第19話

 トレーニングは順調だった。撮影まではあと一週間と迫っている。

 休憩中に英治がヨガマットの上で寝転んでいると、突然Tシャツをまくり上げられた。

 ブンちゃんだった。


「うんうん、問題なさそうね」

 

 英治の腹筋を撫でまわしながらブンちゃんは何度も頷いた。


「ちょっとぉ!何するの!?こういうのセクハラって言うんじゃないの??」


 英治は慌てて立ち上がりブンちゃんの手から逃れる。


「人聞きの悪いこと言わないでよ!トレーナーとして進捗を確認してるんだから!!」

 

 だとしても触る必要はあるのだろうか……。英治は引き続きブンちゃんを疑いの目で見続けた。


「はい、これ、最終週のメニュー」そんなことは気にもせず、ブンちゃんは英治にファイルを手渡した。

「……最終週か……」英治は感慨深げにファイルを眺める。


「ブンちゃん」

「ん?」

「今まで本当にありがとう」

「英治……」

「ブンちゃんのおかげで俺ここまで来られた」

「やだ、英治ったら……」



「……これで終わりなわけじゃねーぞ?」

「え?」


 てっきりブンちゃんも同じ気持ちでしんみりしてくれていると思ったが、どうやらそうではなかったようだ。


「最初に言ったろ?ダイエットは一生続けていかなきゃいけない、って。お前すぐサボろうとすんなよ」

「いや、でも今ブンちゃん『最終週』って……」

「お前の休養中特別メニューの『最終週』に決まってるだろ」


 英治の顔を見るとつい意地悪をしたくなってしまうブンちゃんだった。

 ブンちゃんの言葉を聞いて英治はうなだれてしまった。


「まぁ、撮影終わったらストレス溜まんない程度に好きなもの食べなさい」

 

 飴と鞭は使い分けないとな、英治との長い付き合いの中でブンちゃんは心得ていた。


「え、ホント!?」


 思った通り英治の目の色は変わった。


「ホ・ン・ト。ただ、毎日お菓子食べるとか毎日揚げ物食べるとかはやめなさい。カラダに悪いから」

「うん、わかった!」

 英治は子供のように屈託がなく笑う。


「あと、ちゃんとここにも定期的に顔出しなさい。しんどい時は優しくしてあげるから」

「いつも優しくしてよぅ」英治は口を尖らせて言った。

「ダメ。英治はすぐ調子乗るから」

「ブンちゃんの意地悪……」

 

 英治はそう言いながらヨガマットに戻り、トレーニングを再開した。


「プリン……オムライス……エビフライ……ハンバーグ……」

 

 どうやら食べたいものでカウントを取っているようだ。


「……英治、それ逆効果じゃない?我慢できなくなりそうだけど」

「いや……好きな食べ物を思い浮かべて……あと一週間のトレーニングを乗り……きる……!!」

「あ、そう」

 

 本人がそれでいいのなら、と思い、ブンちゃんはそれ以上英治に何も言わなかった。

 最後に一言だけぽつりと残して。


「……好きな人にごほうびもらえるなら、何だって頑張っちゃうわよね」


「ん?ブンちゃん何か言った?」

「ううん、何でもない。ほら、あと2セット!!」



 あの時、見えてしまった。

 楓が英治に向かって呟く姿。

 それを見て英治が一気にやる気を出した姿。

 時々聞く英治の話から「恐らくそうなんだろう」と薄々思っていたが、それが確信に変わった瞬間だった。

 別に英治の想い人が判明したからと言って、ブンちゃんの英治に対する気持ちが変わるわけではないし、もちろん英治のブンちゃんに対する態度が変わるはずもない。

 ただ、親友として恋を応援したい気持ちと、好きな人に好かれている人間が目の前にいる歯がゆさが心の中に揺れているのもまた確かだった。



 アホか、お前は中学生か。

 ブンちゃんは自分で自分にツッコミを入れた。


「英治、あと3セットね」

「え、ブンちゃん、増えてない……?」

「気のせい、気のせい、はい、頑張ってー」


 英治が仕事復帰したらこんなに頻繁には会えなくなってしまう。

 だからせめて今だけは……一緒にいる時を楽しみたい。

 また中学生みたいなことを思ってしまった……ブンちゃんはそう思いながら、英治のトレーニングを続けた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、いよいよ撮影の日がやってきた。

 英治の家まで西村くんが迎えに来た。


「英治さん、おはようございます!」

「西村くん、おはよう……あれ、今日一人?」


 あからさまにがっかりした態度を取りかけて慌てて形勢を立て直す。


「あぁ、チーフですか?社長に呼ばれてるらしく、終わり次第駆けつけるそうです」

 そんな英治の慌てた様子には全く気付かず、西村くんは笑顔で答えた。

「じゃあ、行きましょうか!」



 現場は何もかもが久しぶりだった。たった数か月離れているだけ、と思っていたが、着替えをするにもメイクをするにも何だか落ち着かない。

 準備を終えた英治は控室に戻ろうとした。


「あれ、英治さん前室行かないんですか?」


 西村くんに声を掛けられた。以前の英治であれば準備を終えたらスタジオにある前室でスタッフと談笑しながら過ごすことが多かった。


「……うん、ちょっと一人にしてもらっていい?時間までにはちゃんと行くから」


 控室に入り一人になると、英治は座布団に腰かけた。

 柄にもなく緊張していた。


 ――失敗したらどうしよう。

 ――お前なんかいらない、って言われたらどうしよう。


 ふと鏡を見ると、不安そうな自分が目に入った。

 またいつもの不安に飲み込まれてしまうのだろうか。


 しかし、頭の中に聞こえてくる声は英治にとって意外なものだった。


 ――英治、今までどれだけ私と一緒にトレーニングしてきたと思ってるの?胸張りなさい。

 ――英治、私のダンスレッスンに比べたらどんなことも大したことないだろ?


 そして、一番大切な人の優しい声も聞こえる。



 ――英治なら大丈夫。ダメだったら一緒に謝ってあげるから。



 ふと時計を見るとそろそろ撮影が始まる時間だ。

 英治は自分の顔をパチンと叩いて控室を後にした。

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