深愛3 Forever Love

桜蓮

◆クラスメイト◆

僕のクラスにはいつも誰も座っていない席が1つある。

そこは4月からずっと、ほぼ毎日空席のまま。

机と椅子はそこにあるのに誰も座っていないせいで、その席自体がまるで存在しないかのように思える。


クラス替えがあった4月。

新学年を迎えた僕は、なんだか清々しい気持ちで教室に入った。

黒板に貼ってあった座席表を確認すると、僕の席は窓際の前から3番目だった。

その席に着いた僕はぐるりと教室を見渡す。

まだ時間が早いせいか全体の半分は空席だった。

時間は刻一刻と過ぎていき

朝のHRの時間を知らせるチャイムが鳴り響いた時、僕の1つ前の席だけが空席だった。


5月になっても僕の1つ前の席に人が座る事はなかった。

クラス替えからもう1ヶ月。

僕の1つ前の席の人は、1度も学校に来ていない。


紺野 美桜


出席を取る時に僕の1つ前に呼ばれる名前。

僕はクラス替えがあってから1度も彼女の声を聞いた事はない。

彼女が学校に来ないのに先生は何も言わないし、クラスメイト達も何も言わない。

もしかしたら、彼女は身体を壊していて入院しているのかもしれない。


3年生になって初めて彼女と同じクラスになった僕は

彼女が学校に来ない理由が分からなかった。

僕はいつも空いているその席を僕は毎日ボンヤリと眺めていた。


梅雨明けも近い7月の初め。

その日は、珍しく天気のいい日だった。

朝から太陽が出ていて、日差しの強さが夏の訪れが近い事を感じさせた。


鬱陶しい梅雨に久々の晴れ間。

本当ならば気分も軽くなりそうなものだけど

僕の心はどんよりと重かった。

教室に一歩、足を踏み入れると

いつもとは違う緊迫感が漂っていた。

その雰囲気に僕は小さな溜息を1つ吐き、自分の席に着いた。

「ねぇ、勉強してきた?」

隣の席の女子が僕の顔を覗き込む。

「少しだけ」

本当は、昨日も深夜まで勉強していたのに僕はそう答えた。

「本当?実は私もあんまりしてないんだ」

安心したように笑う彼女に、僕は愛想笑いを浮かべて小さく頷いた。


大して仲がいい訳じゃない彼女は僕の言葉を信じ、満足そうに微笑んだ。


「テストなんて無くなっちゃえばいいのにね」

「そうだね」

頷きながら僕は思う。

確かにテストなんてなくなればいい。

でも、実際に無くなったらそれはそれで困るんじゃないかと…。


それを口に出来ないのは、僕が弱いからだ。

大して仲がいい訳じゃない彼女に気を遣うのは

自分の居場所を確保するために違いない。


今日も朝のHRの始まりを知らせるチャイムが鳴り響く。

それと同時に教室に入ってくる担任。

簡単に挨拶を済ませ、出席を取り始める。

淡々と進められていく日常。


今日も僕の1つ前の席には誰も座っていない。

そして、僕の1つ前に呼ばれる名前に返事をする人はいない。

彼女がここにいないのに先生は何も言わないし、クラスメイト達も何も言わない。


この教室内では彼女がいない事が日常になっているのかもしれない。

僕はそう思った。


だけど、日常というものは突然崩れるものなのかもしれない。

その出来事は僕の名前がもうすぐ呼ばれるという時に起きた。

担任の声だけが聞こえる教室内に突然ドアを開ける音が響いた。

日常では有り得ない音に、そこにいた全員が視線を向ける。

向けた視線の先に立っていたのは、見慣れない女の子だった。

彼女が教室に入ってきたことで流れる沈黙の時間。

数十秒ほど続いたその沈黙を破ったのは少し困ったような表情の担任だった。


「紺野、来たのか」

そう言った担任の目は、まるで『なんで来たんだ?』と問い詰めているようだった。

担任のそんな態度に

「はい」

彼女は戸惑いを見せることもなく答えた。


