(3)

 朝9時過ぎには真月村に入っていた。


 深く考えずに、反射的に家を出ていた。大森からの忠告は理解していたつもりだった。友恵から、いやその他多くの友恵の味方となる人間たちからどのように言われようと、早く竹内に会いたかった。


(さっきの夢で聞いた声——)


 夢という不確かなものであることは分かっている。しかもその夢の内容も、全く訳の分からないものだった。しかし、そこで聞こえたのは間違いなく竹内の声だった。理由は分からないが、彼女は遥人を呼んでいる。そして、同じように遥人も彼女に会いたいのだ。真月村まで来たのは、単にそれだけの理由だ。


 スマホを見ても、竹内から連絡はない。どこに行くべきかと考えても、やはりあの向日葵畑くらいしか行く場所が思いつかないので、そこに向かった。


 駐車場には既に数台の車が停まっていた。遥人も車を降りて、駐車場から下の方に広がる向日葵畑の方を見下ろす。畑の中には何人かの観光客らしい人が見えている。脇道から畑の方に下りていき、その中に入った。ややピークの時期を過ぎたのか、よく見ると、倒れかけている向日葵も目に付く。その畑の中をしばらく歩きまわり、駐車場の方を見上げた。


 すると、遥人が駐車場から来た方とは別の方向に、木造の小屋のようなものがあるのに気付いた。「ブルーベリー」と書かれたのぼりも立っていて、どうやら店舗らしい。その方に向かって歩いていく。


 店の入口のドアを開けようとすると、まだ閉まっていた。ガタっという音がするだけだったが、すぐに奥の方から中年の女性が出てきて、鍵を開ける。


「ごめんなさい。まだ早いと思って閉めていたわ」


「すみません。あの、ちょっと聞きたいんですけど」


「何ですか?」


「この辺りで、竹内菜月さんという人を知りませんか。僕、竹内さんと同じ大学の同級生なんですけど」


「菜月ちゃん?」


「知っているんですか」


 遥人が期待を込めた声で尋ねると、女性は遥人の姿をもう一度眺めてから、頷いた。


「そうねえ……。まあ、ストーカーじゃなさそうだから、教えてあげるわ」


 女性は笑って店の外に出てきた。


「そこを通っている農道をもう少し先に行った場所に、農産物の直売所があるの。菜月ちゃんは、そこでバイトしてると思うけど」


「あっ、ありがとうございます」


 遥人が頭を下げると、女性は笑っていた。


「頑張りなさいよ」


 女性はそれだけ言うと、店の奥に戻っていった。


 遥人は一度車に戻り、教えられた道を進んでいく。すると、少し先の道沿いに「農産物直売所」と書かれた看板を見つけた。その駐車場に入って車を停める。


 小さな木造の建物には窓があり、そこから中の様子が見えた。店内では2人ほどが掃除や品出しのような準備をしている。その一人が外に出てきた。


「竹内さん!」


 思わず声をかけた。青色のエプロンをかけた竹内が、遥人の方を向いた。その大きな瞳が遥人を見つめる。


「竹内さん。猪野です」


「猪野……」


 呟くように言った竹内の前に、リュックから鳥井先生の本を取り出した。


「この前、この本に挟んだふせんで、電話番号を教えてくれたでしょう? 僕、この本を読んで、この前、この村に来たんです。それで、向日葵畑だけじゃなく、この村でお世話になったことを、竹内さんに伝えたかったんです。でも、スマホを失くしてしまって連絡が取れなかったから——」


 そこまで一気に言った時だった。


「もしかして、私に連絡先を渡してきた人ですか」


 竹内が淡々と言った。彼女は笑っていない。


「生協の友達から聞きました。強引に連絡を取ろうとしてる学生がいるから気を付けるようにって。どうやって私のことを調べてここまで来たか知りませんけど、あまりしつこいと警察を呼びますよ」


「えっ……でも、竹内さん」


 あまりの彼女の権幕に唖然としてしまった。その時、店の方から「菜月、どうしたの」という女性の声が聞こえた。彼女はそれに答えるように店の方に向かっていく。


「待って!」


 竹内の背中を追って、その左手を後ろから掴んだ。深い考えがあった訳ではない。たとえ彼女に冷たくあしらわれようとも、彼女と話をしたかった。しかし、その手を掴んだ瞬間、彼女と話すという可能性を自ら捨てることになるということも意識した。


「放して!」


 彼女は叫ぶ。それは確実であると思った。しかし、遥人が掴んだ手は、まるで時間が止まってしまったかのようにそこで動かなくなってしまった。彼女がゆっくりとその手の方に顔を向ける。そして次に、遥人の顔を見上げた。


 すると、信じられないほどに彼女の手が温かく感じられてきた。彼女と真っすぐに視線が合う。その大きな瞳に飲み込まれそうな感じになる。


「あっ——」


 彼女はそこで倒れ込むように座りこんだ。店の方にいた女性店員が慌てて飛び出してくる。


「大丈夫? 菜月」


 学生バイトのようなその女性は竹内の前に座る。そして、遥人の方を見上げた。


「ちょっと! 菜月に何したの」


「い、いや……何も」


 するとその女性は急に立ち上がり、遥人に近づく。と思った瞬間、腕を掴まれて後ろに回された。


「い、イテテ!」


 あまりに早業だった。小柄な女性だと思っていたが、護身術か何かを身につけているらしい。


「店の奥には店長もいるんだから! 逃げられないわよ」


「ち、違うんです……放して」


 余りの痛さに小声で言うと、竹内がこちらを見た。


「美由。違うの。大丈夫だから」


 そう言って竹内は立ち上がった。まだやや顔色が青い気がするが、それでも、さっきのような厳しい視線ではない。


「そうなの? 本当に?」


 尋ねる女性に、竹内は静かに頷いた。するとようやく女性も遥人から手を離した。


「ごめん……。ちょっと久しぶりだったから、分からなかっただけなの。私と同じ大学の同級生の猪野くん」


 竹内はそう言って、美由と呼ばれた女性の方に笑顔を向けた。


「そう……。うん、分かった」


 そう呟いて、美由は店の方に戻っていく。まだ彼女に掴まれた腕が痛いが、それでも誤解が解けてホッとした。


「ごめん。猪野くん」


「えっ……ああ、大丈夫。こっちこそ急に来てごめん」


「そうよね……。私、あなたにその本を薦めたよね」


「う、うん」


「それで、どうだった?」


 尋ねてきた彼女に答えようとすると、「おおい、ちょっと」と店の方から男の声が聞こえた。竹内もハッとしたように振り向く。


「ごめんね。今日は午前中一杯はバイトなの。平日だから、そこまでお客さんも来ないとは思うけど、他にもやる仕事があって。悪いけど、昼過ぎまで待っててくれる?」


「あっ……うん。分かった」


 そう答えると、彼女は手を振ってすぐに店の方に戻っていく。

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