第10話

 幻獣が母と聞いて、ガレスは真っ先にオリフィニアを見た。ハウトも彼女と同じく半幻獣だったのだろうか。そんな気配は微塵も感じなかったが。

「ハウトの母は息子を産んで間もなく死んだのだ。ここにいる后は二番目の妻だ、ハウトと血の繋がりはない」

 ハウトは乳母に育てられたが、時々本当の母が恋しくて泣いたそうだ。そのたびに王宮の泉の側にいた女神が音楽を奏で、王子の寂しさを慰めてくれたという。それをきっかけにハウトは女神とよく語らうようになったらしいが、国王の目には母に甘える子どものように映ったのだろう。

 女神がハウトをどのように感じていたのか定かではないが、少なくとも一人の子どもと感じる以上のなにかを抱えていたのは確かだろうと国王は言う。

「わが国に北の異国、カラヘッヤが侵攻してきたのは知っているな。その軍が王宮に入り込んだことは?」

「存じております」ガレスとオリフィニアはそろって頷く。「本には『武装した敵は非道な手段を取り、王宮は混乱に陥ったが、女神の加護によって事なきを得た』と書いてあったはずですが」

「カラヘッヤの軍は、六歳だったハウトを人質に取ったのだ」

 まさか異国の軍が王宮に侵入しているなんて、誰も思っていなかった。両国の軍が衝突していたのは国境付近で、王宮からは遠く離れている。こんなところまで敵が来るはずがないだろうと慢心していた隙を突かれた。

 幼いハウトはいつも通り庭で遊び回っていた。当時は親交のある異国から譲り受けた犬を飼っていて、彼はそれがお気に入りだったそうだ。侵入者に真っ先に気付いたのはハウトが投げた木の棒を取りに行った犬で、吠えて応援を呼ばれないようにと真っ先に殺された。

 なかなか戻ってこない犬を捜しに行ったハウトが捕らわれたのは言うまでもない。

「王宮中は混乱した。奴らはハウトを解放してほしくば降伏し、王宮を明け渡せと要求してきた」

「そもそもどうしてカラヘッヤは侵攻してきたんです?」

「わが国は水が豊富だろう。ここへ来る道中に見かけたと思うが、国の周囲には砂漠が広がっている。こんな砂漠のただなかで水を湛えるわが国は昔からたびたび恵みを求める他国に侵されているのだ。カラヘッヤもそうだった。あの年、あそこは干ばつが続き、農作物や家畜が次々に死に絶えた。ファラウラを乗っ取ることで水を得ようとしたのだろうな」

 当然、国王たちは彼らの要請に従わなかった。王宮の明け渡しはすなわち国の明け渡しだ。ハウトの命惜しさに従ったのでは、ファラウラとしての命が終わる。だが敵に従わなければハウトが殺されかねない。

 国の次代を担う若い命か、それとも国としての命か。

 国王がどちらも選べないでいると、痺れを切らし始めた敵の手からハウトが逃げ出した。腕に噛みついて力が緩んだ隙を突いたのである。

 だが敵は大人で、ハウトは子どもだ。子どもの足で逃げられる距離などたかが知れている。しかも彼は恐怖で混乱していた。こちらへ来いと呼びかける国王の声など耳に届いておらず、やみくもに庭を逃げ回り、石につまずいて転がった。

 敵がそんな機会を逃すはずはない。地べたで泣きわめく子供に剣を突き立てようとした。

「敵が貫いたのはハウトの胸ではなく、女神の胸だった」

「……殿下を庇った、ということですか」

「誰もが目を疑った。女神は争いごとに関しては基本的に行く末を見守るだけで、自ら動くことなど無かった。だがあの時、女神は確かにハウトを守った。国の未来を守ったのだ」

 女神がハウトを守るとほぼ同時に、王宮に自国の軍が到着した。攻防の末に敵は排除され、その後はカラヘッヤにも勝利し領土の一部を手に入れた。

「今でも覚えているよ。ハウトを庇ったまま、石像のように固まっていく女神の様子を」

「ただ刺されただけで女神が壊れることはないと思うので、運悪く刺された場所に〈核〉があったんだと思います」

 幻獣が〈核〉を持つ位置は色々だが、多くは心臓に当たる位置に埋め込まれている。女神もそうだったのだろう。

 母のように慕っていた女神が自分を庇い、しかも壊れた。死んでしまった。その様を間近で見ていたハウトの心境はいかばかりか。

 ドゥルーヴも言っていたはずだ。ハウトにとって女神は心の拠り所なのだと。彼が女神を意地でも蘇らせようとしているのは、〝母〟に再び会いたいからなのかも知れない。

 ――女神は、サラスヴァティーは俺の――――俺が…………!