静まり返った教室内で初めて彼女の声を聞いた僕は

その声をまるで鈴の音のようだと思った。

心地良く耳に響く声だと…。


「席に着きなさい」

遅刻したことを咎めることもなく担任は僕の1つ前の席を顎で指した。

彼女は小さく頷くと、担任の視線の先を辿るように歩みを進める。

クラスメイト達の視線を一身に受けながらも彼女はとても堂々としていた。


俯くことも無く

しっかりと顔を上げ

真っ直ぐに前だけを見ていた。

その表情は凛としていた。

決して高いとは言えない身長。

他のクラスメイトよりも格段に明るい髪の色。

校則では肩の位置より伸びた髪は黒のゴムで結ぶことになっていたが、彼女は胸の下まで伸びた

髪をおろしていた。

彼女が歩くたびにその髪がさらさらと揺れる。

白く透けるような肌

大きな瞳

ピンク色の頬と唇。

うっすらと施されているメイクは彼女を少しだけ大人っぽくみせていた。

鎖骨が見える程度に開けられたYシャツのボタンと緩く結ばれているリボン。

短いスカートからスラリと伸びる足には学校指定ではない紺色のハイソックス。


彼女の容姿に男子はざわめき、女子は眉間に皺を寄せた。


それでも担任は、まるで一瞬で崩れてしまった日常を取り戻そうとするかのように…

何事もなかったように出席を取り始めた。

彼女の小さな身体に反して、その存在感はとても大きかった。

僕の1つ前の席に辿り着いた彼女は、手に持っていたスクールバッグを机の横に掛け椅子を引いて腰を降ろした。

◆◆◆◆◆


その翌日も彼女は学校にやって来た。

昨日と同じように担任よりあとに彼女は教室に入って来た。

それでも彼女が担任に咎められる事はなかった。

それにこのクラスの担任は生活指導の主任でもあるのに彼女の格好についてもなにも言わない。


もし、他の生徒が彼女と同じような格好をしていれば、すぐに注意するはずなのに…

注意すらしようとしない。


昨日は彼女が教室に入って来た時、短いながらも声を掛けた担任が、今日は一言も言葉を発っさなかった。

ドアが開き入ってきた彼女をチラッと一瞥しただけで出席をとり続けていた。

また、彼女もそんな担任の態度を気にする様子もなく自分の席へと歩みを進める。

昨日と同じように堂々と…。


そんな彼女から僕は目が逸らせなかった。

あまりにも彼女をまじまじと見つめすぎていたのかもしれない。

席に辿り着いた彼女がスクールバッグを机の横に掛け椅子を引き

不意に僕へと視線を向けた。

彼女を見ていた僕と

僕に視線を向けた彼女。


必然的にお互いの視線が重なり合う。

彼女に大きな瞳で見つめられた僕は正直焦った。

焦った僕は咄嗟にロを開いた。


「おはよう」

すると彼女は、少しの間を置いたあと

「おはよう」

鈴の音のような声でそう言った。


ただ挨拶を交わしただけなのに、僕は無性に嬉しかった。

いつもは誰も座っていない席に、人が座っている。

ただそれだけなのに、なぜか僕の心は安らいだ。

それはまるでぽっかりと開いた穴に何かがすっぽりと嵌まるような感覚だった。


休み時間になったら話しかけてみようかな。

昨日は、休み時間も1人でいた彼女を思い出し僕はそんな事を考えながら数学のテストを受けていた。


挨拶を交わせたことで僕は浮かれていたのかもしれない。

どうして彼女が今まで学校に来なかったのか…

浮かれ過ぎていた僕がその理由を知ったのは、数学のテストが終わってすぐの休み時間のことだった。


テストの終了を告げるチャイムが鳴り響き、静まり返っていた教室内が俄かにざわめき始める。

全員分の答案用紙を集めた担任が、教室を出て行くと一気に騒がしくなりクラスメイト達が自由に席を立つ。


いつもなら、僕も友人の席へと向かうのだが、今日は自分の席を離れようとは思わなかった。

