獣たちの夜

早水一乃

獣たちの夜






「食べ方が汚いっていつも言っているでしょう」


 その声に、柔らかな腹身に猛然と齧りついていたレイリアがぱっと顔を上げる。その口周りには赤黒い血がこぼしたソースのように纏わりついており、幼児の食事を連想させた。


「お姉さま」


 ごめんなさい、と目に見えて大きな身体を萎縮させたレイリアは、再びおずおずと肉に口を近付けた。肉片を辺りに散らかさないよう、加減に気を付けて犬歯を立て、皮膚を裂く。溢れ出す血で喉を潤し、ふぅ、と息をつく。

 その様子を横目に見ながら、レイティエは目の前の太腿に牙を突き刺した。どういう風に噛みついて、どういう具合に力を込めれば骨から綺麗に肉を剥がす事ができるのか、意識するまでもなく身体は既に知っている。レイリアも同じはずなのだが、いつも新鮮な肉と血の匂いに我を忘れて興奮してしまうのだ。


 路地には月の光が煌々こうこうと降り注いでいた。恐ろしき夜の女帝、と人狼達は月をそう呼ぶ。月の加護があってこそ人狼はその力を発揮し狩りを行う事ができるが、同時に獣に身を変える耐え難い苦痛もまた、月から与えられるものだからだ。

 何人なんびとも月の監視から逃れる事はできない。昼間が太陽の王国であるように、夜は月の帝国だ。こんな狭い路地にさえ、冷たい月光は差し込んでくる。獣である事の気高さとおぞましさから目を背ける事を、月は決して許さない。

 レイティエはまだ温かい肉を咀嚼しながら、ぶうんと寄ってきた蝿に息を吹きつけて追い返した。どうせ後から残骸を好きなだけ味わえるのだから、今は静かに食事をさせて欲しい。しかし、次に彼女の耳に飛び込んできたのは虫の羽音ではなく、石畳を叩く靴音だった。レイリアも顔を上げる。ぴんと張り詰めた静寂を破るその音が、確かに少しずつ二人のいる場所へと近付いてくる。

 レイリアが肉から口を離した。威嚇の唸りが口端から漏れ出している。

 レイティエの方は、近付くものの匂いを嗅ぎ取って鼻に皺を寄せた。嫌な匂いだ。腐った血のような。その匂いを全身に纏わりつかせている生き物をレイティエは知っている。


 かつん、という音が振動となって空気と石畳を伝わり、レイティエの全身へと伝わってきた。路地の入り口に影がさし、月光が少しだけ遮られる。

その姿を見て、レイリアが全身の毛を逆立てて唸る。闖入者は、ただ嘲笑を返した。


「獣臭いと思えば。ここは文明社会でしてよ?」


 夜なのにレースのパラソルをさした華美な服装の少女が、血と肉にまみれた路地の惨状を、そこに君臨するレイティエとレイリアを見てただ嘲笑う。その後ろから、似通った格好をした別の少女が顔を出した。


「まあ」


 人間大の獣が二頭、今にも飛びかからんばかりの警戒を向けている。その状況に怯えるでもなく、口元に手を当てて少女は言う。


「汚らしいこと。もっと小さければ可愛らしいのに」

「立ち去れ。ここは私達の狩場だ」


 レイティエはそう吠えた。レイリアが早まって飛びかからなければいいけど、と思いながら。


「わたくしだってすぐにでも立ち去りたいわ。獣を見るのは動物園で十分」


 少女が答えて目を細める。レイティエとレイリアが蹂躙した肉体を見ている。脚は千切れ、臓腑は溢れ出しているが、顔は血が飛び散っているだけでまだ判別がつく。恐怖の金切り声を上げたまま喉笛を食い破られ、目を剥いた表情で時を止めている。自らの血に染まった金髪が石畳に広がっていた。


「その子。美しい歌声をしていたその子。穢れも知らない無垢な処女。わたくしたちが目をつけていた、まさにあの子だわ。よもや獣に掻っ攫われるだなんて」

「知るか。印でも付けておけばよかったものを」

「あら。付けておいたところで、野蛮なけだものに理解できたのかしら?」

「お姉さまを愚弄するな!」


 レイリアが一歩踏み出しながら吠え立てた。ちゃっ、と大きな爪が石畳を引っ掻く。

 殺意の匂いがした。レイティエは妹の前へと回り込み、二人の少女に鋭い視線を突き刺す。見た目では平静を装っているが、こいつらは獲物を取られて気が立っている。最近この辺りは警戒が厳しい。レイティエ達もそろそろ縄張りを移ろうかと考えていたところだ。

 後ろの方にいる少女が歯を剥いた。小さいが鋭い犬歯。緊張感がレイティエの毛先を震わせる。

 突如、少女がパラソルをレイティエ達に向かって投じた。万華鏡のように回るレースの模様の向こう、二人の少女が別々の方向へ動いたのがちらりと見える。


「レイリア!」


 警戒しろ、とレイティエは妹に向かって声を上げた。素早くレイティエを追い抜き、向かってくるパラソルに噛みつこうとしていたレイリアがはっと動きを止める。その顎を、少女が硬いブーツの先で打ち抜いた。鈍い音が鳴る。反射的にレイリアが細い悲鳴を漏らした。


「レイリア——」


 雷が落ちるように勘が働き、考える前に真横に跳んでいた。壁を蹴り、更に背後へと飛び退すさる。耳をつんざくような音と共に、レイティエが今しがた踏んでいた石畳が小さく抉られていた。

 二人目の少女が銃口をレイティエに向けている。月光が黒々としたその鈍い輝きを照らし出している。薬莢を見るまでもなく、銀の弾丸に違いなかった。それを受けた仲間は血が止まらぬどころか全身から出血し、身を焼くような苦悶に悶えながら死んだ。

