第7話

 ざらざらと肌触りの悪い布で全身を撫でられているような、非常に不愉快で気持ち悪い感覚がした。

 明け方、ガレスは寝ぼけ眼をうっすら開け、感じ取った何かの正体を探るようにのろのろと腕を伸ばした。まだ半分夢を見ているような心地で、今の自分の行動が現実なのか幻なのか、いまいち区別がつかない。

 ――なんだろうな……。

 手をふらふら動かし、霞をつかむようにたまにぐっと手を握る。指先に意識を集中させ、それを何度か繰り返した。

 ガレスが感じたのは、神力イラのような気配だった。

 けれど自分のそれではない。オリフィニアが昨晩ドゥルーヴに披露した力の残滓かとも思ったがどうも違う。ガレスの神力は太陽光をたっぷり浴びたひまわりのような気配がするし、オリフィニアの神力は広大で神秘的な海の豊かさと磯のにおいを閉じ込めたような感覚がする。

 だが先ほど感じ取ったのは、そのどちらでもない。初めこそざらざらした不快感があったが、現在は気配が強くなったのか、むき出しになったバラの棘でぶすぶすと刺されているような気分がした。

 ――こんな神力、初めてだな。誰のだろう。ファラウラに来てから俺たち以外の神力なんて、女神の欠片の他に感じなかったけど。

 ――……待てよ、これ、本当に神力か?

「――――――まさかっ……!」

 自分がとらえた力の気配の正体に気付いた瞬間、ガレスは飛び跳ねるようにして身を起こした。あまりの勢いにベッドが激しく揺れたが、オリフィニアは深い眠りの中に囚われているらしく、むう、と不満を訴えるように小さく唸っただけで目を覚ましはしなかった。

 じっとりと手が汗ばんでいる。ガレスは腕で額の汗を拭い、握りこんでいた手を開いた。起き上がった途端に先ほどまで感じていた気配はどこかへ消えていたが、汗で濡れる手のひらには力の名残があった。

 やがてそれもガレスが吐き出したため息に流されるようにして消え、不愉快な気配はもう感じない。

「ッ……フィニ! フィニってば!」

 熟睡している彼女を起こすのは忍びないが、ガレスは耳元で叫びながら強く肩を揺さぶった。フィニ、と五回ほど呼んだところで、彼女はようやくまぶたを開けた。

「おはようございます、坊ちゃん……よく眠れましたか?」

「それどころじゃないんだよ!」

 ガレスは先ほど感じ取った気配について早口で説明した。

「多分っていうか確実に、さっきのは神力じゃない。神力みたいな穏やかな感じじゃなかった」

「……ということは、もしかして」

魔力マナだと思う」

 出来ることなら考えたくなかったけど、と続けたガレスの声は重い。

 魔力――近年になって確認された、新たな力だ。

 神力が神由来であるのに対し、魔力は人から生まれる。嫉妬、嫌悪、怨嗟など、主に負の感情がもととなって強さを増すのだ。

「これまで魔力は感じていたんですか?」

「いや、この国ではさっきのが初めて。だから誰が持つ魔力なのかまでは分からなかった。あと魔力は神力と違って目に見えるだろ? でも俺が起きた時にはどこにもなくて気配だけが残ってたから、魔力が使われたか、ただ体から滲み出ただけなのかは分からない。けど、どちらにしても時間が経ってたんじゃないかな」

 神力を白い力とするならば、魔力は黒い力だと呼ばれている。その所以は発生時に必ず目撃される黒い靄だ。ガレスが起きた時に靄なんてどこにもなく、だから魔力だと気付くのにも遅れた。

 感じ取った力から推測する限り、まだそれほど強い力ではなさそうだ。

「……出来るだけ早いうちに魔力の保持者を見つけて、浄化しないとまずいかも」

「王宮だけでなく、町にまで魔力が漂うとなにが起こるか分かりませんからね」

「神力と違って魔力は人に影響を与えやすいし。魔獣なんていたならもう最悪だ」

 神力と対になるのが魔力なら、幻獣と対になる存在が魔獣だ。こちらは人工生命体ではなく生きている動物なのだが、額に強制的に取り付けられた角から魔力を吸収し、暴れ回る厄介者である。