次の時間にある予定の英語の参考書を机の上に出し、それを広げて視線を落とす。

クラスメイト達から見れば最後の悪足掻きにも見えなくはないかもしれないが、僕にとって、そんな事はどうでもいい事だった。


普段の僕ならテストのぎりぎりの時間になってまで参考書を開いたりしない。

間違っても他人に必死な姿なんて見せたくはない。

そんな普段の自分を曲げてでも僕は自分の机から離れたくなかったのだ。


目で追う英単語が全く頭に入ってこない。

だけど、その時の僕にとってみればどうでもいい事だった。

眺めている英単語すら頭に入ってこない僕の頭は、必死で彼女に話し掛けるタイミングを見計らっていた。


10分という短時間の間に彼女に話し掛けなければいけない。

その事実に僕は大きなプレッシャーを感じていた。


…なんて声をかけよう…。

そう考えていた時、前で気配が動いたのを感じた。

参考書に落としていた視線を上げると、彼女が椅子から腰を上げた所だった。


立ち上がった彼女が椅子を戻し、ゆっくりとした足取りでドアの方へと向かう。

彼女の小さな手にはピンク色のハンカチが握られている。

それを見た僕は、彼女はトイレに行ったんだと判断できた。


…よし、彼女が戻ってきたタイミングで声をかけよう。

そう考えた僕の心は、さっきまで感じていたプレッシャーから少しだけ解放され、気持ちが軽くなったような気がした。

タイミングさえあれば、話し掛ける内容なんてなんでもいい。

『テスト出来た?』でもいいし…。

『英語のテスト、自信ある?』でもいい。

学校に来てから彼女はずっと1人だった。

きっと誰かと話したいと思っているはずだ。


僕はそう確信していて

その確信にはなぜか自信があった。

明らかにいつもとは違う僕がそこにはいた。


いつもは冷静沈着というキャラクターを演じているはずの僕が

今日はそのキャラクターを演じる事さえも忘れてしまっていた。

そんな僕の耳に届いたのは、クラスメイトの声だった。


『紺野さんって何で来たんだろうね?』

その声は教室内の喧騒さえ聞こえていなかった僕の耳に鮮明に響いた。

机の上の参考書に視線を向けたまま、僕の全神経は、クラスメイト達の会話に向けられていた。

斜め後ろの席に集まる数人の女子達。

彼女達は小さな声ではあるものの、それでも僕にははっきりと聞こえる声で話をしていた。


『やっぱりテストだからじゃない?』

『紺野さんでもテストは重要なんだ』

『そりゃあ、そうでしょう』

クスクスと笑う女子達の声が自棄に耳に残る。

彼女達の声にどこか悪意を感じてしまうのは、僕の気の所為だろうか。

『…てかさ、紺野さんってよく繁華街にいるんでしょ?』

『あ~、夜でしょ?』

『それ、私も聞いた事ある』

『深夜とか明け方までいるって聞いたよ』

『そんな時間に繁華街でなにしてんの?って話だよね』

『やっぱあれじゃない?』

『あれって?』

『施設にはいたくないんじゃない?』

『は?施設ってなに?』

『え?あんた知らないの?紺野さんって小さい時に親に捨てられたから施設で暮らしてるって有名な話じゃん』

『マジで!? 私、初耳なんだけど!?』

『そういえば、あんたって紺野さんと同じクラスになるの初めてだもんね。私とか、小学校から一緒だから』

『へぇ~そうなんだ。親に捨てられるとかマジで同情するんだけど』


…言葉は時としてとても残酷で…。

鋭利な刃物の様に人の心を気付ける。


彼女達は『同情する』とか言いながら楽しそうに笑っていた。

もしも、彼女達が紺野さんの立場だったとしたら

その言葉に耐えられるのだろうか?

その嘲笑に傷付かないのだろうか?

そんな事を考えてはいるけど

彼女達の話を黙って聞いている僕自身も

彼女達と同類ではないだろうか?