 飛び道具がある以上、分は少女達にある。豪腹ではあるが撤退すべきだった。レイティエはその事を伝えようとレイリアに吠えた。もう一人の少女と対峙していたレイリアが耳を向け、承知した証にじりじりと後退してレイティエに近付いてきた。

 その時、次の轟音が路地に響く。

 拳銃を構えていた方の少女が、あどけないと言ってもいい幼い顔を驚きに強張らせていた。もう一方の少女がはっと路地の入り口を振り返り、同時に再び鳴り響いた轟音に身をそらして血を吐いた。

 燦然と輝く満月を背に、複数の人間達が路地に向けて猟銃を突きつけていた。人間の死骸を踏みつけて争う者どもに向けて。


「いたぞ!」


 少女達が互いに駆け寄り、苦悶に顔を歪めながらも、次の瞬間黒い塊に転じた。蝙蝠こうもりだ。無数の小さな蝙蝠達がキイキイと夜空に舞い上がる。それに向けて何度も弾丸が放たれ、何匹かが地に落ちた。レイリアがそれを見て尾を丸めた。


「早く!」


 レイティエが吠え、レイリアが慌てて人間達に背を向ける。狙われている気配を全身に感じながら、レイティエは全ての力を四肢に込めて駆け出した。突き当たりの壁に向かって跳躍し、足りない分は爪を突き立てて登り切る。幾度か銃弾が毛を掠めた。

 路地の壁の頂点に身を持ち上げる。夜風が身体を押し包む。何にも遮られる事のない、月から溢れ出る全ての光が、白々とレイティエの全身を浸した。レイティエは妹が付き従っている事を確認して、夜空へと身を躍らせる。人間達の怒声が遠くなる。

 屋根を跳び伝い、路地を駆け抜け、町外れの森を目指した。人狼の速度に人間は追いつけない。あっという間に追っ手を撒いたレイティエとレイリアは、人里の明かりが見えなくなる森の奥深くまで止まる事なく走り続けた。


「お姉さま」


 走りながらレイリアが小さく問う。


「あの吸血鬼達、死んだかしら?」

「さあ」


 分からないわ、とレイティエは返す。実際のところ、無傷では無いだろうが、恐らく死んではいないだろう。レイティエ達より路地の入り口側にいたのが不運だったのだ。狭い路地で、ちょうどレイティエ達の盾になる位置だった。

 ようやく走る速度を緩め、姉妹は小川で立ち止まって喉を潤した。口の中を満たしていた血の味が薄まっていく。今夜は久方ぶりの食事だったが、食べていたからここまで駆け続ける事ができた。

 二人はここ数週間の根城である小さな洞窟に戻ると、柔らかな葉を敷き詰めた寝床に身体を横たえた。全身が疲弊と緊張で強張っている。荒い呼吸を繰り返しながら、心臓が鎮まるのを待った。何も知らない虫達だけが平和に羽音を鳴らしていた。

 レイティエはしばらく気を張っていたが、やがて疲労に負けて瞼を閉じる。

 月よ。泥のような眠りに沈みながら、レイティエは呟く。

 月よ、何故人間達に昼だけでなく夜も許したのでしょうか。

 何故夜を我々だけの時間にしてくださらなかったのですか。






 満月はその姿を刻々と薄め、星々は消え、朝日が世界中に光を差し伸ばす。

 森の中の小さな洞窟にも、暖かな日の光が差し込んでいた。青々とした草葉の上に、生まれたままの姿の少女が二人、静かに寝息を立てている。

 同じ頃、鳥達が軽やかな声で朝の訪れを歌い交わす下、人間達が草を踏みしめて森を進んでいた。手には重々しい猟銃や斧が握られており、小動物達はその気配を感じてそそくさと逃げていく。

 少女の一人は眠りから目覚め、ゆっくりと瞼を開ける。陽光を思わせる黄金色の眼だ。しっとりと水気を含んだ地面に耳を当て、その振動を感じ取る。


「レイリア、起きて」


 レイティエは妹を揺り起こす。昼間の人狼はまるで無力だ。吸血鬼は陽に弱いが、例えば光の差さない室内であれば夜と遜色無い能力を使う事ができる。だが人狼は、月の加護を受けて身体を変容させなければ、ただ五感が鋭いだけの人間でしかない。


「レイリア……」


 妹の細い肩を揺すりながら、着実に近付いてくる大勢の気配にレイティエは心臓が締め付けられるような不安を覚えた。狩られる恐怖は何度対峙しても慣れない。レイティエは死にたくない。妹を失いたくない。例え、人間にも獣にも成り切れない半端な存在だったとしても。


「お姉さま、夢を見たの」


 レイティエの焦燥も知らずに、ぼんやりと目を開けたレイリアは夢見心地の声で言う。


「お母さまとお父さまがここにいて、四人で一緒に寝ているのよ」


 父も母もとうに狩られた。レイティエは妹の美しい栗色の髪を撫でる。嬉しそうに目を細めるレイリアを、レイティエはしっかりと抱きしめた。

月よ、お守りください。貴女は私達の事が嫌いなのかもしれないけれど、私達は貴女に縋って生きるしかないのだから。

 しかし今、月は見えない。レイティエは寝惚けた妹の腕を引いて洞窟を抜け、森の更に奥深くへと走る。陽の光も届かない、夜のように深い森の奥へ。


 銃声が鳴る。放たれた銃弾が何かを撃ち抜いたのか、あるいは何を撃ち抜いたのか、見下ろしていたはずの太陽はただ柔らかく微笑むのみで、答えを語らない。恐らくは一切の興味がないのかもしれなかった。


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