 昨日この部屋でハウトが言いかけていたのは「サラスヴァティーは俺の母なのだ」だろうか。

 ――でも「俺が」の続きはなんだろう。

 答えらしい答えは出なかった。

 その後、国王と二言、三言ほど話したところで、ガレスたちは部屋を辞した。



 ガレスは机の上に広げた紙を前に唸っていた。

「どうしたんですか?」

「うわっ!」

 背後から急に覗き込まれ、ガレスの肩がびくりと揺れる。ばくばくと大暴れする心臓を宥めながら振り返ると、艶っぽく濡れた髪を拭いているオリフィニアがいた。

「お風呂、空きましたよ。坊ちゃんも入ったらどうです?」

 髪や体を洗う際に使ったのか、ほんのりと甘い石鹸の香りが彼女の周囲に漂っている。上気した頬の色っぽさも相まって、ガレスの心臓が先ほどの驚きとは違う意味でどきどきし始めた。

「こ、これ、書いたら、すぐに入る、から!」

「これ? 手紙ですか?」

「そ、そう」

 緊張のあまり言葉がぎこちなくなってしまった。だがオリフィニアは特に笑うことはせず、何ごともなくガレスの手元を覗き込んでくる。それはそれで自分だけ空回っているようで悔しい。

「父さんに一度、経過報告がてら手紙を出そうと思ってさ。昼間に楽団の人たちに話を聞いた時から考えてたんだ」

「ああ、なるほど。殿下から手紙をもらっていたと聞いた時のことですか」

「うん。母さんはあんまり気にしてなさそうだけど、父さんってほら、ちょっと心配症だろ? さすがに音沙汰無しはどうだろうなって思ったから、サラスヴァティーが幻獣で、ノイント家が作ったものだったことくらい報告しようかなって」

「その隣にある封筒はなんですか?」

「ああ、これは……」父への手紙の隣には、すでに封をした別の手紙が置いてある。「友だちに出すんだよ」

「お友だち? ……誰かいましたっけ?」

「いるよ!」

 声を張ってみたものの、オリフィニアは訝しげに首を傾げるばかりだ。

 ここ数年はろくな遠出もせず、基本的に家で幻獣の記録を読んだり、幻獣の世話をしたりしていたせいで、友だちがいないと思われているようだ。

「ほら、時々俺宛に手紙が届くことがあっただろ。あの相手だよ」

「あの相手と言われましても、私はそれがどなたなのか全く存じ上げないのですが」

「『放浪王子』って聞いたことない?」

「…………………………あっ」

 思い出すのにずいぶん時間がかかっていたが、無理もない。オリフィニアが〝放浪王子〟に会ったのは十年以上も前だろう。というか、顔を合わせていたかどうかも怪しいが。彼の性分を考えるとろくな挨拶もいていない可能性がある。それでも思い出してもらえただけありがたい。

「でも何故あの方と文通なんて……」

「気が合ったから、かな」

 実際、放浪王子はガレスの数少ない人間の友人である。貴重な存在だ。

 父宛の手紙も書き終えたところで、ガレスは二つの封筒を窓から勢いよく放り投げた。そのまま落ちていくのかと思いきや、封筒はふわりと舞い上がってくるりと回転したかと思うと、次の瞬間には封筒と同じ色をした鳥が出来上がっており、二羽は音もなく月夜に吸い込まれるように飛んでいった。

「今のって」

「幻獣作成の応用みたいなもの」

 一時的に鳥の姿になれるよう封筒に神力イラを注いだのだ。幻獣と違って〈核〉はなく、紙に注がれた分の神力が切れると同時に元に戻る。幻獣ではないので罰せられる心配もない。