 魔獣が暴れると魔力は周囲に拡散し、その影響を受ける人々が現れる可能性もある。

 それを浄化して打ち消すには神力を対象に注ぐ以外に方法はなく、神力の操作は魔術師にしか出来ない。

「女神の調査と並行して、魔力の発生源も確認しなきゃいけなくなったな。余計な仕事が増えた……」

「魔力の影響を受けているものを見つけたら浄化すればいいですね? 神力を注ぐくらいなら半幻獣の私にもできますから」

「お願いできるかな」

「お任せください。殿下やドゥルーヴさんには伝えますか?」

「……いや、言わなくていいんじゃないかな。混乱しちゃうと困るし」

 魔力は誰にでも見えるが、持ち主を確実に判断できるのはガレスしかいない。

 気配は先ほど覚えた。問題ない。次に魔力を感じ取った時が好機だ。

 ――被害が出る前に、浄化しないと。

 群青色の瞳に、強い決意の光が宿った。



 部屋で朝食を済ませてすぐに、ガレスは神話の本を、オリフィニアは建国秘話の本をそれぞれ開いた。

 昼近くになるまで無言で読み続けて、お互いが読んだ内容を話し合ったところで、二人は一つの結論を出した。

「サラスヴァティーが国に現れたのは約三百年前になってるけど、それ以前に成立したと思う神話にも名前が載ってることを考えると、サラスヴァティーは『基の神話があって、そこへたまたまやってきた幻獣が偶然にも一致』したんだ」

「ノイント家はサラスヴァティーを知っていたんでしょうね。でなければ作ったりしないはずです」

「じゃあ『偶然に一致』っていうのはちょっと違うかな。この国では信仰されているって分かった上でやってきたのかも」

 サラスヴァティーが降臨するまで、ファラウラでは他にも多数の神が信仰されていたようだ。だが特定の神が実際に目の前に現れたとあって、一気にサラスヴァティー信仰が台頭するようになったと思われる。町で見かけた聖堂も、他の神を奉っているものは無かった。

 実際には本物の神ではなく、それを模った幻獣だったわけだが、駆使する力は神と同等だ。人々に乞われて水を湧かせたりすることもあっただろう。二十年前に壊れてしまうまでは。

「けど、とりあえずこれではっきりしたよ。サラスヴァティーが消えたことで加護が無くなったってことは確実にない」

 神の名を冠するとはいえ、所詮は幻獣だ。神と同等の力を扱うけれど、決して神と同じ存在ではないのだ。

 人や獣、植物に潤いを与え、また人々に知恵を貸してくれたのは「神話に綴られているサラスヴァティー」であって、「ノイント家が作った幻獣サラスヴァティー」ではない。ハウトの父王が体調を崩し、臥せっているというのも女神が消えたのとは無関係と言い切って問題ないだろう。

 約三百年前に〝ノイント家のサラスヴァティー〟が降臨するまで、天候による災害や他国からの侵略という災難がたびたび起こってはいるものの、加護が無いとか薄れたとか、そういった問題は特に記されていないのがその証拠だ。また降臨してからも同様の災難は確認されている。

「そういえば坊ちゃん、昨日寝る前になにか言いかけていませんでした?」

「ああ、うん。女神の消失が関係ないなら、王が寝込んでるのはなんとかなると思うって言いかけた」

 さっそくガレスはオリフィニアとともに部屋を出た。王に面会を希望するためだ。

 とはいえ二人は王の居室を知らない。例え知っていたとしてもいきなり押し掛けたのでは無礼だ。取り次いでもらうために、まずはドゥルーヴを捜した。

 彼の姿を捜しながら、そういえば、とガレスは思い出した。

 昨日の夜、寝る直前に――なにかが頬に。

 触れた部分を手で撫でて、考え込むこと数秒。ガレスの顔がリンゴのように赤くなった。

 ――き、昨日、もしかしてフィニ、俺にキスした、のか?

 ちゅ、と聞こえた微かな音と、頬に押し付けられた柔らかな感触をまざまざと思い出す。あれが唇でなかったら何なのだ。

 ――いや待て、落ち着け俺。頬にキスくらい昔からしてたじゃないか!

