(2)

 その日の夜になっても、竹内からは何の連絡もなかった。友恵も今日は電波の悪い場所にいるのか、連絡はない。自宅で何気なくネットサーフィンをしていると、電話がかかってきた。相手は大森だ。


「もしもし」


『よう。今日はバイトじゃないのか』


「今日はありません。家です」


 そうか、と大森は言って、少し黙った。


『あのさ……聞きたいんだけど』


「何ですか?」


『お前、第二学部棟の生協の女の子と、何かあったのか』


 思わず息を呑んだ。


「ど、どうして……です?」


『お前が、その彼女に自分の連絡先を渡すように詰め寄った話を聞いたんだけど。俺の彼女の沙穂……知ってるだろ? アイツの友達が生協のバイトをやってて、そのバイトの奴から聞いたって』


 自分の顔が青ざめるのがはっきりと分かった。大森の彼女の沙穂は、遥人と同じ社会学部の3年生で、ギターが得意なカッコイイ系の女子として学部内でも有名人だ。社会学部の実行委員は少ないので、彼女も大森を通じて遥人のことを知っている。


『どうなんだ。本当なのか』


「それは……本当です」


『お前、その子とどういう関係なんだ』


「やましいことはないんです。ただ、同じ社会学の講義の関係で知り合いになって。その子に薦められた本のことで連絡を取りたいと思ったんですけど、この前、スマホを失くしたから、連絡先が分からなくなったんです。それで、何とか連絡できないかって」


 それは嘘ではなかった。本当は、真月村のことをもっと話したかったというのもあるのだが、そこまで話すとさらに話がややこしくなりそうな気がした。すると大森は大きくため息をつく。


『ちょっと、マズイかもしれねえぞ』


「ど、どういうことですか」


『俺は、お前がどういう交友関係を持とうと、全然気にしないさ。だけど、気にする奴もいる。あそこは第二学部棟だ。どういうことか分かるだろう?』


 大森の言うことは分かる。彼は、友恵のことを言っているのだ。友恵は農学部の中でも有名人で交友関係も広い。そして、農学部は第二学部棟に入っている。夏休み中で学生は少ないとはいえ、遥人の行動を誰かが目撃していた、あるいは、この話を聞いた学生が話を広めることは十分にあり得る。現に、大森もそうして連絡してきたのだ。


『それとな……もう一つ、気になることがあってな』


「気になること……」


『お前が会いたかった生協の彼女って、彼氏持ちなんだろ? 体育学部だって聞いたけど』


「えっ——」


『そいつ……たぶん、ワンゲルに入ってるって』


 大森の最後の言葉を聞いて一気に頭が真っ白になった。言葉を返すことができずに黙っていると、大森が続けた。


『遥人。よく考えろよ。その子と本当に何の関係もないなら、ちゃんと言っておかないとヤバイぞ』


 大森はそれだけ言って電話を切った。ツーツーという音が遥人の耳元で続いていく。


 呆然とした頭のまま、ベッドに横になった。大森はさっき言ったとおり、遥人が誰と付き合おうが、別れようが、そんなことは気にしないだろう。しかし、それを気にする人もいる。いや、委員会の中ではそういう恋愛関係の話が好きな人が多いのだ。それに、7人いる委員会の部長たちも、友恵を含めて4人は女子だ。彼女らと、委員長の板野。大森はともかく、遥人以外の男子の部長の2人は、気の良い人間ではあるが、そこまで自分から争いごとに入っていくような性格ではない。


(いや……別に、竹内さんとは何もないんだ)


 そうは言っても、生協でしつこく連絡を取りたいと言ったことは事実だ。こういう話は尾ひれがついて広まることも多い。既に第二学部棟の中のネットワークでも広がっているに違いない。


(もしかして……友恵から連絡がないのも……?)


 これまで毎日のように連絡があったことを考えると、友恵がその話を聞いたからのような気がしてきた。そう考えていくと頭が痛くなってくる。大きくため息をつくと、ベッドに横になって部屋の明かりを消した。



******



 暗い空が大きく広がっていた。


 そこは自分がいる場所が不安定に思えるほどの暗闇だ。ただ、目の前の空には数えきれないほどの星が輝き、その中心にある大きな満月。


(満月——)


 銀色に輝く大きな月は、淡々と地上に光をもたらしている。静かな、空気の音さえも聞こえてきそうな感じがした。それを正面に見ながら自分は立っている。


 その時、突然、後ろから体を押さえつけられたような気がした。


(——!)


 声が出せない。口を何かで塞がれているように言葉が出ない。そう思っている間に、体を押さえつけられたまま、腕を後手にされて手首を縛られていく。暗闇の中で何人かの人間が動いている感じがしたが、その姿は確認できない。


 その時、目の前に急に光が現れたように視界が明るくなった。


「早くしろ! そいつを外に連れて行け」


 暗闇から誰かが言うと、遥人の視界が何かで覆われて失われる。そして、無理やり両腕を掴まれて歩かされていく。しばらく歩くと、車のエンジンをかける音とドアを開ける音がした。


「ほら。ここに乗れ!」


 乱暴に言う男の声がして、バンの荷台のような平らな場所に乗せられると、すぐにドアが閉まる音が聞こえ、車がガタガタと揺れながら動き出した。


 しばらくして、暗闇の中で誰かの声が聞こえた。


『……ると、遥人』


 直接頭の中に呼びかけてくるような、不思議な声。


『どこ? どこにいるの? 遥人……遥人』



******



 ハッとして、遥人は目が覚めて起き上がった。体中が汗をかいていて、ハアハアと息が上がっている。そこは、薄暗い自分の部屋だ。スマホを見ると、まだ朝の4時を少し過ぎたところだった。


(さっきのは……夢だよな) 


 思わず自分の手首を見下ろす。そこにはまだ縛られたような痛みが残っているような気がした。それほど強い痛みだった。


 もう一度、スマホを見つめる。


(まだ、村にいる——)


 そう思って、すぐにベッドから起き上がり、明かりをつける。テーブルに置いた鳥井先生の本を黒いリュックに入れると、車の鍵を持ってすぐに部屋を出た。

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