 オリフィニアは初めて見る技だったのか、目を白黒させて呆然としている。

「いつからそんな技を?」

「結構前から使えたよ。幻獣の遊び相手をしてる時に使ったりしてさ。草とか花でも出来るんだけど、石は硬いからかな、なかなか生き物の形にならないから難しくて……フィニ?」

 ふと彼女を見ると、喜ばしいような切ないような、どっちつかずの淡い笑みを浮かべてガレスを見つめていた。

「知らないうちに成長なさっていたんだなあ、と思いまして。ちょっと前まではこんなに小さかったのに」

 こんなに、の時にオリフィニアは己の腰辺りで手を動かした。それだけ小さかったのはずいぶん昔のことだ。

「……まあ、いつまでも子どものままじゃないからね」

「そう分かっていても寂しいものですよ。甘えてくれていた弟がどんどん大きくなるって」

 ――弟、かあ。

 やはりオリフィニアにとって、ガレスはそういう認識なのか。

 分かりきってはいたが、改めて言葉にされると胸が苦しい。

 いっそ好きだと想いを伝えられたら楽だろう。だが断られたら? 間違いなく今と同じ関係のままではいられない。ガレスはそこまで器用な性質ではないから。オリフィニアだって困るだろう。そんな顔は見たくない。

「ほら坊ちゃん、このまま寝てはいけませんよ」

 ぺちぺちと頬を叩かれ、ガレスは初めて自分が目を閉じていたことに気づいた。昼間に魔力を浄化したのと、封筒を鳥に変えるのとで、今日は二度も神力を使っている。減った分を取り戻そうと眠ってしまうのも無理はなかった。

 ――ああもう、情けない。

 オリフィニアが知らない技を使ってちょっと自信が出たのに、すぐにこれだ。世話を焼かれてしまう。姉というより母に相手をされているようだ。

「ここのお風呂、広すぎて落ち着かないんだよなあ……」

「そうですか? ゆったりとしていていいじゃないですか」

 故郷では基本的に庶民は桶にいれた水で体を拭いて清めるのが普通なのだが、両親が旅先で入浴の文化に触れたとかで、エアスト家には湯船がある。けれど人が一人、膝を抱えて入れるくらいの大きさしかなく、対してガレスとオリフィニアが寝泊まりしているここに設けられたそれは馬鹿みたいに広いし大きい。五人くらい浸かっても余裕がありそうなほどだ。

 眠気でぼんやりとする頭を働かせながら風呂に向かい、素っ裸になって肩まで浸かる。はー、と息をこぼしたところで、衝立で仕切られた脱衣所からオリフィニアの声が聞こえた。

「お湯はちゃんと新しいものに入れ替えてありますからね」

「あ、うん。ありがとう。ていうかなんでそこにいるの? 先に寝てもいいのに」

「坊ちゃんがそのままそこで眠ってしまわないように話をするためです。お風呂で寝たら溺れちゃうかもしれませんからね」

「そんなこと、」

 ないって、と言いかけてあくびに遮られた。オリフィニアがくすくすと笑う気配がする。せっかくの反論が台無しだ。

 少しでも眠気を覚まそうと、ガレスは手のひらいっぱいに湯をすくって顔を洗った。

「手紙はそれぞれいつごろ届くんです?」

「何事もなければ、家には明日の夜くらい、王子の方は明後日の朝くらいかな」

「旅先からも手紙を出すほどなんて、よほど放浪王子と仲が良いんですね」

「まあ、うん。仲が良いのは確かだけど、さっきの手紙はちょっと特殊っていうか」

「え?」

「そのうち分かるよ。あ、そうだフィニ。明日なんだけどさ、もう一回城下町に出ようと思うんだ。今度こそドゥルーヴくんを誘ってアニックさんのお店に行くのと、あと、楽団の人たちと話をしたくて」

「例の件ですね。分かりました、構いませんよ。じゃあまずはドゥルーヴさんを捜しに行かないといけませんね」

「…………」

「坊ちゃん?」

 返事がないのを不思議がったオリフィニアが衝立から顔を覗かせると、案の定、ガレスはぐうぐうと寝息をたてて眠っていた。

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