良くなれば私のことも下の名前で呼んでくれるだろうか。

「ふみさん」

「うん?」

 名前を呼んだら目が合った。とろりとした瞳の奥で、ふみさんは何を思っているのだろう。抱きたいと、思われているのかな。

「なんでもないです」

 ふみさんは私の瞳を見つめてから、グラスに視線を落とす。

「俺は悪い人だよ」

「そうなのかな」

 ふみさんは黙って頷き、そろそろ出ようか、と優しく微笑んだ。本当に悪い人は、自分から悪い人なんて言わない。ふみさんは良い人だ。私がそう思うのだから、良い人だ。誰になんと言われても、ふみさんはきっと良い人だ。


「私は恋人だけに身体を許したい、です」

 さっきよりもノリのいい歌声が聞こえる。少しだけ風が吹いて、落ちていた枯れ葉が流されていく。ちらりとふみさんを見ると、彼は驚いたような顔をして、繋いでいた手を少し緩めた。

「きみは良い人だね」

 ふみさんは良い人なのに、自分を悪い人だと言う。ふみさんは私を良い人だと言ってくれるけど、私は。

「そんなことないです。手を繋がれたときに、許してしまったし」

「それくらいじゃ悪い人とは言えないよ」

 私は緩まった彼の手を強く握って、抜け落ちそうな指を掬い上げる。

「ふみさんのことを本当に大切に想っていたら、まだちゃんとお互いを知らない状態で手を繋いだり、肩を寄せたりしないです。それくらいじゃなくて、そういう小さなところから相手を大切にしないといけないんだと思う」

 肩と肩が離れ、私とふみさんの間に滑らかな月の光が差す。

「ちゃんと大切にしてあげられなくてごめんなさい」

 吸い込まれるような池の奥で魚が跳ねる音がした。深く息を呑んで俯く私の頭をしばらく眺めたふみさんは、ゆっくりと手を離して

「ありがとう」

と呟いた。あっけなく解かれた手の平に、寂しさと悲しみが残る。私とふみさんは似ている。大切にしたいと思う気持ちは嘘じゃないのに、私たちはいつもどこか自分勝手だ。好きだから手を繋ぎとめたくて、真っすぐに受け止めるから手を解く。やっぱりふみさんは良い人だ。私はふみさんに出会えてよかった。

 気付けば聞こえていたはずの歌声は大学生の飲みコールに変わり、私とふみさんは井の頭公園からゆっくり歩いて家まで帰ることにした。ふみさんは家に帰るまでの間、出会った人のなかで一番好きだという友達の話をしてくれた。その人の話をしているときのふみさんは瞳が煌めいていて、4つも年上なのに少年みたいで可愛かった。

 話の途中でふと「この感覚、もう少し考えたら言語化できそうだからちょっと待ってね」と考え込むふみさんを見て、やっぱりふみさんは魅力的だと思った。自分の伝えたいことに真っすぐぶつかれる純粋さがある。私は「待ちます」と言って彼の隣を歩いた。街灯に照らされた二人の影はゆっくりと前へ進んでいく。


 私の住んでいるアパートの前に着いた。きっと私たちの価値観を擦り合わせることはできないのだと、なぜかはっきりと分かる。

 ふみさん。私はもっとふみさんと仲良くなりたいけれど、私にはもうどうすればいいのか分かりません。私はもっと深くふみさんのことを知ってから好きになるべきだったのかもしれないし、私とふみさんはもっと早く出会っていればよかったのかもしれないね。

 落ちた私の視線を掬い上げるように、ふみさんは

「じゃあ、今日はありがとう」

と手を振った。

「こちらこそ。すごく楽しかったです」

 金木犀の香りが私とふみさんをそっと包む。二人きりの時間が終わる。

「おやすみなさい」

 私は大切にしたい人との別れ際の言葉は、これにしようと決めていた。またね、でも、バイバイ、でもなく、おやすみなさい。ふみさんはそっと手の動きを止めた。

「おやすみなさい」

 今日聞いたふみさんの言葉のなかで一番あたたかい声だった。私は嬉しくて、心の中にそっと留めておきたくて、泣き出しそうな気持ちを抑えて手を振り返した。

 ふみさんは私がしっかりと家に入るまで手を振って見届けてくれた。やっぱり、ふみさんは良い人だ。秋の夜は優しい風が吹いている。どんな季節の夜になっても、ふみさんの周りには優しい風が吹きますように。

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おやすみなさい 鞘村ちえ @tappuri_milk

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