第4話 不可逆の変質

「待ってオオカミさん。追いかけっこは嫌いよ」


 ジョキジョキと巨大なハサミを鳴らす恐ろしい音が、背後から聞こえてくる。


 ユキオは息を切らしながら、ハサミを持つ少女から逃げていた。


 生来運動能力が高くないユキオ。


 しかし、追ってくる少女も足が速いわけでは無いらしく、今のところ追いつかれる様子はない。


 少女の追跡を振り切って近くの建物に駆け込む。


 ユキオの記憶が確かなら、この場所はデパートだった筈だが……中に入っても人ひとり見当たらない。


(どうやら”裏”の世界に入り込んでしまったようだね……誰かの助けは期待できなさそうだ)


 聞こえてくる声に、ユキオは舌打ちをした。


(しかし何で逃げるんだいプリンセス。あの程度の相手に、君が殺されるはずが無いじゃないか)


 嘲るような喜色を含んだ声色。ユキオはイライラしながら小さく咳をしてボソリと呟く。


「……腹を裂かれるのはごめんだからな」


 コホンと小さく咳をする。


 痛いのは……嫌いだ。


「オオカミさん、みぃつけた!!」


 背後から聞こえる舌足らずな甘い声。


 振り返ると同時に、柔らかな腹の肉にずぶりと突き刺さる冷たい刃の感触。


 少女とは思えぬ力で地面に押さえつけられ、身動きが取れない。


「さあ、お腹を裂いて石を詰めなくちゃ!」


 ケタケタとおぞましく笑う返り血に染まった少女の姿を、ユキオはどこか他人事のように眺めていた。


 腹が……痛い。


 否。


 痛いのは腹だけじゃない。


 そしてユキオは思い出す。自ら毒を喰らった、その時の記憶を……。








 息も絶え絶えに床に転がっているユキオ。

 

 顔の傍には、先ほど飲み干した毒の瓶。


 死にかけの少年を見下ろす人影。

 

 それは、道化の化粧をした怪人であった。



(見つけたよ僕のプリンセス)


(なんということだ、君は今にも死にそうじゃあないか)


 道化はそう言ってしゃがみこみ、ジッとユキオの顔を見つめる。


(この出会いは奇跡だ。そうは思わないかい?)


 道化の問いに、ユキオは答えることができない。


 死に際に現れた正体不明の奇妙な男。これが死神というやつなのだろうかと、ぼんやりと考える。


(君の望みはなんだいプリンセス? 君の魂と引き換えに、何でも一つ願いをかなえてあげよう)


 どこか面白がっているかのような道化の言葉に、ユキオは……。












「ぎゃぁあぁあああ!?痛い……痛いわ!?」


 顔を抑え、転げまわる赤いずきんの少女。


 そんな少女に切り裂かれたユキオの腹の傷から、ずるりと何者かが生まれ落ちた。


 それは道化の化粧をした怪人。


 道化は地に伏した少女を見下ろしてニヤリと口角を吊り上げる。


(痛いだろう? ユキオの血は特別性だからね)


 あぁ、あの時。

 

 道化から取引を持ち掛けられたあの日。

 

 ユキオは願った……願ってしまった。



 ”死にたくない” と……



 そしてその願いは叶えられた。



 否。


 その願いだけが叶えられた。


 ユキオは死なず……しかし飲み込んだ死の毒は彼の体を巡り続ける。


 ユキオは生きながらにして死の苦しみを味わい続けているのだ。


 道化は懐から一冊の本を取り出した。


 茶色い革表紙の古びた本。


 ペラリと表紙をめくると、そこには何も書かれていない空白のページが存在する。


(御伽噺に帰るんだ ”赤ずきん”)

 

 道化の言葉と共に、本と地面に転げた少女が発光する。


 目を開いていられないほど鋭い光。


 やがて、その光が収まるとそこに少女の姿はいなくなっていた。


 道化の開いた本のページには、先ほどまで存在しなかった絵が描かれている。


 苦悶の表情を浮かべる赤いずきんを被った少女の絵が……。


 ぱたんと本を閉じた道化は、それを自身の懐にしまった。


 腹を裂かれて倒れているユキオに近寄ると、しゃがみこみ、彼の上体を優しく抱きかかえる。


(これくらいじゃ死なないさ……そういう契約だからね)


 すました顔の道化に、ユキオは口から血をダラダラと流しながらゆっくりと右手を上げ、中指を立てて意思表示をする。


 そんなユキオを見て道化は嬉しそうに笑った。


(僕の本はまだ数ページしか埋まってない……これからもよろしく頼むよ、僕のプリンセス)


 甘く蕩けるような毒薬は、今もユキオの体を巡り続ける。


 元の生活に戻ることはできない。


 生きながら死に続けるユキオは、静かに己の不可逆なる変質を呪うのだ。




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不可逆のスノーホワイト 武田コウ @ruku13

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