『まぁ、確かに同情はするけど、ちょっとは空気をよんでって気もするんだよね』

『空気?』

『ほら、いつもは学校に来ないのにテストだからってわざわざ来ても先生も困ってたじゃん』

『確かに!!』


その時だった。

伏せていた僕の視界の端に栗色の柔らかそうな髪が映った。

僕の身体は強張った。

彼女が今ここにいるということは、僕が今まで聞いていた話を彼女も聞いていたということで…。

彼女がいつからいたのかが分からないから、どこから話を聞いていたのかは分からない。


だけど、聞こえていた話の内容はどこから聞いたとしても彼女にしてみれば最悪なものに違いはなく…。

僕は彼女の気持ちを考えると絶望的な気持ちになった。


それと同時に、冷静なもう1人の自分もいて、この後の彼女がとる行動を予測していた。

泣き喚くのか…。

話をしていた彼女達に文句を言うのか…。

僕の乏しい頭ではそんな事ぐらいしか浮かばなかった。


彼女がどちらの行動をとったとしても、この教室内が騒然となることは必須で…。

僕はその時にどんな行動を取ればいいのか

そんな事を考えていた。


…だけど、そんな僕の考えは無駄以外の何物でもないことに気付くのはすぐだった。


彼女は、表情1つ変えず自分の席に近付き椅子を引いた。

その行動は、まるでなにも聞こえなかったかのようにも見えた。


だけど、僕にもはっきりと聞こえるくらいの声量で話されていた内容が彼女に聞こえない訳がない。

当然、彼女にも聞こえていたはずなのに…。

彼女が動揺することはなかった。


彼女が椅子を引いた時、僅かに音が響いた。

その音で後ろから聞こえていた笑い声がピタリと止んだ。

そして、漂ってくるのは気まずそうな空気。

その空気を全身で感じながら、僕は微かに視線を上げた。

僕の視線の先に見えるのは、正面を向こうとしていた彼女の横顔。

何度見てみても、その表情から彼女の感情を読み取ることは不可能だった。


始業を知らせるチャイムが鳴り、教師が入ってくる。

席を立っていたクラスメイト達が慌ただしく自分の席へと戻っていく。


それはいつもと同じ、見慣れた光景だった。

結局、何事もなかったかのようにテスト用紙が配られ

その日最後の英語のテストが始まった。



◆◆◆◆◆


その翌日から、また僕の1つ前の席は空席となった。

結局、紺野さんが学校に来たのはテストが行われた2日間だけだった。

テストの期間中、僕が紺野さんと交わしたのは短い挨拶の言葉だけ…。

あんなにも話し掛けてみようと意気込んでいたのに、僕は彼女に何も言葉を掛ける事はできなかった。

そして、また教室には日常が訪れる。


他愛ない会話。

溢れる笑い声。

繰り返し聞こえるチャイムの音が流れる時間を教えてくれる。


ただ1つ。

僕の1つ前の席が空席なのを除けば…。

それは、普通でなんの異変もない日常だったに違いない。


終業式の日も、紺野さんは学校には来なかった。

…もしかしたら…。

なんて期待はものの見事に崩れ去った。


どうして、僕はこんなに彼女が学校に来ることを待ち詫びているんだろう。

その答えは、僕自身にも分からなかった。


…ただ…。

もう1度見たいと思った。

あの数学のテストの時間。

途中でふと顔を上げた僕の視界に映った柔らかそうな栗色の髪の毛。

サラサラの髪の毛は、窓から入ってくる風に靡いていた。


その光景が瞼の奥に焼き付いて離れない。

だからかもしれない。

無性に彼女にもう1度会いたいと思ってしまう。


そんな僕の望みは夏休みの終わりに叶えられた。

夏休みに参加した夏期講習。

高校受験に向けて塾を変えようと思っていた僕は繁華街にある塾の見学も兼ねてそれに参加した。


朝から夏期講習に参加し、僕がその塾を出たのは繁華街が茜色に染まる頃だった。

人で溢れ返る繁華街のメインストリートを歩き、駅に向かっていると鞄の中から無機質な音が聞こえてきた。

それを取り出し液晶を見ると、母からだった。


多分、今日行った塾の感想と夏期講習がどうだったのかを知りたいんだろう。

朝、家を出る間際まで心配そうだった母の姿を思い出し僕はそう思った。


「…もしもし」

「夏期講習終わった?」

「うん」

「どうだった?」

「どうだったって…普通」

「そう、じゃあ、そこに決めるんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、申込書をもらってきてね」