「坊ちゃん?」

「あ、ううん。なんでもない」

 オリフィニアに不思議そうな目を向けられ、ガレスは努めて平静な表情を保った。それでも顔の赤さは誤魔化しきれていないかも知れないが。

 ――でも最近はしてなかったような気がするな。なんでだ?

 ――……なんでも何も、俺が恥ずかしがってやらないでくれって言ったからだ。

 半幻獣として力を使い、父や母の仕事に同行するオリフィニアには昔から憧れを抱いていた。憧憬が恋心に変わったのは、ガレスが十三、四歳の頃だ。

 それまで手をつないだり、一緒に寝たり、頬にキスくらい普通にしていたのに、恋していると自覚した途端に恥ずかしくなって出来なくなった。手は繋がなくていい、一人で寝る、キスしないでくれと伝えた時、オリフィニアがガレスの成長を喜ぶとともに、寂しそうな笑顔を浮かべたのを覚えている。

 ――じゃあなんで、昨日はキスしたんだ……?

 聞いてみたい気もするが、わざわざ訊ねるのも恥ずかしい。聞いたとして、特に意味はないなんて言われたらものすごく凹んでしまう。

「坊ちゃん」

「だからなんでもないって!」

「? なにがなんでもないのかは分かりませんが、ほら、正面」

「えっ、あ、うん」

 二人が歩いている回廊の先からは、ドゥルーヴを引き連れてハウトがこちらに向かってくる。ガレスたちを見つけて鷹揚な笑みを向けてくるハウトと挨拶を交わすと、彼は「ちょうどよかった」と胸を張った。

「今から向かう場所にそなたたちも連れていくつもりだったのだ。人を呼びに行かせようと思っていたがちょうどいい。ついてこい」

「ど、どこにですか?」

 ガレスの問いに、ハウトはなにやら自信満々に笑うだけで答えてくれなかった。

 国王に会わせてくれないかと頼む間もなく、二人が連れていかれたのは王宮の端にある、土を塗り固めて作ったような、今にも崩れないかと心配になる小屋だった。厩舎より少し大きなくらいか。

 どことなく陰気なそこに近づいた瞬間、ガレスの表情が固まった。

 ――こ、これ、は。

 ――魔力マナほど強くはないけど、でも……。

 今朝がた感じた嫌な気配に似たざわめきが、ざらりと肌を撫でていく。ガレスの険しい顔から異変を感じ取ったのか、「どうしました」とオリフィニアがひそひそと訊ねてきた。

「魔力って言えるほどじゃない……なんていうのかな、今にも魔力が生まれそうっていうか、そんな気配がする」

「この中から、ですか」

「うん」

「どうした、なにを立ち止まっている」

 ハウトはすでに小屋に入りかけていた。沈痛な面持ちで扉を開けているのはドゥルーヴである。出来るだけ中を見ないようにとしているのか、彼は視線を俯けたままびくともしない。

 魔力になりかけている気配が漂うような場所に足を踏み入れるのは、正直に言うと恐ろしい。だが魔力になっていないのなら浄化もそのぶん簡単だし楽だ。神力の消費量が少なくて済む。

 コップに入った水を飲めば量が減るように、神力も同じく使えば減るし疲労する。減った分は十分な食事や睡眠をとることで回復するが、枯渇するほどまで使い切ると意識を失ってしばらく目覚めないこともあるのだ。

「出来ることなら、少ない消費量で浄化したいけど……」

 さり気なくため息をつきながら、ハウトを追って小屋に入り込む。直後、鉄くささを含んだにおいが鼻をついた。後ろにいたオリフィニアは内部を目にした瞬間に息をのみ、言葉を失っている。

 ――な、んだ、ここ。

 小屋の中には大人数をまとめて収容しておくための広い牢と、一人だけを押し込める閉塞的な房が複数確認できる。どうやらここは罪人を閉じ込めておくための設備らしい。

 今はその全てに、大勢の老若男女が収容されている。誰もがボロボロで元の色も分からない衣をまとい、両手両足に枷をつけられ、物音を立てるのを恐れるように身を寄せ合って固まっていた。

 どうしてこんなところに連れてきたのかと絶句するガレスとオリフィニアの前で、ハウトはこの場には不釣り合いなほどにこやかに笑い、両腕を広げた。

「女神が蘇るための材料を揃えてやったぞ。さあ、この中から適した者を選ぶがいい」

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