「分かった」

そう答えながら、僕は異変に気付いた。


繁華街のメインストリート。

そこに溢れ返る人の波。

必然的に歩くのも困難な状況なのに、ぽっかりと開けた空間。

その空間に向けられるたくさんの視線。

そして、聞こえてくる様々な声。

その声の大半は、若い女性の嬌声だった。

それに掻き消されそうになりながら、男の声も聞こえる。

尊敬や憧れを象徴するような声。

敵意を剥き出しにするような罵倒や怒声。

相反する2つの声は、僕がその空間の中心に興味を抱かせるには十分だった。


耳に当てたケイタイからは、いつもと変わらない母の声がひっきりなしに聞こえてくる。

独り言のように、僕に返事を求めない母との会話を

いつもは面倒だと思うけど

今日はありがたいとさえ思った。


ケイタイを耳に当てたままぽっかりと開けた空間の周りにできた、人集りに近付く。

背の低い女の子の集団の後ろに立った僕は、案外簡単にその空間の中心にいる人を見ることができた。

その空間の中心にいたのは2人の男女だった。

男の方は羨ましい程の長身でアッシュブラウンの髪の毛。

センスの良いダーク系の服に身を包み、さりげなく付けられているアクセサリーがどことなく品の良さを感じさせる。


顔を隠す為なのか、それとも夏の眩しい日差しを遮る為なのか。

掛けられているサングラスも彼の魅力を増長させるアイテムの1つにすぎなかった。

そのサングラスの下にある顔もきっと端正なんだろう。

サングラスからはみ出したパーツを見て、僕はそう思った。


中学生の僕とは違い、その男は大人の男だった。

一見、その男を芸能人とかモデルかとも思った。

だけど、それが間違った憶測だと気付くのにそう時間はかからなかった。


彼が放つオーラというか雰囲気が芸能人とかモデルとかそんなものとは違うこと。

そして、人集りの中から聞こえてくる声。

"神宮さん”とか”蓮さん”とか…。

それが男の名前だとすれば、彼は芸能人でもモデルでもない。


実際のところ、この繁華街では芸能人やモデル以上に彼は有名人に違いはない。

なぜなら、この街の住人ではない僕でもその名前を知っているのだから。

神宮 蓮

彼を知っているとは言っても、それは僕の一方的なもので

100%の確率で彼は僕のことは知らない。

僕自身も彼を知っているとはいえ、本当に知っているのは彼の噂話というか…武勇伝みたいなもの。


神宮 蓮は高校生の時仲の良かった友達とチームを創ったとか

どんなに大きなチームでも成し得なかった、繁華街の完全統一をたったの3ヶ月で達成したとか

はじめは5人しかいなかったチームのメンバーを3000人にまで増やしたとか

彼の親はヤクザの組長だとか

とてつもなく頭がいい上にケンカが強いだとか

彼を取り巻く話は、僕が生きる世界とは…そう、まるで別世界の話ばかりだった。

よく分からない世界の話。


それでも1つだけ僕が分かるのは…

”神宮 蓮には関わってはいけない”

彼はそのくらいの危険人物だということ。

そんな彼がこの繁華街にいることは、別におかしいことではない。

この繁華街は彼の生活圏の中心だということは誰でも知っている。


ただ、時間帯が少しだけ早い気がする。

彼が人前に姿を現すのは、この繁華街を闇が支配する頃。

空に月が浮かび、星が瞬く時間帯だと僕は聞いていた。

なんでこの時間帯に彼がここにいるんだろう。

僕はぼんやりとそんなことを考えていた。

そんな僕の耳に届いたのは


「…てか、あの女なに?」

前にいる集団から聞こえてきた声に僕は現実に引き戻された。


高校の制服を着崩し、派手なメイクに明るい髪色の集団。

その視線の先には、神宮 蓮と背の低い女の子。


神宮 蓮に肩を抱かれている女の子。

ぴったりと密着している2人の身体。

身長差がかなりある2人。

時折、神宮 蓮は足を止め彼女の顔を覗き込む。

そんな神宮 蓮を彼女は満面の笑みで見つめ返す。


周りの雑踏とは全く別世界のように、2人の周りには柔らかくて穏やかな時間が流れているように見えた。


”あの女、なに?”

さっき誰かがそう言ったけど…。

誰の目から見ても、神宮 蓮にとって彼女が特別で大切な存在だという事は、一目瞭然だった。


背が低くて儚げな彼女を守るように回された神宮 蓮の腕がその関係の全てを物語っている。

そんな2人をぼんやりと眺めながら僕はようやく気付いた。


彼女の居場所は、教室の僕の1つ前の席じゃなくてあそこだったんだと…。

凛として強そうなイメージだった彼女が本当はあんなにも弱くて儚げな女の子だったんだと…。

彼女の歩調に合わせているのか、周りの人よりものんびりとしたスピードで歩く2人がゆっくりと僕との距離を縮める。

距離が縮まるにつれて聞こえてくる2つの声。


低くて優しげな声と

鈴の音のような声。


「美桜、腹減ってねぇーか?」

「やだ、蓮さん。さっきご飯食べたばっかじゃん」

「さっきって言ってもももう3時間は経つだろ」

「もう3時間じゃなくて、まだ3時間だよ」

「そうか?」

「そうだよ」

クスクスと楽しそうに笑いをこぼす彼女を見て、神宮 蓮も優しい笑みを浮かべる。


僕はそんな2人から目を離せなかった。

それを幸いにもというのか、不幸にもというのかは分からないけど

多分、彼女は何気なくこっちに視線を向けたんだと思う。


その瞬間、瞬きすらも忘れていた僕は彼女の視線と重なった。

とっさに僕は何かを言わなければいけないと思った。


いや…違う。

どこまでも諦めの悪い僕は、こんな状況にもかかわらず、彼女と話したいと思ったんだ。


…思ったにも関わらずなにを言っていいのかが分からなかった僕の口から出た言葉は

「…こんにちは…」

小さく掠れた声の挨拶だった。


焦りすぎていたのかもしれない。

彼女の隣にいる神宮 蓮が恐かったのかもしれない。


そして、なによりも今、見ているこの状況がショックだったのかもしれない。

僕が発した言葉はとてもじゃないけど、彼女に届くようなものではなかった。

そんな自分を恥ずかしく思う。

情けないとも思う。

こんな事になるなら、彼女に会えないままの方が良かった。


そんなことまで考え始めた僕を彼女は静かにまっすぐに見つめていた。

その視線にすら羞恥心が沸き上がってくる。

この場から逃げてしまおうか


弱くて幼い僕が逃げることを選択しようとしたその時

彼女が小さく会釈をした。


それは本当に小さな動きで、よくよく見ていないと分からないようなものだった。

もしかしたら、見間違いだったのかもしれないと思ってしまうほどの会釈。

だけど会釈をした後、彼女は確かに微笑んでいたと思う。

隣にいる神宮 蓮に向けてじゃなくて斜め前にいる僕に向けられた微笑み。

それでも、神宮 蓮に肩を抱かれている彼女が足を止めることはなく

ゆっくりとしたスピードではあるものの

確実に僕の目の前を通り過ぎていく。


彼女の背中にかかる栗色の髪。

微かに茜色に染まり、軽やかに揺れるその髪を見た僕は

彼女に問いかけようとした。


”新学期になったら、学校に来るよね?”

僕が1番知りたかったこと。

だけど、僕はその言葉を口に出すことができなかった。


僕が口に出そうとするより僅かに早く

「美桜」

低い声が聞こえた。

「うん?」

「どうした?」

「なにが?」

「知り合いか?」

「…」

「美桜?」

正直、僕はかなり緊張していた。


彼女と僕は知り合いなのだろうか?

確かに、僕の基準では、彼女は知り合い以上の部類に入るけど

彼女にしてみると、僕はどういった位置にいるんだろうか?


…ていうか、彼女は本当に分かっているんだろか?

僕が彼女と同じクラスだということを…。

彼女の1つ後ろの席が僕の席だということを…。

…まさか、僕に気付いていないとか…そんなオチじゃないよな?


ただ、目が合ったから会釈をしたとかだったらどうしよう。

僕の緊張は最高潮に達していた。


だから

「…クラスメイト…」

彼女がそう言ってくれたことがとても嬉しかった。


それと同時に僕は胸を撫で降ろした。

クラスメイト

確かに僕と彼女の関係はそれに違いない。

それ以上でもないし

それ以下でもない。


ただ、2度しか会っていない僕のことを彼女が覚えていてくれたことが単純に嬉しかった。


僕は、彼女の背中から視線を逸らし、静かに人の群から離れた。


◆◆◆◆◆


9月1日

長いはずの夏休みが終わり、また繰り返される日常が始まった。

教室に入ると、僕の1つ前の席はなくなっていた。

ずっと空席だったその席自体がなくなっていた。

朝のHRの時に

「…あっ…そう言えば…」

担任が忘れていた何かを思い出したかのように口を開いた。


すっかりざわつき始めていたクラスメイト達が視線だけを担任に向ける。


「紺野は転校したから」


担任は事務的にそれだけを告げた。

理由も転校先も伝えられることはなかった。

それでも、クラスメイト達はなにも尋ねようとはしなかった。

…僕も含めて…。


担任が教室を出ていくと、一気に騒がしくなる教室内。

賑やかな声。

溢れる笑い声。

そこには、クラスメイトが1人減ったという寂しさは全く感じられなかった。

もしかしたら、これで良かったのかもしれない。

こんなところにいるよりも、あの人の側にいる方が彼女は幸せなのかもしれない。


その証拠に、神宮 蓮と一緒にいた彼女はあんなにも楽しそうに、そして幸せそうに笑っていたから…。


もし、またあの繁華街で彼女と会ったら

その時は笑顔で挨拶をしてみよう。


だって僕は、彼女のクラスメイトなんだから…。


ふと見上げた窓の外には真っ青な空が広がっていた。





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